ネロ・クラウディウスは、大理石の廊下を一人歩いていた。かつてローマの競技場で万雷の拍手を浴びたこの声は、今やカルデアの冷たい空気の中に虚しく消えていく。彼女の足音は規則正しく響くが、その心臓は不規則に疼いていた。
数週間前までは、マスターは彼女を頻繁に召喚した。戦場で彼女の紅蓮の剣が煌めき、敵を薙ぎ払うたびにマスターは「さすがだ、ネロ」と褒めてくれた。その言葉が何よりの糧だった。しかし、いつからだろうか。マスターの瞳に映る自分が、次第に薄れていったのだ。
管制室の前を通りかかる。半開きのドアの向こうから、マスターの笑い声が聞こえてきた。
「アルトリア、その一撃は見事だ。 Sword of Promised Victory の威力は相変わらずだな」
「マスターの指示があってこそです」
アルトリア・ペンドラゴンの凛とした声が続く。ネロは唇を噛んだ。あの金髪の女騎士は、いつも穏やかな微笑みを浮かべてマスターの隣に立っている。あの聖剣も、あの気品も、すべてがネロの神経を逆なでした。
さらに奥からは、ジャンヌ・ダルクの透き通った声が聞こえる。
「主よ、今日の祈りをお聞き届けください」
「ありがとう、ジャンヌ。君の聖性はいつも心を洗われるよ」
マスターの優しい声音が、ネロの胸を鋭く刺す。かつては自分だけに向けられていたその声が、今は他の女たちに注がれている。ネロは自分の頬を伝う涙に気づかずに、その場を立ち去った。
廊下の角を曲がると、スカサハとすれ違った。影の国の女王は、その紫紺の長髪をなびかせ、クールな美貌に微かな笑みを浮かべていた。
「おや、薔薇の皇帝様。今日もご機嫌麗しゅう」
「…黙れ、死の女神。我の前を塞ぐな」
ネロは肩をぶつけるようにして通り過ぎた。スカサハの低い笑い声が背中に突き刺さる。あの女も、マスターの目を奪っている一人だ。その鍛え上げられた肢体と、どこか謎めいた雰囲気が、マスターを惹きつけてやまない。
ネロは自分の部屋に戻ると、鏡の前に立った。白と金のドレスは、ローマ時代よりさらに華やかに装飾されている。胸元には大きな薔薇の飾り。腰にはリボン。髪には金の髪飾り。完璧だ。彼女はそう信じていた。
翌日、ネロはより一層派手なドレスに着替え、廊下で声高に歌い始めた。歌声はアーチ型の天井に反響し、カルデア中に響き渡る。
「♪ 我が名はネロ・クラウディウス! ローマの薔薇、世界の至宝! この声を聞け、万民よ!」
何人かの職員が顔を出したが、すぐに仕事に戻る。マスターは現れない。ネロは唇を噛みしめ、今度はマスターの部屋の前でわざと転んだ。派手な音とともに床に倒れ込む。ドレスが乱れ、髪飾りが外れた。
「ああっ! マスター、助けてください! ネロが倒れました!」
数秒の沈黙。ドアが開く。マスターが出てきた。ネロの心臓が高鳴る。
「ネロ…また転んだのか?」
「はい! この華奢な身体では、どうしても足がもつれてしまいます! マスター、どうか手を…」
マスターはため息をつき、手を差し伸べた。その手は冷たく、視線はどこか虚ろだった。
「立て。医務室に行くといい」
「マスター! もう少し優しくしてくれても…」
「仕事がある」
マスターはそれだけ言うと、部屋に戻ってドアを閉めた。ネロは床に座り込んだまま、その一連の動作を見つめていた。胸の奥で何かがひび割れる音がした。
それから数日、ネロは自室に引きこもった。かつて「万能の天才」を自称した薔薇皇帝は、今やその誇りを喪失しつつあった。何をしても無駄だ。何をしてもマスターの目には留まらない。他のサーヴァントたちが持つ魅力—アルトリアの騎士王の威厳、ジャンヌの聖女の清らかさ、スカサハの影の国の神秘—それらに比べて、自分には何があるのか? 芸術? 美貌? それらはすべて、マスターの前では色あせて見えた。
ある深夜、ネロは眠れずに廊下を歩いていた。カルデアの静寂は異様に深く、自分の足音さえも重く響く。ふと、マスターの部屋の前を通りかかった。ドアがわずかに開いている。光が漏れ出ている。ネロは立ち止まった。好奇心が抑えられず、彼女はこっそりと中を覗き込んだ。
息を呑んだ。
マスターは椅子に座っていた。その膝の上に、清姫が座っている。白い着物を纏った清姫の腹には、一振りの短刀が深々と突き刺さっていた。血が白い布を濡らし、床にしたたり落ちるのではなく、マスターの腹の上に流れ落ちていた。さらに、内臓が傷口から零れ出し、ぬめるようにマスターの腿の上に広がっている。
マスターはそれをじっと見つめていた。両手でその内臓を揉み、指を絡めて掻き出す。その動きは優しく、まるで愛撫するかのようだった。マスターの目は、ネロが見たことのない光を放っていた。狂気とも恍惚ともつかない、深く燃える炎のような輝き。
清姫は、愛撫のような喘ぎ声を絶え間なく発していた。
「ああ…マスター…もっと…もっと深く…」
「清姫…お前は美しい…この痛みが、お前の愛を証明している…」
マスターの声は低く、甘美だった。ネロは全身が凍りつくのを感じた。恐怖ではない。それはもっと別の感覚だった。胸の奥で何かが激しく鼓動し、全身に電流が走る。彼女の瞳は、その光景に釘付けになった。
—そうか。これだったのか。
ネロはゆっくりと後退し、静かにその場を離れた。自室に戻る足取りは迷いがなかった。彼女は端末の前に座り、指を震わせながらキーボードを叩いた。検索窓に、ある言葉を打ち込む。
『切腹』
画面に飛び込んだ最初の一行に、彼女は目を大きく見開いた。
「切腹、日本武士道文化における最も崇高な死の儀式。刃で腹を切り裂き、魂の潔さと意志の強さを示す。」
ネロの呼吸が荒くなった。恐怖ではない。興奮だった。彼女はさらにスクロールする。そこには詳細な手順が記されていた。どのように刀を持ち、どの方向に切り裂くか。どのような姿勢で行うか。どのような意味が込められているか。
「おのれの内臓を見つめ、自らの誠を示す…」
ネロの唇が微かに震える。彼女は鏡を見た。そこに映る自分は、目を爛々と輝かせていた。何かに憑りつかれたように、頬が紅潮している。
彼女はついに見つけたのだ。自分を再びマスターの視線の焦点にする、究極のパフォーマンスを。
「くく…ははは…」
笑い声が部屋に響く。涙が頬を伝う。それは喜びの涙だった。
「清姫…あの女がやったことを、我もやろう。だが、我はもっと完璧にやる。我は芸術家だ。最高の舞台を整える。マスター…あなたの目の前で、我は最も美しい死を演じてみせる」
ネロは立ち上がった。鏡の中の自分に、優しく微笑みかける。
「待っていてください、マスター。すぐに、あなたの視線を独り占めにしてみせますから」