# 第四章 裏切りの種
陳墨のオフィスは都心の高層ビルの最上階にあった。一面のガラス窓からは、忙しない街の景色が広がっている。蘇晩晴は革張りのソファに座り、陳墨の向かいにいた。
「また眠気を感じるでしょう。それは治療の正常な反応です」
陳墨の声は低く、一定のリズムを持っていた。彼の指先には小さなペンダントがあり、それがゆっくりと左右に揺れていた。
蘇晩晴のまぶたが重くなる。彼女は何かがおかしいと感じていたが、その思考を捉えることができない。陳墨の声が頭の中に直接響いてくるようだった。
「あなたの記憶には嘘があります。陸辰はあなたのことを利用していたのです」
「陸辰が…私を?」
蘇晩晴の声はかすれていた。心の奥底で何かが激しく抵抗している。しかし、陳墨の言葉はまるで錆びた鍵のように、彼女の記憶の扉を一つまた一つと開けていく。
「そうです。彼は幼い頃からあなたの財産を狙っていました。あなたの会社を乗っ取る計画を密かに進めている」
陳墨は優しく、慈愛に満ちた口調で語りかける。それはまるで子供に教える父親のようだった。
「でも…彼は私と一緒に育ったのに」
「それが最も危険な策略なのですよ、晩晴さん。最も身近な者が最も深くあなたを傷つける」
蘇晩晴の目に一瞬、苦しみの色が走った。彼女の指が無意識にソファの肘掛けを握り締める。その手の甲には血管が浮き出ていた。
「あなたは疲れています。すべてを私に任せてください。私はあなたの味方ですから」
陳墨の言葉が、まるで温かい毛布のように蘇晩晴を包み込む。彼女の抵抗は次第に弱まっていく。
一時間後、蘇晩晴はふらふらとした足取りで陳墨のオフィスを出た。エレベーターに乗り込み、ぼんやりと数字の表示を見つめる。頭の中では陳墨の言葉が反響していた。
『陸辰はあなたを裏切る。陸辰はあなたの敵だ。』
その夜、蘇晩晴は自宅のリビングで陸辰を待っていた。彼がドアを開けて入ってきたとき、彼女の目に一瞬の迷いが走った。
「晩晴、どうしたんだ?顔色が良くないよ」
陸辰が心配そうに近づく。しかし蘇晩晴は無意識に一歩後退した。
「大丈夫。ただ疲れているだけよ」
「そうか…今日の心理カウンセリングはどうだった?」
「良かったわ。とても…リラックスできた」
蘇晩晴の答えは機械的だった。彼女の視線が陸辰の指先に留まる。あの指が自分の首を絞めるイメージが一瞬浮かんだ。
「晩晴?本当に大丈夫か?」
陸辰が手を伸ばそうとした瞬間、蘇晩晴ははっきりとした嫌悪感を覚えた。
「触らないで!」
その叫びに陸辰は驚いて固まった。蘇晩晴自身も、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。ただ、胸の奥で得体の知れない恐怖が渦巻いている。
「すまない…でも、最近お前がおかしいんだ。何か隠しているんじゃないか?」
「何も隠してないわ。ただ…あなたのことがわからなくなっただけ」
蘇晩晴はそう言って、自室に向かった。後ろで陸辰が何か言おうとしたが、彼女はドアを閉めた。
それからの数日間、蘇晩晴の態度は日に日に冷たくなっていった。会話は最小限になり、目を合わせることすら避けるようになった。
「晩晴、明日の入札の準備はできているか?」
朝食の席で陸辰が尋ねた。これは彼らにとって重要な入札で、新規市場への足がかりとなるものだった。
「ええ、もちろん」
蘇晩晴は淡々と答えた。しかし、その目はどこか虚ろだった。彼女の頭の中では陳墨の声がささやき続けている。
『陸辰はあなたの情報を盗む。あなたの戦略を奪う。先手を打たなければならない。』
入札の前夜、蘇晩晴は一人でオフィスに残っていた。彼女は陸辰のノートパソコンを開き、入札書類の最終案を確認した。手が震えていた。正気の部分が警鐘を鳴らしている。
「何をしているんだ、私…」
しかし、もう一人の自分が強く語りかける。
「彼が悪いんだ。彼が先に裏切ったんだ。」
蘇晩晴はスマートフォンを取り出し、一通のメッセージを送信した。宛先は競合他社の重役。内容は陸辰の入札金額と戦略の詳細だった。
送信ボタンを押した瞬間、蘇晩晴の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
翌日、入札会場は緊張に包まれていた。各社の代表が集まる中、陸辰は自信に満ちた表情で席に着いた。蘇晩晴はその隣に座り、無表情で前方を見つめていた。
「それでは、各社の入札金額を発表します」
司会者の声が響く。陸辰は蘇晩晴に軽く頷いた。彼女は無言で書類を差し出した。
結果は惨敗だった。競合他社が陸辰の提示額をわずかに下回る金額で落札したのだ。あまりにも正確な数字だった。
「そんなはずは…」
陸辰は立ち上がり、周囲を見渡した。視線が一瞬、蘇晩晴に留まる。彼女は相変わらず無表情だった。だが、その手が微かに震えていることに気づいた。
「晩晴、まさかお前…」
「何の証拠もなく私を疑うの?」
蘇晩晴の声は冷たく、まるで他人のようだった。その目には、かつての温かさは一片もなかった。
帰りの車の中で、沈黙が重くのしかかる。陸辰はハンドルを握る手に力を込めた。
「なぜだ、晩晴?なぜこんなことをした?」
「私は何もしていないわ」
「昨日の夜、お前はオフィスに残っていただろう?あの後、競合他社が突然戦略を変えたんだ」
蘇晩晴は窓の外を見つめ続けた。ガラスに映る自分の顔が、まるで他人のもののように見えた。
「あなたがいつも正しいとは限らないわ、陸辰」
「お前を信じていたんだぞ!」
陸辰の声が震えた。その苦しみに満ちた声が、蘇晩晴の心の奥深くに届く。一瞬、彼女の表情がゆがんだ。
「信じる…?」
その言葉が頭の中で反響する。何かを思い出しかけた。しかし、すぐに陳墨の声がかき消す。
『信頼は裏切りの入り口だ。彼の言葉に惑わされてはいけない。』
蘇晩晴は頭を振り、強い口調で言った。
「もういい。家に帰して。もう話すことはないわ。」
その夜、蘇晩晴は自室で一人、ぼんやりと天井を見つめていた。頭の中は混乱していた。陸辰との楽しかった思い出が断片的に浮かんでは消える。しかし、それらはすべて陳墨によって「偽りの記憶」だと塗り替えられていた。
彼女は枕元のスマートフォンを手に取り、陳墨にメッセージを送った。
「言われた通りにしました。これで私の心は安らぐのでしょうか?」
すぐに返信が来た。
「よくやったね。これで自由になれる。明日、また会いに来てください。最終段階の治療が必要です。」
蘇晩晴はスマートフォンを握り締めた。胸の奥で、かつての自分が叫んでいる。『間違っている!目を覚まして!』しかし、その声は日に日に小さくなっていた。
窓の外では雨が降り始めていた。雨音がすべてを覆い隠すように、蘇晩晴の良心もまた、闇の中に沈んでいく。
次の日、彼女は再び陳墨のオフィスを訪れた。ソファに座ると、陳墨はいつものように優しく微笑んだ。
「よく眠れましたか?」
「いいえ…悪夢を見ました。陸辰が私を責める夢です。」
「それは良い兆候です。あなたの潜在意識が彼の毒から解放されつつある証拠です。」
陳墨はペンダントを揺らし始めた。その輝きが蘇晩晴の視線を捉える。
「もうすぐすべてが終わります。あなたは完全に自由になります。過去の鎖から解き放たれるのです。」
蘇晩晴の目が徐々に虚ろになっていく。彼女の口元が微かに動いた。
「自由…」
「そうです。自由。束縛からの解放です。」
陳墨の声はますます優しくなる。しかし、その目は冷たく獲物を見つめる蛇のように光っていた。
「あなたは強い女性です。ただ、間違った者に忠誠を誓っていただけです。今、あなたは正しい道を見つけたのです。」
蘇晩晴の抵抗は完全に消え去った。彼女の心は、陳墨によって巧みに植え付けられた「真実」で満たされていた。
「私は…何をすればいいの?」
「ただ、私の言う通りにすればいい。それだけで、あなたは守られる。」
陳墨は満足げに微笑んだ。彼の手の中には、かつて蘇晩晴と呼ばれた強者の魂があった。それを自分の思い通りに形を変える喜びが、彼の全身を駆け巡っていた。
雨はまだ降り続いていた。都心の高層ビルの一室で、裏切りの種が芽を出し、その根を深く伸ばしていく。そして、その種を植えた者も、いずれは刈り取ることになる運命だと、誰も知る由もなかった。