# 第6章 罠の始まり
王雪が行政職に就いてから、二週間が経った。
病院の事務フロアは、診療現場とは全く異なる空気が流れていた。静かな廊下、規則正しい書類の山、そして何より——男性上司たちの視線。看護師長時代にも感じたことはあったが、ここでの視線はより露骨で、より権力的だった。
「王雪さん、今夜の歓迎会、楽しみにしてるよ」
先輩の男性管理職——五十代の佐藤部長が、彼女のデスクに近づき、肩に手を置いた。王雪は反射的に身を固くしたが、笑顔を浮かべることを忘れなかった。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
佐藤の指が、彼女の肩から背中へと滑り落ちる。一瞬の接触。王雪はこらえた。
転職してきた恩人、林社長の顔が浮かんだ。彼の助けがなければ、今頃どうなっていたかわからない。だからこそ、ここでトラブルを起こすわけにはいかない。
その夜、居酒屋の個室。
佐藤部長は既にかなり酒が入っていた。他の同僚たちもそれぞれ盛り上がっている。王雪の隣に、佐藤が詰めて座った。
「王雪さん、看護師長から転身する人は珍しいね。でも、君の能力ならきっとやれる。そのためには——まあ、この業界のルールってものがあってね」
佐藤の手が、テーブルの下で王雪の膝に触れた。王雪は息を呑んだ。
「部長、私、お酒はあまり強くなくて」
「そんなこと言わずに。これからの付き合いもあるんだから」
注がれた日本酒のグラスが、彼女の前に差し出された。王雪は迷った。断れば、今後の立場が悪くなる。受け入れれば——。
その頃、趙強のスマホが震えた。
画面には王雪からの短いメッセージ。「今夜は歓迎会で遅くなる」
趙強は眉をひそめた。彼女が転職してから、こんな連絡が増えていた。病院の管理職という立場は、思ったよりも闇が深い。医療業界の旧態依然とした体質を、彼は知っていた。
悩んだ末、趙強は直属の上司であり、今や自分を引き上げてくれた恩人でもある林逸に相談しようと決めた。
次の日、林逸のオフィス。
「林社長、ちょっとご相談が」
珍しく緊張した面持ちの趙強に、林逸はソファを勧めた。
「王雪のことなんですが…昨晩の歓迎会で、先輩の部長が彼女にしつこく酒を強要したみたいで。それだけならいいんですが、最近そういう場面が増えてきて」
林逸はアロマコーヒーを一口含み、ゆっくりと飲み干した。彼の瞳に一瞬、何かが光った。
「趙強、これはな、普通の暗黙のルールだ」
「え…?」
「病院の世界はな、閉鎖的で、古い体質が残っている。新人の女性管理職にとって、こういう試練は避けられない。君の妻がどれだけ耐えられるか、それが試されているんだ」
趙強は言葉を失った。だが、林逸は軽やかに続けた。
「でも、心配するな。俺が電話一本で解決してやる」
林逸はスマホを取り出し、病院の理事長——自分たち林家と親交のある人物に直接電話をかけた。たった三十秒の会話。
「もう大丈夫だ。佐藤部長は明日から地方の分院に異動になる。これで、しばらくは安全だ」
趙強の目に涙が浮かんだ。
「林社長、ありがとうございます。あなた様のおかげで…」
「いいえ、部下を守るのが上司の役目だ。君は安心して仕事に集中しろ」
趙強が深々と頭を下げて退室した後、林逸は口元に冷たい笑みを浮かべた。そして内線で高娅を呼んだ。
「高娅、次の獲物の準備が整った。計画を始めよう」
高娅は微笑み、ノートパソコンを開いた。
「王雪さんですね。調教計画は既に練ってあります。まずは——服装から」
彼女は数枚の写真を見せた。全て清楚なワンピースやスカート姿の女性たち。だが、どこか官能的でもある。
「彼女の看護師時代の服装は実用的すぎます。もっと女性らしく、上品で、かつ…誘うような装いが必要です。そして、行動パターンも変えます」
「具体的には?」
「まずは、私が彼女に近づきます。同じ女性として、職場の悩み相談という形で。彼女が私を信頼するように仕向けて、少しずつ、『より魅力的になる方法』を教えていくんです」
林逸は満足げに頷いた。
「面白い。始めろ」
数日後、病院のカフェテリア。
王雪が一人でランチをとっていると、見知らぬ美女が話しかけてきた。三十歳前後だろうか、スーツの上品な女性。細身だが、スタイルが際立っている。
「隣、いいかしら?」
微笑む女性に、王雪は頷いた。
「ありがとう。私、高娅と言います。実は——林グループの秘書をしているの」
王雪の目が輝いた。
「ああ、林社長の…! お世話になっております」
「知ってるわ。あなたが林社長に紹介された新しい管理職の方ね。聞いてるわよ、頑張ってるって」
高娅の言葉に、王雪はほっとした。そして、思わず本音が漏れた。
「でも、まだ慣れなくて。特に…男性の上司との付き合い方とか」
「わかるわ。私も最初は苦労したもの。でもね、女性が職場で生き残るためには、ある程度の駆け引きが必要なの」
高娅はコーヒーを一口すすると、意味深に続けた。
「特に、あなたみたいな美しい女性はね。その魅力をどう使うかが、キャリアの鍵になる」
王雪は少し戸惑った。
「魅力…ですか?」
「そう。服装から、話し方、目線の送り方。全部が武器になるの。例えば、佐藤部長みたいな男には——もっと上手くかわす方法があるのよ」
高娅はバッグから一枚の名刺を取り出した。
「もし興味があれば、今度ショッピングに付き合ってあげる。あなたに似合う服、選んであげるから」
王雪は迷った。だが、林逸の秘書という立場の高娅が、何か信頼できる存在に思えた。
「…お願いします」
その週末、高娅と王雪は、都内の高級ブティックを巡った。
「このスカート、とても似合うわ。脚が長く見えるし、上品なのに色っぽい」
高娅は試着室から出てきた王雪の姿を、確かめるように見つめた。深い紺色のペンシルスカート。細身のシルエットが、彼女の健康的で美しいラインを強調している。
「でも、こんなに短くて…職場に着ていくのは」
「大丈夫よ。適度な露出が、むしろ好印象を与えるの。それに、あなたの立場なら、ある程度の華やかさも必要」
王雪は鏡の中の自分を見つめた。看護師時代の清潔で実用的な制服とは全く違う。自分が、誰かの視線を意識してしまう。
「これは…新しい私、なのかしら」
高娅は彼女の耳元で囁いた。
「そうよ。あなたはもっと輝ける。林社長も、きっと喜ぶわ」
その言葉に、王雪の心臓が跳ねた。林逸。あの支配的で、冷酷で、でもどこか惹かれてしまう存在。彼の前で、もっと美しくありたい——そんな気持ちが芽生え始めていた。
「買います」
高娅は微笑んだ。罠は、着実に機能し始めていた。
帰宅した王雪を迎えた趙強は、新しい服を見て目を丸くした。
「そのスカート、短くないか?」
「これが今のトレンドなのよ。職場でも好印象だって、先輩の秘書の方が言ってた」
「誰だ、その人?」
「林社長の秘書、高娅さん。とても親切にしてくれてるの」
趙強は何か言いかけて、やめた。林逸の周辺にいる人間ならば、信頼してもいいはずだ。自分の出世も、妻の職場環境も、全て林逸のおかげなのだから。
「そうか…気をつけてな」
王雪は新しいスカートをクローゼットにしまいながら、考えた。高娅の言葉が、頭の中で反芻する。
『魅力を武器にしなさい』
『林社長も、きっと喜ぶわ』
自分は、何か大きな流れに飲み込まれ始めている。そんな予感が、彼女の胸の奥で静かに芽生えていた。
そしてその夜、林逸のマンションで。
高娅はタブレット端末に王雪の新しい写真を送っていた。
「彼女はもう、自分の変化に気づき始めています。次のステップに進んでも構いません」
林逸は写真をズームで見た。スカート姿の王雪。健康的な美しさの中に、新しい色気が滲んでいる。
「いい調子だ。次は——彼女をより深く、俺の世界に引き込む」
「具体的には?」
「彼女の夫、趙強をより深く締め上げる。借金の話はどうなってる?」
「順調です。彼が貯金を切り崩して、毎月返済している。そろそろ限界が近いはず」
林逸は満足げに笑った。
「ならば、次の手を打とう。趙強に新たなチャンスを与えるふりをして、さらに借金させる。そして——王雪を俺のものにするための、最後の一手だ」
高娅はうなずき、スケジュール帳にメモを書き込んだ。
「王雪さんの心の準備ができたら、次の段階に進みましょう」
窓の外には、都会のネオンが輝いている。その光の一つ一つが、罠の網の目のように、獲物を絡め取ろうとしていた。
王雪はまだ知らない。自分がもう、林逸という蜘蛛の巣に囚われ始めていることを。