# 第一章 引君入瓮
魔教総本山、深宮の奥。
白夜蓮は密室の玉座に半ば横たわり、指先で酒杯の縁をなぞっていた。灯りもない闇の中で、彼の唇の端には微かな笑みが浮かんでいる。
「来たか…」
彼は呟いた。足音は聞こえぬが、気配で分かる。柳如霜だ。この時間、彼女はいつも寝台で待っているはずだが、今夜は違う。
白夜蓮はゆっくりと立ち上がり、机の上の書簡を一枚手に取った。それは三日前、凌雪薇が送ったものだ。彼はあえてそれを半開きの抽斗に挟んでおいた。柳如霜が整理する習慣があるのを知っているからだ。
「教主様、まだお休みになられませぬか」
柳如霜の声が帷の向こうから聞こえた。いつもより一拍早く、わずかに掠れている。
「うむ、すぐに行く」
白夜蓮は答えたが、立ち上がろうとはしなかった。耳を澄ませ、彼女の気配が抽斗の方へと微かに動くのを感じた。そう、そのまま進め。お前が知るべきは、知ってはならぬことだ。
彼はそっと息をついた。胸の奥で、甘やかな疼きが広がる。あの女侠たちの顔を思い浮かべる。凌雪薇、花无月、叶寒霜。かつて自分が敗れ、見逃した者たち。彼女たちが今、何を企んでいるのか。知りたい。いや、知っている。そして、待ち望んでいる。
翌日、柳如霜は市場へ出かけると言い残して教団を離れた。白夜蓮はそれを止めなかった。むしろ、護衛を一人もつけさせなかった。彼女の足取りがどれほど急ぎ、肩がどれほど震えていたか、すべて見ていた。
「教主、奥方様のお供を」
側近が進言した。
「構わぬ。たまには自由も必要だろう」
白夜蓮は穏やかな声音で答え、書を見開いた。しかし、文字は一つも目に入っていなかった。彼の意識は、今まさに町はずれの廃寺で行われているだろう密談に飛んでいた。
柳如霜が行ったのは、確かに市場だ。しかし、彼女はそこで籠を買い、その中に書簡を忍ばせた。届け先は、城外の竹藪の中にある庵。そこに、凌雪薇が潜伏している。
庵の薄暗い室内、柳如霜は震える手で茶碗を持ち上げた。
「あの書簡…確かに見たのです。教主様はあなた方と通じている。いや、通じているふりをしている…」
凌雪薇は冷ややかな目で彼女を見つめた。長剣を膝に置き、指先で鍔を撫でながら。
「ふりだと?どういう意味だ」
「分かりません。しかし、あの方は何かを企んでいる。私には…私にはもう耐えられない」
柳如霜の声が涙で滲んだ。彼女は顔を覆い、肩を震わせた。しかし、指の隙間から覗く瞳の奥には、氷のような光が宿っている。
「あの者は、私を所有物のように扱う。いや、道具以下だ。辱めを受け、鞭打たれ、その傷を愛でられる…」
「結構な話だ」
陰湿な声が割り込んだ。花无月だった。彼女は壁にもたれ、細長い煙管をくゆらせている。紫煙が曲線を描きながら立ち昇る。
「我々も同じ目に遭った。お前のその苦しみ、よく分かる」
「違う!」
柳如霜は顔を上げた。涙は消え、代わりに燃えるような憎悪が瞳に浮かんでいる。
「私は復讐したい。あの者を、この世の地獄に落としたい。私の受けた辱めの百倍、千倍の苦しみを与えたいのだ」
凌雪薇と花无月は視線を交わした。そこには含み笑いがあった。
「ならば、力を貸せ」
新たな声が加わった。障子が開き、一人の女が立っている。叶寒霜だ。彼女は血の匂いを纏っていた。昨夜、拷問した者のものだ。
「我々も、あの日の屈辱を忘れたことは一度もない。奴が...我々を見逃したあの日。あれは慈悲ではない。最も深い侮蔑だ」
「ええ」
花无月が煙管の灰を落としながら口を開いた。
「奴は我々の強さを知っていて、わざと生かした。まるで『どうせ大したことはできない』と言わんばかりに。ならば、その思い込みを利用しよう」
柳如霜はゆっくりと頷いた。
「教主様は、必ず罠にかかる。ご自身から進んで」
「何故、そう言い切れる?」
凌雪薇が問う。
柳如霜は一瞬、答えに窮した。なぜなら、それはあまりに屈辱的な真実だからだ。しかし、彼女は飲み込むようにして言った。
「あの方は…苦しみを好む。支配されることを、心の奥で待ち望んでいる。まるでそれが、唯一の悦びであるかのように」
沈黙が落ちた。
やがて、花无月が低く嗤った。
「ならば、望み通りにしてやろう。奴が囚われることを欲するなら、囚えてやる。奴が苦しむことを喜ぶなら、苦しめてやる。だが、その先は違う。奴が悦びを見出せぬほど、徹底的に壊すのだ」
計画は、急速に具体化した。
一週間後、白夜蓮の机に、偽の密書が届けられた。
「凌雪薇、単身で北の廃墟に潜伏。教主をお待ちしております」
白夜蓮は書簡を指先で弄びながら、口元を歪めた。偽物だ。筆跡は巧みに似せてあるが、墨の香りが違う。それに、凌雪薇がこんな稚拙な文を書くはずがない。
「面白い」
彼は立ち上がった。夜は更け、月もない。絶好の機会だ。
白夜蓮は一人で北の廃墟へ向かった。わざと帯剣もせず、護符も外した。その足音を、わざと大きく響かせて。
廃墟に足を踏み入れた瞬間、彼は察知した。地の底から、いくつもの気配が蠢いている。柳如霜の震える気も、凌雪薇の鋭い気も、花无月の湿った気も、叶寒霜の冷たい気も。
「よく来たな、教主」
闇から、凌雪薇の声が落ちてきた。
白夜蓮は足を止めた。ゆっくりと見上げる。梁の上に、三人の女侠が立っている。柳如霜はその背後にいた。顔色は青白く、唇を噛みしめている。
「これは、何の趣向だ?」
白夜蓮はあえて無垢な声で問う。
「復讐だ」
葉寒霜が答えた。その手には、鎖が握られている。
白夜蓮は軽く笑った。
「なるほど」
「お前は、もう終わりだ」
凌雪薇が床に飛び降りた。長剣を抜き、切っ先を向ける。
「抵抗するか?それは構わない。それもまた、面白い」
だが、白夜蓮は両手を広げた。
「好きにしろ」
その口調は、どこか期待に満ちていた。まるで、待ち望んだ贈り物を受け取るかのようだ。
一瞬の間があった。凌雪薇は眉をひそめた。あまりにも簡単すぎる。予想通りだったが、それが逆に不気味だ。
「罠か?」
「罠なら、お前たちはもう死んでいる」
白夜蓮は優しく答えた。
「私は、これが欲しかったのだ」
その言葉に、柳如霜が息を呑んだ。彼女は知っていた。この男は、本当にそう思っているのだ。
「ならば、望み通りにしてやる」
花无月が煙管をしまい、懐から小さな壺を取り出した。中には、青い粉が入っている。
「これは夢煙散。吸えば三日三晩、意識を失う。抵抗するなよ」
白夜蓮は微動だにしなかった。花无月が近づき、粉を彼の顔に吹きかける。
甘い香りが広がった。視界が揺らぐ。
「うむ…」
彼はゆっくりと、床に崩れ落ちた。
意識が薄れる中、聞こえてきたのは鎖の音だった。そして、柳如霜の泣き声。だが、その泣き声に、確かな喜びが混じっているのも、白夜蓮は聞き逃さなかった。
「良いぞ…」
彼は心の中で呟いた。
「これからが、始まりだ」
地下牢の鉄格子が、重い音を立てて閉じられた。