星月・エステは、学院の門前に立った瞬間、かすかな違和感を覚えた。左手には、金色の蔦模様が絡む貴族専用のアーチが優雅にそびえ、そこを通る生徒たちは皆、仕立ての良い制服をまとい、使用人に荷物を持たせて悠然と歩いている。右手の平民通用門は、無骨な鉄製のゲートが口を開け、雑多な服装の若者たちが列をなしていた。蒸れた空気と、高ぶる声が混ざり合い、混沌とした熱気を放っている。
「リナ、こっちのほうが面白そうじゃない?」
星月は自分の真紅のリボンを軽く撫でながら、隣に立つ親友に笑いかけた。リナは心配そうに首をすくめ、焦げ茶色の瞳で貴族通路をちらりと見る。
「でも、あなたはそっちの方が…」
「いいのよ。今日くらい、あんたと同じ道を通りたいんだから」
星月はそう言うと、リナの手を引いて平民の列に並んだ。まわりの平民たちは、一瞬だけ星月の洗練された容貌と高価そうなブレスレットに目を奪われたが、すぐに視線をそらした。星月は軽く鼻を鳴らす。これが今のわたくしの気まぐれなのよ、と心の中でつぶやいた。
やがて順番が回ってきた。入り口には銀色の登録端末が設置されていて、生徒は手首をかざすだけで身分が識別される仕組みだ。リナが先に済ませ、おずおずと端末の向こう側で待っている。
星月が右手首をかざした瞬間、端末が妙な電子音を発した。
「照合エラー。再スキャンします」
無機質な合成音声が流れ、星月は眉をひそめる。もう一度手首をかざすと、今度は短くブザーが鳴り、画面に「身分:平民」と表示された。
「なにこれ、間違ってるわ」
星月は端末に顔を近づけ、声を張り上げた。だが、うしろに並ぶ生徒たちがざわつき始め、係員の中年男は面倒くさそうに手を振る。
「システムは正確だ。さっさと進め、後ろがつかえてる」
「でも、わたくしエステ家の…」
「貴族なら貴族用の門から入ればよかったんだ。ここは平民用だ、文句があるなら後日申請しろ」
係員は星月の抗議を遮り、次の生徒を手招きした。星月の頬はかっと熱くなったが、リナが不安げに手をこまねいているのを見て、ぐっとこらえる。こんな下賤な場所で騒ぐのは、わたくしの品位が下がるだけだわ。彼女は胸のうちで言い聞かせ、無理やり口元に笑みを浮かべた。
「まあいいわ、すぐに直してもらえるでしょう」
星月はリナのそばに歩み寄り、肩を並べて入学式会場へ向かった。後方で、貴族の生徒たちがこそこそと囁き合っているのに気づいたが、振り返らなかった。
式典が開かれる中央ホールは、歴史を感じさせる石造りの大空間だった。高い天井から吊り下げられた無数の魔法灯が、冷たい白光を床に落としている。座席は厳格に区分され、左翼にはクッション付きの椅子が整然と並ぶ貴族席、右翼には長椅子がぎゅうぎゅうに詰め込まれた平民席があてがわれている。
星月は当然のように貴族席へ足を向けたが、通路の入り口で制服姿の職員に止められた。
「失礼ですが、お身分証を拝見します」
星月は先ほどの登録端末の結果を思い出し、内心いやな予感がした。それでも毅然と手首を差し出すと、職員は携帯端末をかざし、表情を変えずに言った。
「平民の方ですね。お席はあちらです」
指さされたのは、騒がしい平民席の最前列だった。星月は言葉を失い、一瞬息をのんだ。周囲から、貴族の生徒たちの視線が突き刺さる。嘲笑を含んだもの、好奇の色を帯びたもの、あるいは純粋な侮蔑――それらが肌にまとわりつくようで、星月は奥歯を噛みしめた。
「…承知しましたわ」
短く答え、彼女は背筋を伸ばして平民席へ歩いた。リナが心配そうに席を立ち、手招きする。隣の席を空けてくれていたのだ。星月はその硬い長椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を握り合わせた。
(すぐに、この茶番は終わるわ。家族に連絡すれば、一発で片がつく)
彼女はそう思い込み、目の前の演壇に視線を固定した。学院長の長ったらしい挨拶も、教師たちの紹介も、まるで耳に入ってこない。ただ、時折感じる貴族席からのひそひそ声が、小さな棘のように心を刺した。
やがて寮の割り当てが発表され、リナと星月は同じ部屋に振り分けられた。二人は案内板に従って、古びた東棟へ向かう。階段は石造りで、壁の漆喰はところどころ剥がれ落ち、かび臭い空気が漂っている。
「ここ、ちょっと…」
星月が思わず口を開きかけると、リナが慌てて言った。
「ごめんね、星月。私のせいでこんな所に…」
「ち、違うのよ! 別にリナのせいじゃないわ」
星月はあわてて首を振り、作り笑いを浮かべる。実際、部屋の扉を開けた瞬間、彼女は絶句した。壁は狭苦しく、二段ベッドと小さな机が二つ、備え付けのクローゼットは歪んだ木製で、窓は曇りガラスが一枚あるだけだった。実家の使用人部屋よりも狭い。
「わたくし、こんなところで…」
言いかけて、リナがうつむいているのに気がついた。彼女の細い指が、ぼろぼろの鞄の取っ手をぎゅっと握りしめている。星月は大きく息を吸い込み、わざと明るい声を出した。
「でも、まあ、なんとかなるわよね。リナと一緒だし、これはこれで面白い経験かも」
リナが顔を上げ、ほっとしたようにほほえむ。その表情を見て、星月は胸の奥でくすぶる不満を押し殺した。友情のためだもの、このくらい我慢しなくちゃ。
夜が訪れた。廊下の足音も絶え、寮全体が寝静まった頃、星月はそっとベッドを抜け出した。リナは上段で規則正しい寝息を立てている。窓から差し込む月明かりだけが、室内を青白く照らしていた。
星月は机の引き出しから小さな通信端末を取り出す。これはエステ家専用の秘匿回線につながる特注品で、通常ならどこからでも家族と連絡が取れるはずだった。彼女は端末を起動し、指紋認証を済ませると、画面に刻まれた家紋が浮かび上がる。だが、その直後、画面が赤く点滅し、エラーメッセージが表示された。
《接続不可:外部通信は制限されています》
「なに…?」
星月は声をひそめてつぶやき、もう一度試みる。結果は同じだった。端末を窓辺に近づけたり、部屋の隅でかざしたりしても、状況は変わらない。彼女は額にうっすらと汗がにじむのを感じた。
(学院内のネットワークに、何か細工がしてあるの? それとも、これは一時的な不具合?)
胸の奥で、冷水を一滴たらされたような不安が広がる。星月は震える指で端末を握りしめ、暗い天井を見上げた。窓の外では、星がかすかにまたたいている。かつてはあの星々のように自由だったはずの自分が、今、この狭い部屋に閉じ込められている。
彼女はまだ知らなかった。この通信遮断が、単なる技術的な制限などではないことを。そして、入学時の「誤り」が、実は精密に設計された罠の最初の一歩であることも、まったく想像できなかった。
ただ、不安だけが確かな感触を伴って、彼女の胸の内で脈打ち始めていた。