A国最大手テクノロジー企業「彩雲科技」の本社ビル最上階にある会議室は、重苦しい空気に包まれていた。巨大なガラス窓の向こうには摩天楼が立ち並ぶが、室内にいる者たちの視線はすべて中央に座る一人の女性に注がれている。
張彩児──この企業の若き女社長は、細い指先でプロジェクターに映し出された一枚の資料を指し示した。そこには、b国との巨額契約交渉が目前に迫っていること、そしてb国の法規に「女性は男性の保護下に入国すべし」という、時代錯誤も甚だしい条文が明記されていた。
「要するに、私が単独でb国に入ることは不可能だと言うのね」
彼女の声は静かだった。だが、艶やかな黒髪の下に光る瞳には、鋭い光が宿っている。
テーブルを囲む重役たちは一様にうつむき、誰も口を開こうとしない。法務部長が恐る恐る口を挟んだ。
「はい……b国はいまだに男性優位社会を維持しており、女性がビジネス目的で入国する場合も、必ず『男性の同伴者』が必要です。しかも……」
「しかも?」
張彩児が冷たく促すと、法務部長は額の汗を拭いながら続けた。
「単なる同伴ではなく、『所有関係』を証明する必要がございます。具体的には、婚姻関係、親族関係、あるいは……奴隷契約です」
室内にどよめきが走る。奴隷契約──二十一世紀の国際社会において、そんな言葉が存在すること自体が異常だ。しかしb国は自国の特殊な文化を国際貿易の場にまで押し付けており、この条件を呑まなければ一切の交渉が成立しないのだ。
張彩児はゆっくりと資料を閉じ、背もたれに深く凭れかかった。胸元を飾るシルバーのペンダントが、照明に冷たく光る。
「この契約が成立しなければ、当社は来期の海外売上げの四割を失う。サプライチェーン全体が崩壊するわ。どんな手段を使ってでも、私はb国に行かなければならない」
彼女は決断を下した女の顔だった。数々の修羅場を潜り抜けてきた自負がある。手段を選んでいる余裕などなかった。
会議の終了後、張彩児は自席に戻るや否や、秘書室に内線を入れた。
「陳峰、すぐに来てちょうだい」
ほどなくして、ドアがノックされ、一人の長身の男が入室した。歳は三十代半ば、整えられた髪と黒縁眼鏡の奥に、穏やかだが鋭い目をした男性だ。陳峰は五年間、張彩児の秘書として側近を務めてきた。寡黙で有能、決して表に出ることはないが、社内では社長の影と恐れられている。
「お呼びでしょうか、社長」
「ドアを閉めて。人払いをしてあるわ」
陳峰は静かにドアを閉め、施錠した。彼は無言で社長席の前に立つ。
張彩児は手元の書類を捲りながら、淡々と告げた。
「陳峰、あなたに極秘の任務を依頼する。b国への出張に同行してほしい。ただし、通常の出張ではないわ」
陳峰は微動だにしない。ただ、眼鏡の奥の瞳が一瞬だけ細められた。
「b国の入国条件は知っての通りよ。私が入国するためには、男性の同伴者が必要で、しかも『所有関係』が証明されなければならない。結婚するわけにはいかない。だから……」
彼女は言葉を切り、真っ直ぐに陳峰を見上げた。
「私があなたの性奴隷という設定で、一緒に入国する。あくまで偽装よ。契約は書面上のもの。b国の税関を通過するためだけの方便だと思ってほしい」
室内に沈黙が落ちた。空調の低い唸りだけが響く。
陳峰は感情を読ませない表情のまま、数秒の間を置いてから口を開いた。
「……承知いたしました。社長のご決断であれば、私はそれに従います」
声には一片の動揺もなかった。まるで社長のコーヒーを買ってくるような軽さで、彼はその異常な提案を受け入れたのだ。
張彩児は内心で胸を撫で下ろした。彼女の目には、陳峰は忠実な駒にしか映っていなかった。万が一にも私欲を出すような男ではないと、信じて疑わない。
しかし、陳峰が一礼して退室するとき、ドアの向こうで浮かべた表情を彼女は知らない。口元に浮かんだ薄い笑みは、獲物を見つけた獣のそれに酷似していた。
その夜、張彩児は自宅の書斎でb国に関する情報を徹底的に調べ上げた。モニターには、b国のカルチャーや入国審査の事例が映し出されている。彼女は必死に知識を詰め込んだ。
「服従の姿勢……言葉遣い……歩き方……」
そこには、まるで中世に逆戻りしたかのような非現実的なルールが羅列されていた。男性を『主人』と呼び、常に三歩下がって歩き、許可なく顔を上げてはならない。このような条件を、一企業の社長たる自分が実行するのは屈辱以外の何物でもない。だが、これも仕事の一環だと自分に言い聞かせる。
翌朝、張彩児はオフィスではなく、陳峰が手配したプライベートサロンに足を運んだ。そこには、b国の税関を欺くための「準備」が整えられていた。
サロンの個室に入ると、壁一面に鏡が張られ、中央には一脚の椅子が置かれている。陳峰はすでに到着しており、傍らには数着の衣装が用意されていた。
「おはようございます、彩児」
名を呼び捨てにされ、張彩児は眉をひそめた。
「……陳峰、いきなり呼び捨て?」
「申し訳ありません。しかし、税関で私があなたを『社長』と呼べば、たちまち疑われます。今から慣れておかなければ」
陳峰は淡々と説明し、椅子の背を叩いた。
「さあ、まずは衣装の確認から始めましょう。b国では、奴隷は主人の指示に従って服装を選びます」
張彩児は口を噤んだ。頭では理解している。だが、感情が追いつかない。彼女は深く息を吸い、自分に言い聞かせるように頷いた。
「……わかったわ。始めましょう」
陳峰は衣装ラックから一着のワンピースを手に取った。デザインはシンプルだが、膝上の丈で、襟元が大きく開いている。
「これを着てください。下着は不要です。b国では奴隷に下着の着用が許されないことが多い」
「ちょっと待って! そこまでする必要があるの?」
さすがに抵抗の声が上がる。しかし陳峰は有無を言わせぬ口調で続けた。
「税関で身体検査がある可能性を想定しています。万が一、下着を着けていることが発覚すれば、奴隷としての偽装が露見します。社長、ここは我慢してください」
理屈は通っている。通ってはいるが、張彩児の頬には屈辱の色が浮かんだ。彼女は震える手で自分のスーツを脱ぎ始めた。ブラウスのボタンを一つひとつ外すたびに、自分が社長としての鎧を剥がされていくような錯覚に襲われる。
下着を外し、裸の上にその薄いワンピースを纏うと、鏡に映った自分の姿に愕然とした。布一枚隔てただけで、身体の線がはっきりと浮かび上がっている。胸の頂きさえも、服の上から確認できるほどだ。
「よくお似合いですよ、彩児」
陳峰は背後から鏡越しに彼女を見つめ、満足げに呟いた。眼鏡の奥の視線が、まるで商品を品定めするように彼女の全身を舐め回す。
次に、陳峰は一枚の首輪を取り出した。黒革製で、銀色の金具がついている。小さな錠前も見えた。
「これは奴隷証明のタグ付き首輪です。b国入国時にはこれを着用し、私がリードを持ちます」
「……冗談でしょ?」
「冗談ではありません。税関の規定です」
陳峰は近づき、張彩児の細い首に手を伸ばす。彼女は思わず身を引こうとしたが、壁際まで追い詰められていた。冷たい革の感触が首に巻かれると、小さな金属音が響いて施錠される。
カチリ。
その音は、仕事上の仮初めの鎖であるはずなのに、張彩児の心の奥底にまで響いた。彼女は鏡の中で、首輪をつけられ、薄着で立ち竦む自分の姿を見つめる。そこに立っているのは、決断力と才能に溢れたカリスマ女社長ではなく、ただの無力な女だった。
「これで入国準備の第一段階は終了です」
陳峰は言い、リードを手に取る。鎖がピンと張り、張彩児の首が軽く引かれた。
「次は歩行訓練です。私の三歩後ろをついて歩いてください。目線は常に下に。許可なく私の顔を見てはいけません」
「陳峰……これ以上は……」
「税関で一発アウトになりたいのですか? ここで手を抜けば、すべてが水の泡です。あなたが決断したことでしょう」
陳峰の声には、冷徹な諭しがあった。張彩児は唇を噛み締め、言われるままに頭を垂れる。床の大理石の模様だけが視界に入る。
「歩きます。ついてきなさい」
命令とともにリードが引かれ、張彩児はよろめきながら一歩を踏み出した。ハイヒールの音が虚しく響く。三歩分の距離を必死に保ちながら、彼女は陳峰の後を歩く。顔を上げることは許されず、彼の背広の裾だけが目に入る。
サロンの中を何周も歩かされるうちに、張彩児の思考は少しずつ麻痺していった。最初は強烈だった屈辱感も、繰り返される単純な動作の中で、一種の諦めに変わっていく。
「止まりなさい」
声がかかり、張彩児は足を止める。だが、視線を落としたままなので、陳峰が自分の目の前に立っていることに気づかなかった。
「顔を上げて」
許可を得て、初めて彼女は顔を上げる。目の前に立つ陳峰は、いつもの秘書の表情とは違う、どこか嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「よくできました。しかし、まだまだです。今日から出発まで、毎日この訓練を行います。失敗すれば、その都度やり直しです。いいですね?」
張彩児は声を絞り出す。
「……はい」
「はい、ではありません。b国では奴隷は主人に対して『はい、ご主人様』と答えます。もう一度」
陳峰の言葉に、張彩児のプライドが悲鳴を上げる。しかし、彼女にはもう後戻りする道はない。巨大なビジネスチャンスと数千人の社員の生活が、この馬鹿げた偽装にかかっているのだ。
彼女は震える唇を開き、小さく呟いた。
「……はい、ご主人様」
その瞬間、陳峰の目に一瞬、隠しきれない喜悦の色が走った。それを知る由もなく、張彩児は再び深く頭を垂れた。
鏡に映る二人。リードを握り悠然と立つ男と、首輪を付けられ項垂れる女。それは絵に描いたような「主従」の構図だった。
訓練が終わり、サロンを出る頃には外は暗くなっていた。張彩児は車の中でグッタリとシートに凭れる。首にはまだ首輪の感触が残っているような気がして、何度も自分の首に手をやる。
「大丈夫ですか? 明日も訓練があります。しっかり休んでください」
運転席の陳峰が、バックミラー越しに声をかけてくる。その声はまたいつもの秘書のトーンに戻っていた。張彩児は小さく頷くしかない。
自宅マンションの地下駐車場に到着すると、陳峰は車を降り、後部座席のドアを開けた。
「お疲れ様でした。今夜はゆっくり休んでください。これから大変ですから」
その気遣うような言葉の裏に、どれほどの企みが潜んでいるか、この時の張彩児には想像もつかなかった。
彼女がエレベーターに消えるのを見届けると、陳峰はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、サロンで撮影したらしい一枚の写真──首輪を付けられ、ワンピース姿でうつむく張彩児の姿があった。彼はそれをじっと見つめ、口元を歪める。そして通話ボタンを押した。
「もしもし、私だ。例の件、順調に進んでいる。b国到着後、すぐに第二段階に移れるよう準備を頼む」
電話の相手は、b国の何者かだった。陳峰の本当の狙いは、単に会社の契約を成功させることではない。彼はこの機会を利用して、長年胸の内で温めてきた歪んだ欲望を、この異国の地で完遂しようとしていたのである。
一方、自宅のバスルームで、張彩児はシャワーを浴びながら泣いていた。湯気に混じって、熱い涙が頬を伝う。彼女は自分の選択が正しいのか、何度も自問する。だが、もう引き返せないところまで来ていることも理解していた。
「これはビジネスだ。私は社長だ。必ず乗り越えられる」
鏡に向かって自分に言い聞かせるが、首に残る違和感と、心に刻まれた「ご主人様」という言葉が、彼女の虚勢を静かに侵食していた。
数日後、彼女は正式な場で決断を発表した。陳峰と共にb国へ発つことを。社内には隠密裏に準備が進められ、偽装工作は完璧を期した。
出発の朝、空港のVIPラウンジで、張彩児はすっかり「奴隷装束」を身に纏っていた。今回のために特注された控えめなワンピースに、さりげなく首に巻かれたスカーフ。その下には、例の首輪が隠されている。スカーフを外せば、すぐに奴隷証明タグを見せられる仕組みだ。
「では、行きましょう。私の……奴隷」
陳峰はリード代わりの細いチェーンを手に、彼女にだけ聞こえる声でそう告げた。
張彩児は小さくうなずく。
「はい、ご主人様」
それは、ビジネスのための偽りの言葉のはずだった。しかし、こうして口にするたび、不思議な麻痺と屈辱が彼女の精神をじわじわと蝕んでいく。飛行機が滑走路を離れ、雲の上へと昇っていくにつれ、彼女はまるで自分自身の人生からも飛び立っていくような、漠然とした不安に駆られていた。
b国──そこは、女性を人として扱わない狂った国。張彩児は今、その扉を自らの意思でくぐろうとしている。そして彼女を待ち受ける真の地獄は、入国後の「調教」であることを、まだ知る由もなかった──。