正邪の大戦が終わりを告げて久しかった。あの激闘の果てに闇の神は完全に消え去り、人界と仙界の間には決して越えられぬ隔たりが生まれた。かつて東方の地を守護した神娃たちは、その神力のほとんどを捨てて、人としての生を選んだ。光の神娃であった龍娃も、知恵の神娃であった鳳娃も、今はただの人間である。
小さな村の片隅に、龍娃は守衛として日々を過ごしていた。若い頃の面影を残しつつも、年月は彼の身体をさらに逞しく鍛え上げていた。日に焼けた肌は健康的な小麦色に輝き、引き締まった筋肉は武具の下でも分かるほどだった。村人たちは彼を信頼し、彼の存在こそが村の平和の証だと噂していた。
龍娃は朝の巡回を終え、村の広場に立っていた。遠くから子供たちの笑い声が聞こえる。その中に混じって、優しい女性の声が響いてくる。
「さあ、今日は神話の話をしましょうか」
鳳娃だった。彼女は村の教師として、幼い子供たちに文字や歴史を教えていた。以前の神娃としての記憶を頼りに、彼女は人としての知識を子供たちに授けている。かつての知恵の神娃は、今や長身の佳人へと成長していた。すらりとした肢体は絹のような滑らかさを帯び、長く伸びた黒髪は風に揺れて艶やかに光る。彼女が教壇に立つ姿は、まさに一幅の絵のようだった。
龍娃は彼女の姿を目で追い、すぐに視線を逸らした。胸の奥が痛む。長年抱えてきた想いを、彼は決して表に出そうとはしなかった。元神娃である身分が、それを許さなかったのだ。
一方、鳳娃もまた、龍娃に対して密かな恋心を抱いていた。彼が村を巡回する姿を見るたび、心臓が高鳴る。しかし彼女もまた、教師としての立場を守るため、感情を押し殺していた。
「龍娃さん、巡回お疲れ様です」
声をかけられた龍娃は、振り返って軽く会釈した。
「ああ、鳳娃さんもお疲れ様です。子供たちは元気ですね」
「ええ、でも最近はやんちゃが過ぎて困ることもありますよ」
穏やかな会話を交わす二人の間には、どこか距離があった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。互いに感じ合っている想いを、決して口にしてはならない掟のように。
その夜、空が異様な色に染まった。西の空が不気味な紫色に輝き、やがて一筋の流星が大地へと落下した。轟音と共に衝撃が村全体を揺るがす。龍娃はすぐに武器を手に取り、外へ飛び出した。
「何だ、あれは……!」
落下地点からは紫色の瘴気が立ち上っている。龍娃は村人たちを避難させると、自分は単身で調査に向かおうとした。しかしその時、背後から息を切らせた鳳娃が駆け寄ってきた。
「龍娃さん、待ってください! あれは只事じゃありません。私も行きます」
「いや、ここにいろ。万が一のことがあったら」
「でも!」
龍娃は首を振り、無理やり笑顔を作った。
「大丈夫だ。すぐに戻る」
彼は走り去った。鳳娃はその背中を見送りながら、胸にざわつくものを感じていた。何かが、間違いなく何かが起きている。彼女の体内にかつて宿っていた神力の残滓が、かすかに反応していた。
鳳娃は決断した。龍娃一人に行かせるわけにはいかない。彼女は村の外れにある小さな祠から隠し持っていた古の短剣を取り出すと、龍娃の後を追った。
落下地点に近づくにつれ、空気は濃密な闇の気配で満たされていた。紫色の触手が地面から蠢き、周囲の草木を蝕んでいる。巨大な陥没孔が開いており、その内部からは底知れぬ魔気が吹き出していた。魔窟――それがこの場所の正体だった。
龍娃は魔窟の縁に立ち、内部を覗き込んでいた。彼の顔には緊張が走っている。その時、彼の背後から声がした。
「龍娃さん!」
鳳娃だった。彼女は荒い息を整えながら近づいてくる。
「なぜ来た!? 危険だ、戻れ!」
「そんなことを言っている場合ではありません。あなたを一人で行かせられない」
二人の視線が交錯する。その瞬間、魔窟の内部から強烈な吸引力が発生した。紫色の触手が一斉に伸びて二人を巻き込もうとする。龍娃は体を捻って触手を避けたが、鳳娃は勢い余って足を滑らせた。
「あっ……!」
彼女の身体が魔窟の闇に飲まれる。龍娃はとっさに手を伸ばしたが、指先が彼女の手を掠めただけだった。
「鳳娃――!」
彼の叫びは虚しく、魔窟の中に吸い込まれていった。鳳娃の姿は瞬く間に闇の中に消え、後には紫色の瘴気だけが立ち込めていた。
龍娃は膝をつき、拳を地面に打ち付けた。唇を噛みしめ、血の味が広がる。何もできなかった無力さが、彼の心を激しく苛んだ。
「必ず……必ず助け出す」
彼の目に、かつての光の神娃としての決意の炎が揺らめいた。しかし、その先に待つ真実を、龍娃はまだ知らなかった。鳳娃が魔窟の奥で、いかなる運命に巻き込まれようとしているのかを。