魔教総壇の最奥、誰も立ち入りを許されない密室に、沈無邪はうつ伏せになって臥せっていた。朱漆の床に敷かれた白虎の毛皮の上で、彼はまるで飼い慣らされた仔猫のように体を丸めている。絹のように滑らかな黒髪が背中に広がり、窓から差し込む月明かりを浴びて青白い輝きを放っていた。
「雪衣……」
彼はか細い声で呼んだ。その声は風に消え入りそうなほど弱々しい。密室の扉が音もなく開き、林雪衣が忍び足で入ってきた。彼女の手には青磁の茶碗があり、湯気が立ち上っている。
「教主様、お薬をお持ちしました」
林雪衣はうつむきながら言った。その声は恭しく、しかし目の奥には冷たい光が宿っている。彼女は夫のそばに跪き、茶碗を差し出した。
沈無邪はゆっくりと体を起こした。彼の顔色は青白く、唇は乾いてひび割れている。本当に弱っているように見えた。彼は震える手で茶碗を受け取り、一口すすると眉をひそめた。
「苦い……」
「教主様、お体をお大事に。この薬は百年来の人参と雪山の霊芝を煎じたものですから」
「雪衣」沈無邪は茶碗を置き、彼女の手をそっと握った。「お前にだけは話しておきたいことがある」
林雪衣の肩が微かに震えた。彼女は顔を上げ、夫の目を見つめた。その瞳は澄んでいて、まるで子供のように無邪気だ。しかし彼女は知っている。この無邪気さの裏にどれほどの残忍さが潜んでいるかを。
「私は每月十五日、内力が完全に失われる」
沈無邪は静かに言った。まるで他人事のように。
「何ですって?」
林雪衣の声が裏返った。彼女は慌てて口を押さえた。心臓が激しく打ち鳴っている。これは千載一遇の好機だ。
「幼い頃に修練した魔功に欠陥があってね。月が満ちる夜、私の内力は潮のように引いていく。何の力も残らない」沈無邪は苦笑した。その笑顔には自嘲の色が濃い。「魔教の教主でありながら、月に一度はただの弱い人間になる。笑い話だよ」
「そんな……そんなことが……」
「お前は私の妻だ。隠す必要はない」沈無邪は彼女の頬に手を伸ばした。その指先は冷たく、わずかに震えている。「もしもの時は、お前に守ってもらわねばならないかもしれない」
林雪衣は息を呑んだ。彼の手のひらから伝わる体温が、まるで蛇のように肌を這う。彼女は必死に平静を装い、優しくうなずいた。
「当然です。私は教主様の妻ですから」
沈無邪は満足そうに微笑んだ。その目は三日月のように細められ、純粋な喜びに満ちている。しかしその奥底で、何かが爛々と輝いていた。林雪衣にはそれが何だかわからなかった。
その夜、林雪衣は寝室で一睡もできなかった。彼女は机に向かい、何度も手紙を書き直した。最後の一通を蠟で封じ、窓辺に止まっていた伝書鳩の脚に括りつける。鳩は闇夜に消えた。
三日後、廃墟となった観音寺の裏手で、三人の女が集まっていた。
「本当なのか?」
白霜が低い声で尋ねた。彼女の手は剣の柄に置かれ、いつでも抜ける体勢を崩さない。柳如煙と趙紅綾も緊張した面持ちで林雪衣を見つめている。
「私は自分の耳で聞いた」林雪衣は断言した。「每月十五日、彼の内力は完全に消失する」
白霜の目に冷たい光が走る。彼女は六年前、沈無邪との決闘で敗れ、命を奪われる寸前まで追い詰められた。あの時、沈無邪は彼女の頬を撫でながら言った。「お前のような美人を殺すのは惜しい」と。その侮辱は今も骨の髄まで染みついている。
「罠かもしれない」柳如煙が慎重に口を挟んだ。「あの男は何かを企んでいる。こんな大事な秘密を簡単に漏らすはずがない」
「確かに怪しい」趙紅綾も腕を組んでうなずいた。「だが、もし本当なら、この機を逃す手はない」
林雪衣は唇を噛んだ。彼女の心は激しく揺れている。夫の言葉を疑う気持ちと、自由への渇望が鬩ぎ合っていた。
「私は確信している」彼女は言った。「彼の目に、恐怖があった。本物の恐怖だ」
それは嘘だった。沈無邪の目には何の恐怖もなかった。しかし林雪衣は自分に言い聞かせた。あれは偽装だと。何もかも計算ずくの演技だと。そう考えなければ、自分が夫を裏切ろうとしている罪悪感に押し潰されそうだった。
「十五日まではまだ十日ある」白霜が言った。「周到に準備しよう。絶対に失敗は許されない」
四人は闇夜に紛れて、詳細な計画を練り始めた。柳如煙は罠の設計図を広げ、趙紅綾は鉄鎖と縄の長さを確認する。林雪衣は震える手で、夫の行動パターンを書き出した。
その頃、密室の沈無邪は鏡の前に立っていた。侍女たちが彼の長い黒髪を梳かしている。鏡の中の美少年は微笑んでいた。その微笑みは優しく、無害だった。
「教主様、お風呂の準備が整いました」
侍女が告げる。沈無邪はうなずき、ゆっくりと浴室へと歩いていった。湯船に浸かりながら、彼は天井の龍の彫刻を眺めた。龍は雲の中に半身を隠し、牙を剥いている。
「月が満ちるのが待ち遠しい」
彼は独り言ちた。その声は浴室に響き、闇に溶けていった。
十日後、十五日の夜。月はまん丸に膨らみ、大地を銀色に染めていた。沈無邪は一人で魔教総壇を後にした。林雪衣に伝えた行き先は「忘憂谷」。そこには誰もいないはずだった。
彼は白い衣をまとい、何の武器も持っていなかった。足取りは軽く、まるで夜の散歩を楽しむかのようだ。谷への道すがら、彼は何度も立ち止まり、月を仰いだ。その表情は恍惚としていた。
「教主様」
背後から声がした。沈無邪は振り返らずに微笑んだ。知っている。この声は白霜だ。
「お待ちしておりました」
彼は静かに言った。その瞬間、地面が轟音とともに陷り、無数の鉄格子が四方から飛び出した。沈無邪は逃げる素振りも見せず、そのまま深い穴へと落ちていった。
穴の底には、柳如煙が仕掛けた網が待ち構えている。網は鋼の絲で編まれ、無数の逆棘が仕込まれていた。沈無邪は網に絡まり、逆棘が彼の白い衣を裂き、肌に食い込んだ。
血が滲む。しかし彼の口元には笑みが浮かんでいた。
「よくできた罠だ」
穴の上から、四人の女が覗き込んでいる。林雪衣の手は震えていたが、その目は決意に満ちている。
「沈無邪、覚悟はできているか?」白霜が冷たく言い放った。
沈無邪は網の中で体勢を変え、仰向けになった。月明かりが彼の顔を照らし出す。その表情は、まるで待ち望んだ贈り物を受け取る子供のように輝いていた。
「ええ、覚悟はできています」
彼は優しく答えた。そしてそっと目を閉じる。
趙紅綾が太い鉄鎖を投げ落とした。鎖は鈍い音を立てて網に絡みつく。沈無邪の手足が縛られていく。彼の呼吸が微かに速くなった。それは恐怖ではなく、歓喜の証だった。
「これで終わりだ」
白霜が言った。しかし沈無邪は目を開け、月を見上げた。満月が彼の瞳に映っている。
「いいえ」彼は囁くように言った。「これから始まるのです」
その言葉は誰の耳にも届かなかった。風が谷を吹き抜け、月の光が一層白く輝く。四面楚歌の中で、沈無邪の心は高鳴っていた。束縛の痛みが、彼の渇望を満たし始めている。
計画通りだ。すべては計画通りに進んでいる。彼は歓喜の戦慄を全身で受け止めながら、自らの破滅を待ち望んだ。