その日、連邦の空は鉛色に曇っていた。最新の社会通念に基づき、連邦議会は『債務奴隷法』を可決した。これにより、連邦市民は債務返済の手段として、自らの意志で身売りすることが認められた。法律の表向きの目的は、貧困層に救済の道を開くことだった。しかし、その実態は、闇市場で人身売買を合法化する抜け道として機能していた。
蘇家の屋敷は都心の高級住宅街にあったが、この日の夕暮れ、周囲の静寂を破って装甲車両の轟音が響き渡った。銃弾が門扉を打ち抜き、窓ガラスが粉々に砕け散る。二階の書斎で読書していた蘇晴は、机の下に飛び込んで震えた。階下からは怒号と悲鳴が交錯し、家具が倒れる音が断続的に聞こえてくる。
「晴、逃げるんだ!」
父親の断末魔の叫びが床板を貫いて届く。蘇晴は震える手で壁のパネルを押し開け、隠し階段を駆け下りた。家族の闇事業――奴隷売買――の真実は知っていたが、それを疑う余裕はなかった。裏庭に出ると、いつもの奴隷輸送車がエンジンをかけていた。積み荷の幌の中に飛び込み、木箱の隙間に身体を押し込む。息を殺して数秒後、トラックは急発進した。
衝撃で蘇晴は意識を失った。
目を覚ますと、車内はがたがたと揺れ、外からは波の音が聞こえる。幌の隙間から覗くと、見慣れない港の風景が広がっていた。連邦の奴隷管理制度では、身売りした奴隷は指定された管理島の施設に収容される。蘇家と仇家は、この制度を悪用して、高額のカスタム奴隷を顧客に提供していた。
蘇晴は自分が、そんな施設に送られる貧しい娘たちと間違えられたことを悟る。この船は、金持ちの道楽のための「カスタム奴隷」を育成する島へ向かっているのだ。彼女の身分を証明するものは、仇家の襲撃で全て失われていた。
船が島に着き、桟橋で待つ連邦制服の職員たちが荷物を改める。蘇晴は他の奴隷たちと一緒にリストに記載され、そのまま収容所へ連行された。連邦法に基づき、一度奴隷として登録されると、債務返済または購入者による解放が完了するまで、その身分から抜け出すことはできない。仮に蘇家の生存者がいれば身分確認も可能だが、情報が仇家に漏れれば命はない。
施設内は簡素な鉄筋コンクリートの建物で、金属製のベッドが整然と並ぶ。教官の阿麗と呼ばれる女性が、無表情で奴隷たちを点検していた。彼女の目は鋭く、感情の微塵も見せない。蘇晴は顔を伏せ、他の者と同じように振る舞う。二重のアイデンティティ――表向きは名家の令嬢、内面は奴隷として生き延びる覚悟――が、ここで初めて形を成した。
その夜、蘇晴は便所の個室で、唯一の味方である執事の老陳の助けを待った。だが、老陳は奴隷島の内部事情を知りながらも、システムのルールを変えることはできない存在だ。彼は蘇晴に密かに通信機を渡すことができたが、それも限界だった。
「お嬢様、どうか耐えてください。こちらで手を回しますが、時間がかかります。」
通信機の向こうから、老陳の声が震えていた。
蘇晴は涙を拭い、歯を食いしばった。装うことしか生き延びる術はない。自分がここにいることが、奴隷制度の根幹を揺るがす証拠になる。それまでは、奴隷としての表情を覚え込み、奴隷としての動作を習得し、奴隷としての自分を殺さねばならない。
翌朝、阿麗の鋭いホイッスルが収容所に響き渡る。訓練が始まる。蘇晴は、自分が名家の令嬢であることを完全に忘れ、一介の奴隷として振る舞った。だが、その目の中の光はまだ消えていなかった。奴隷島の鉄柵の向こうに、連邦の法律の抜け穴と、人間の欲望が織りなす闇が広がっている。彼女の逃亡と迷い込みは、運命の大きな歯車が動き始めた瞬間だった。