紅月グループの本社ビル、最上階の社長室。一面のガラス張りの窓からは、都心の摩天楼が陽光を反射して輝いている。紅児は黒いパンツスーツに身を包み、デスクに積まれた決算報告書に目を通していた。鋭い目つきで数字を追いながら、手にしたペンで時折机を軽く叩く。
「今期の利益率は想定を上回っているわね。」
向かい側で書類を整理していた月児が、柔らかな声で応じた。クリーム色のブラウスに白いスカートという清楚な装いが、彼女の優しげな雰囲気を一層引き立てている。
「ええ、でも物流コストがまだ高い。来期はアジア圏のルートを再編成したいのだけれど。」
紅児がそう言いかけた時、室内に控えめな電子音が響いた。デスクの端に置かれた受信機が、一通のメッセージの到着を知らせている。
「なにかしら。」
月児が立ち上がり、受信機に手を伸ばす。指先で操作すると、空中にホログラムが浮かび上がった。漆黒の背景に、銀色の文字が荘厳なフォントで記されている。
『世界秀色クラブより、紅月グループ共同社長 紅児 様、月児 様へ。年に一度の秀色祭典を開催する運びとなりました。両名を特別賓客としてご招待いたします。日時は来月の満月の夜。場所はクラブ専用の離島にて。何卒ご出席賜りますよう、謹んでお願い申し上げます。』
文字が消えると、代わりに一枚の装飾的な招待状の画像が浮かんだ。金と銀の細工が施されたその表面には、人間の身体を思わせる曲線が美しく描かれている。
「……何、これ。」
紅児の顔色が一瞬で変わった。彼女は立ち上がり、ホログラムを睨みつける。
「秀色祭典? あの忌々しい、人間を食い物にする儀式のこと?」
「落ち着いて、紅児。」
月児が制するように手を上げた。しかし、紅児は怒りを抑えきれず、近くにあった金属製のペンスタンドを掴むと、ホログラムに向かって投げつけた。映像が一瞬乱れ、後に消えた。
「私は絶対に行かない。そんな野蛮な悪習に関わる気はないわ。」
彼女は机の端に置かれた物理的な招待状——いつの間にか届いていたらしい——を掴み、力任せに引き裂いた。紙が鋭い音を立てて破れ、金色の破片が床に散らばる。
「紅児!」
月児が慌てて駆け寄り、破片を一枚一枚拾い集める。彼女の指が震えていた。
「あなたはあのクラブの力を知っているの? 世界最大の秀色クラブよ。世界中の政財界に人脈を持ち、経済の要所を押さえている。断れば、私たちの取引ルートがどうなるか。」
「脅すの? あんな儀式のせいで、私たちが屈服すると思ってるの?」
紅児の声が部屋に響く。しかし、その目はわずかに揺れていた。彼女の胸の奥で、かつて見た秀色の儀式の映像がよぎる。あの恍惚とした表情を浮かべる人々。彼らは自らの肉体を捧げ、それを食らう者たちもまた、涙を流しながら感謝の言葉を口にしていた。何が美しいのだろう。何が芸術だ。あれはただの殺戮と食害だ。
「私は理解している。あなたの気持ちは。」
月児が優しく、しかし強い口調で言った。彼女の目が真剣に紅児を見つめる。
「私もあの習慣は好きじゃない。でも、私たちには紅月グループを守る責任がある。社員は一万人以上。その家族も含めれば、数万の命がかかっているのよ。」
紅児は唇を噛みしめ、窓の外を見た。街はいつも通りに動いている。人々は日常を生き、幸せを噛みしめている。そのために、自分たちはどれだけの努力をしてきただろう。
「それでも、私は——」
その瞬間、室内に再び電子音が響いた。今度は、直接的な通信だった。空気が振動し、デスクの前に一つの人影がホログラムとして浮かび上がる。
それは男だった。背筋の伸びた優雅な姿勢。黒いスーツに銀色の髪が印象的だ。顔は半分が影に隠れ、その口元には品のある微笑みが浮かんでいる。彼は深々と一礼した。
「紅児様、月児様。突然のご連絡、失礼いたします。私は世界秀色クラブ、現代表を務める者です。」
「……あなたが。」
紅児が警戒して身構える。月児も無意識に彼女の前に一歩踏み出していた。
「招待状、ご覧いただけましたか。私どもの祭典は、何よりも芸術性を重視しております。ただの饗宴ではございません。生命の美しさを称え、その一瞬の輝きを永遠に留める——それが私たちの信条です。」
「ふざけないで。」
紅児が噛みつくように言った。しかし、男は動じず、穏やかな口調を続ける。
「誰にも強制はいたしません。あくまでご自身の意思でお越しいただくことを願っております。ただし——」
彼の微笑みがわずかに深まる。
「紅月グループは多くの国際取引ルートを有していますね。最近、いくつかの国で貿易協定の更新が控えていると伺いました。もし、この地域でのクラブの活動にご理解いただけないなら、他のパートナーとの関係を強化せざるを得なくなるかもしれません。」
「脅迫する気?」
月児が鋭く問いかける。男は軽く首を振った。
「お互いの利益を考えた上での提案です。クラブは平和的な共存を望んでいます。共に祭典を楽しみ、後にまた良好な関係を築けるなら、それに越したことはありません。いかがでしょう、観覧者としてご出席いただくだけでも。直接の参加は求めません。」
紅児は拳を握りしめた。自分の身体が震えているのがわかる。この男の言葉は、すべて計算されつくしている。断れば、確かに紅月グループは大きな打撃を受けるだろう。しかし、屈すれば、自分の信念が汚される。
「私たちは——」
月児が口を開きかけた時、紅児が遮った。
「わかった。行くわ。」
月児が驚いて紅児を見る。紅児は唇を噛み、震える声で続けた。
「観覧者として出席する。でも、あんたたちのやり方をただ見ているだけじゃない。あの奇怪な文化を変える方法を探してやる。もし、私たちの目に余るようなことがあれば、全力で阻止する。」
男は満足そうに頷いた。
「賢明なご判断です。では、当日お迎えにあがります。どうぞ、素敵なひとときをお過ごしください。」
ホログラムが消える。室には沈黙が広がった。
「紅児……」
月児がそっと彼女の手を握る。紅児はその手を強く握り返しながら、窓の外を見続けていた。彼女の心の中で、恐怖と怒り、そして、どこか聞こえない欲求が渦巻いている。自分を捧げる——その言葉が頭の中に浮かんでは消える。いや、そんなことは絶対にない。私は紅月グループのトップだ。自分の身体も、意志も、すべて自分で守る。
「行きましょう、月児。」
紅児が静かに言った。
「あの祭典で、秀色がどれほど愚かで醜いか、自分の目で確かめてやる。そして、それを変える力を示してやる。」
月児は答えず、ただ紅児の手を握る力を強めた。二人の社長は、互いに寄り添うように窓辺に立っていた。夕陽が街を赤く染め始め、その影が長く伸びていた。明日から始まる旅が、彼女たちの運命を永遠に変えてしまうとも知らずに。