支雅は食卓の向こうで、箸を持つ手を止めた。テーブルにはまだ温かい料理が並んでいるが、彼女の食欲はすでに半減していた。娘の丫丫が、学校での出来事を楽しそうに話している。その口調は弾んでいて、目はキラキラと輝いている。
「今日ね、張先生がね、国語の時間に私の作文を読んでくれたんだよ。『私の夢』っていう作文でね、私、将来はバレリーナになりたいって書いたの。そうしたら張先生がね、『素晴らしい夢だね、叶うといいね』って言ってくれたの」
支雅の手の中で、箸が微かに震えた。バレリーナ。その言葉が彼女の胸を刺す。かつて自分もそう呼ばれていた——そして今は、その夢を娘に託すことすらままならない現実がある。
「そう……よかったわね」
上の空で返事をしながら、支雅は内心で複雑な思いが渦巻くのを感じていた。張先生、張先生。今日だけで何度その名前を聞いただろうか。まるで娘の口癖のように、彼女の名前が何度も何度も繰り返される。
「それでね、張先生が言ってたんだけど、来月の学芸会で、クラスのみんなで劇をやるんだって。張先生が脚本を書いてくれてね、私、主役に選ばれたんだよ!」
「主役?」
支雅は顔を上げた。それは誇らしいことのはずなのに、なぜか心がざわつく。自分が娘の一番の理解者でありたいと願うのに、今日のところ、娘から一度も「ママが好き」という言葉を聞いていない。張先生は何度も名前が出てくるのに。
「うん、張先生がね、私のことを『表現力がある』って褒めてくれたの。すごく優しいんだよ、張先生は」
その言葉に、支雅の胸の中に黒い感情が湧き上がる。嫉妬だ。認めたくないが、確かにそれは嫉妬だった。娘が自分よりも他人を褒める。自分よりも他人に夢中になる。その事実が、まるで鋭い刃のように彼女の心をえぐる。
「でもね……張先生ってば、時々ちょっと変なところもあるんだよね」
丫丫が声を潜めて言った。支雅はその言葉に耳を傾ける。
「どういうこと?」
「だって、時々、すごくじっと私のこと見てるの。目が、なんか怖いんだ。でもね、それ以外は本当にいい先生なんだよ」
支雅の眉がひそむ。娘の言葉の端々から、その張先生という女性に何か違和感を覚え始めていた。軽薄な感じがする。娘を褒めるのも、何か裏があるのではないか。もっと深いところで、彼女は直感的に危険を感じ取っていた。
「私、張先生が大好きなんだ」
丫丫が嬉しそうに言ったその瞬間、支雅の手の中で箸がテーブルに落ちた。カチャリという音が響く。大好き。その言葉が、まるで氷の杭のように彼女の胸に突き刺さる。
「そんなに張先生が好きなら、もうママのことは嫌いなの?」
思わず口にした言葉が、思ったよりも尖っていた。丫丫は驚いた顔で母親を見る。
「違うよ、そんなこと言ってないよ」
「でも、『ママが好き』って一度も言ったことないわよね。今日は何度も何度も張先生、張先生って……」
支雅は言い過ぎたことに気づいたが、もう止まらなかった。娘の顔が曇る。無邪気な笑顔が、次第に翳っていく。
「ママはいつもそうなんだ」
丫丫が小さな声でつぶやいた。その声には、幼さの中に微かな怒りが混じっていた。
「何を言ってるの?」
「ママはいつも、誰かが私を好きになると、その人のことを悪く言うんだ。パパのこともそうだった」
その言葉に、支雅は凍りついた。パパ。彼女が必死に忘れようとしてきた存在。駆け落ちして娘を産み、それからすべてを失った。その原因となった男のことを、娘が突然口にしたのだ。
「違うわ。あれはね——」
「もういいよ。私、宿題あるから」
丫丫は立ち上がり、皿を片付け始めた。支雅はただ呆然とそれを見つめるしかなかった。娘の背中は、まだ小さくて頼りないのに、その態度には明らかに自分を拒絶する壁が感じられる。
「丫丫、話を聞いて——」
「いいの。ママはいつもそうだから。私が誰かを好きになると、その人を悪く言う。先生のこともそうなんでしょ?」
その言葉に、支雅は口を閉ざした。確かに、彼女は張先生に対して偏見を持ち始めている。娘が誰かを愛する度に、嫉妬心が湧き上がる。それは自分だけのものにしたいという独占欲だ。自分が娘にとって一番でありたい。誰にも譲りたくない。そう思う自分がいる。
「私はただ、あなたを守りたいだけなのよ」
「誰から守るの? 先生から? あんなに優しい先生なのに?」
丫丫の言葉は、支雅の心に深く突き刺さる。彼女は唇を噛みしめた。優しい? 本当にそうなのか? あの軽薄な笑顔の裏に、何かが隠されているような気がしてならない。しかし、それを娘に説明する言葉が見つからない。
「もういいよ。私、自分の部屋に行くね」
そう言って、丫丫は階段を上がっていった。その足音が小さくなるにつれて、支雅の心も沈んでいく。残された食卓には、冷めた料理が静かに置かれている。窓の外では、夜の闇が深くなっていく。
支雅は深く息を吐いた。嫉妬。それは醜い感情だ。認めたくない。しかし、確かに彼女の心の中で根を張っている。そして、その嫉妬が芽生えた土壌には、もっと深い何かが埋まっているような気がした。
窓の外をふと見やると、街灯の明かりの下で、誰かの影が一瞬動いた気がした。支雅は目を凝らしたが、そこには誰もいなかった。気のせいだろう。しかし、なぜか背筋に寒気が走った。まるで、何かが始まろうとしている予感がする。
その夜、支雅は眠れぬ夜を過ごした。同じ頃、丫丫の部屋では、彼女がひそかにスマートフォンを操作して、何かを打ち込んでいる。画面の向こうで、張先生からのメッセージが光っていた。その内容は、誰にも知られてはならないものだった。