月児は白いサテンのスリッパを忍ばせ、大理石の廊下を滑るように進んだ。父の製薬会社の本部ビルは、表向きは最先端の研究施設だが、地下には決して触れてはならない領域があることを、彼女は幼い頃から薄々感じていた。今夜、執事たちの目を掻い潜り、社員証を偽装して地下へのエレベーターを呼び出した。
エレベーターの扉が無音で開くと、冷たい滅菌空気が鼻腔を刺した。地下二階、普段は研究員すら立ち入りを制限される区画だ。廊下は薄暗く、蛍光灯の一部が切れかけていた。壁には「関係者以外立入禁止」のプレートがいくつも貼られている。月児は唇を噛みしめ、足音を潜めて進んだ。
ふと、右手の壁に金属製の扉があるのに気づいた。取っ手もなく、一見すると非常口のようだが、埋め込まれた認証パネルが生体認証式であることを示している。月児は自分の指紋と虹彩が、父のシステムに登録されているのを思い出した。試しに親指を当てると、パネルが緑色に光り、扉が内側に開いた。
中は広い部屋だった。天井は高く、壁一面に奇妙な仕切りが規則正しく並んでいる。月児は息を呑んだ。それはまるで、人間の胴体を固定するための枠組みのように見えた。壁には無数の穴が空いており、それぞれに拘束具と、何かを注入するためのカテーテルが装備されている。部屋の中央にはモニターが設置され、生体データと「試作品β-7」というラベルが表示されていた。
「なに……これ……」
月児が後ずさろうとした瞬間、背後で静かな機械音が響いた。麻酔ガスだ。彼女は反射的に口を押さえたが、すでに肺は異臭を含んだ空気を吸い込んでいた。視界が歪み、膝から力が抜ける。床に倒れる前に、意識は暗転した。
次に月児が目を覚ました時、彼女の頬は冷たい金属に押し付けられていた。強烈な眩暈と吐き気。自分の体が垂直に固定されていることに気づくまでに数秒かかった。首から下は硬質の枠に密着し、両腕は手首を拘束されている。何より恐ろしかったのは、顔の部分だけが壁の穴から外側に露出していることだ。つまり、彼女の全身は壁の向こう側に隠され、顔だけが部屋に面している――まさに壁尻の状態だった。
「開け……て……」
声が掠れて出ない。口の中にはガーゼのようなものが詰められていた。視界の隅に、白衣を着た男のシルエットが映る。男はモニターを操作しながら、無造作に端末を叩いている。
「また新機能の確認か? 今回は顔がいいな。試作品No.59、フェイスユニット、仕様通りだ」
男はそう言いながら、月児の頬を指で撫でた。月児は恐怖で硬直した。この男は、私を人間だと思っていない。ただの実験体として扱っている。そう悟った瞬間、怒りよりも先に、信じられないほどの屈辱が全身を駆け巡った。
やがて部屋に人がいなくなる時間帯があった。月児は必死に精神を集中させ、まぶたを閉じて頭の中のコンソールを起動しようとした。月家の令嬢として与えられた特権――自宅のビル管理AIへの直接リンク。彼女は脳内で命令を発した。
「AI、認証コード。月児。私の現在位置を特定し、この拘束を解除しなさい」
数秒後、部屋のスピーカーから中性的な機械音声が返ってきた。「マスター月児を確認。一時的な身体拘束状態を検出。安全プロトコルにより、直ちに解放を開始します。」
拘束具のロックが外れ、金属製の枠が自動的に開いた。月児は床に両手をつき、激しく咳き込んだ。胃の中のものがこみ上げる。顔を上げると、壁の穴の向こう側には、無数に並ぶ同じような枠組みが見えた。そこには、生きた人間が嵌め込まれるのだ。
「ありがとう……AI。この記録は消去して。私がここに来たことは、父にも、他の誰にも知られてはいけない」
「了解しました。該当時間の監視記録は上書きします。ただし、マスター月児。あなたの父、月社長には上層部のセキュリティログが別途存在します。私の権限ではそれを改ざんできません。」
「それでいい……今は逃げる。もし父が知ったら、その時はその時だ。」
月児はよろめきながら立ち上がり、自分の衣服を整えた。スカートは乱れ、ストッキングは破れていた。鏡を見ると、自分の顔には機械に押し付けられた赤い痕がくっきりと残っている。それを見て、彼女は不意に笑った。高慢な令嬢の仮面の裏で、何かがひそかに震えている。恐怖、屈辱――そして、それらを超えた場所にある、甘美な熱。自分は今、父の支配する世界の真実を覗いてしまった。それは禁断の果実のように、彼女の舌に苦さと甘さを同時に残した。
「…やっぱり、この家は壊れてる。でも、私も、自分が何に惹かれてるのか、もう分からなくなった。」
月児は震える手で髪を整え、エレベーターへと歩き出した。足音は一人分だけが、冷たい廊下に響いていた。