李偉はクリニックの待合室の硬いプラスチック椅子に腰掛け、手に持った診察券を何度も確かめるように見つめていた。そこに書かれた「泌尿器科 張浩」の文字が、彼の不安をさらにかき立てる。
「大丈夫よ、李偉。どんな結果でも、私たちは一緒だから」
隣に座る妻の王麗が、優しく彼の手を握った。彼女の指は温かく、その感触に李偉は少しだけ肩の力を抜いた。結婚して五年、彼女はいつもこうだった。彼が落ち込んでいる時、迷っている時、必ずそばにいて支えてくれる。
「でも、もし俺に問題があったら……」
「それでもいいの。子どもがいなくても、私たちは幸せでいられる。でも、可能性があるなら、ちゃんと調べてもらおう」
王麗の大きな瞳が真っすぐに彼を見つめる。彼女の肌は陶器のように滑らかで、三十二歳とは思えない若々しさがあった。派手な化粧はせず、服装も地味なニットワンピースだが、それでも彼女の美しさを隠しきれていなかった。
李偉は結婚した日のことを思い出した。初めて彼女を見た時、こんなに美しい女性が自分を選んでくれるなんて信じられなかった。友人たちも羨ましがった。しかし、彼には彼女に言えない秘密があった。先天的な病気で、子供ができないかもしれないという事実だ。結婚前に医者から告げられた時、彼は打ちのめされた。王麗に打ち明けるべきか悩んだが、彼女への愛情がそれを許さなかった。
「李偉さん、どうぞ」
看護師の声に、李偉は我に返った。立ち上がるとき、足が少し震えていた。王麗が彼の腕を支えるようにして、一緒に診察室へ歩いていった。
診察室のドアを開けると、四十代半ばの男が白衣を着てデスクの向こうに座っていた。細身のフレームの眼鏡をかけ、穏やかな笑みを浮かべている。一見すると温厚そうな印象だが、その目は鋭い光を宿していた。
「初めまして、私は張浩と申します。どうぞお掛けください」
張浩は立ち上がり、来客用の椅子を勧めた。その動きは優雅で、どこか芸術家のような雰囲気を漂わせていた。
李偉と王麗は並んで座った。緊張している李偉に対して、王麗は比較的落ち着いているように見えた。
「早速ですが、今回どのようなことでお悩みですか?」
張浩の声は低く、落ち着いていた。催眠療法に使うような、人をリラックスさせる声だった。
「あの……私たち、結婚して五年になるんですが、子どもができなくて。これまでいくつかの病院で検査は受けたんですが、はっきりした原因がわからなくて」
李偉が言いにくそうに話し始めた。その間、彼は膝の上で指をもじもじと動かしていた。
「なるほど。奥様の検査は受けられましたか?」
「はい、私は一通り調べてもらいました。特に問題はないと言われています」
王麗が答えた。彼女の声は柔らかく、聞く者を安心させる響きがあった。
「では、ご主人様の方はいかがですか?」
李偉がうつむいた。心臓がドキドキと音を立てているのが自分でもわかる。
「俺も何度か検査しましたが……運動率が低いと言われました。でも、それだけでは説明がつかないと言われて」
「そうですか。では、改めてしっかりと検査をさせていただきましょう。私のところでは、最新の機器を使って精査できますから」
張浩はそう言って、パソコンのキーボードを打ち始めた。しかし、彼の視線は画面ではなく、王麗に向いていた。彼女の顔立ち、首筋、胸元。控えめな服装の下に隠された曲線美。彼女が動くたびに揺れる髪の毛一本一本までもが、彼の視線を釘付けにした。
こんな美しい女性が、なぜこんな冴えない男と結婚しているのか。張浩は不思議でならなかった。それに、彼女の纏う雰囲気は明らかに性的なものとは無縁だった。まるでセックスや快楽に興味がないかのように。
もったいない。この美貌が、この体が、日の目を見ずに枯れていくのは。
張浩の頭の中で、ある計画が蠢き始めた。彼は催眠療法の専門家だ。人の心を操り、深層心理にアクセスする技術には誰よりも長けている。これまでに何人もの患者を治療してきたが、中には治療の過程で意図せず催眠状態に陥った患者もいた。彼はその力を自覚しており、時折、自分の欲求を満たすために使ってきた。
王麗のような女性は格好の獲物だった。彼女は貞淑で、自分をしっかりと律している。だからこそ、それを壊したくなる。抑圧された欲望を解放し、一度味わわせてしまえば、彼女は自分から求めてくるようになるだろう。
「本日は簡単な問診だけにしましょう。後日、詳しい検査を予約していただくことになりますが、その前に一度、私の治療法について説明させていただいてもよろしいですか?」
「治療法?まだ原因もわかっていないのに?」
李偉が疑問を口にした。
「ええ。私は従来の治療法に加えて、催眠療法を併用することをお勧めしています。不妊にはストレスや心理的要因が大きく関わっています。特にご主人様の場合、何度も検査を受けてきたことで、無意識のうちにプレッシャーを感じていらっしゃるかもしれません」
張浩の言葉は理路整然としていた。李偉は一瞬、自分の心を見透かされたような気がした。
「催眠療法というと、あの……テレビで見るような?」
「いいえ、あれはショーです。私が行うのは医療催眠。リラックス状態を深め、潜在意識にアクセスすることで、体の自然治癒力を引き出す方法です。決して怪しいものではありません」
張浩はそう言って、引き出しから一枚のパンフレットを取り出した。それには催眠療法の仕組みや効果が図解入りで説明されていた。
「無理強いはしません。もしご興味があれば、まずはお二人とも体験してみませんか?簡単な誘導だけでも、どのようなものか理解していただけると思います」
王麗が夫の顔を見た。李偉は躊躇していたが、彼女の目は少しだけ好奇心を示していた。
「心理学の本で読んだことはあります。潜在意識に働きかけることで、思いがけない効果が得られることもあるって」
「その通りです。奥様はお詳しいのですね」
張浩は微笑んだ。その笑顔には親しみやすさがあり、王麗も自然と笑みを返した。
李偉は複雑な気持ちだった。彼自身は催眠術というものに半信半疑だったが、妻が興味を示しているのを見て、断るのは野暮だと思った。
「では、簡単にお願いしてもいいですか?」
「もちろん。では、ご主人様からいらっしゃいますか?それとも奥様から?」
張浩は李偉に尋ねた。彼の意図は、まず夫から始めることだった。妻の前で夫を催眠にかけることで、信頼を得る。そして次回、妻だけを呼び出せれば……
「俺からでお願いします」
李偉が答えた。彼は自分が先に体験することで、妻の不安を取り除いてやりたかった。
「かしこまりました。では、楽な姿勢でお掛けになってください。目を閉じて、ゆっくりと息を吸って……吐いて……」
張浩の声は低く、一定のリズムを刻んでいた。李偉がそれに従って呼吸を整えると、徐々に体が軽くなっていくのを感じた。
「今、あなたは階段を下りています。一段、また一段と。下りるたびに、あなたの体はリラックスしていきます。十段目……九段目……」
その声がまるで子守唄のように頭の中に響いた。李偉は無意識にその数字を数えていた。八、七、六……途中から、自分がどこにいるのかわからなくなった。ただ、目の前が真っ暗になり、温かい光の中に包まれているような感覚だった。
「今、あなたはとても落ち着いています。何か嫌なことがあっても、それはもう通り過ぎたことです。今はただ、この安らぎを感じていてください……」
張浩の声が遠くから聞こえてくる。李偉は深い眠りに落ちる直前のような心地よさを味わっていた。その状態がどれくらい続いただろうか。
「では、これから私が三つ数えたら、ゆっくりと目を覚まします。一……二……三」
李偉は静かに目を開けた。目の前には張浩と、心配そうに顔を覗き込む王麗の姿があった。
「どうでした?何か感じましたか?」
「ああ……すごくリラックスしていました。時間の感覚がなくなっていました」
李偉は時計を見た。わずか十五分程度しか経っていなかったが、とても長い時間眠っていたような気がした。
「それが催眠状態です。日常のストレスから解放され、心身ともにリフレッシュできます。この状態で治療を行うことで、より効果的な結果が期待できます」
張浩は満足げに頷いた。彼は確信した。この男は非常に暗示にかかりやすい。何度か施術を重ねれば、妻を差し出すように仕向けることもできるかもしれない。
「奥様もいかがですか?簡単な誘導だけでも体験してみませんか?」
「私は……大丈夫です。今日は主人の様子を見に来ただけで」
王麗は丁寧に断った。しかし、その目には多少の興味が浮かんでいた。
張浩はその反応をしっかりと記憶した。彼女は慎重な性格だ。初回からは誘導できない。だが、次回は必ず一人で来させる。
「わかりました。では、今日はこれで終わりにしましょう。後日、検査の予約をお取りします。その際に、催眠療法についても詳しくお話ししましょう」
李偉と王麗は診察室を後にした。外に出ると、夕日が街を赤く染めていた。
「どう思った?あの先生」
李偉が妻に尋ねた。
「優しそうな先生だったね。催眠療法も、思っていたよりずっと自然だった」
「そうだな。俺もちょっと気になってきた。もしかしたら、これで何か変わるかもしれない」
李偉はそう言って、王麗の手を握った。彼女の手の温もりが、彼の不安を和らげてくれた。
一方、診察室の中で、張浩は一人笑みを浮かべていた。彼の頭の中では、すでに完璧な計画が練られていた。まずは李偉に催眠療法を施し、彼の潜在意識に「王麗を自由にさせたい」という思いを植え付ける。そして、王麗には「自分の体をもっと大切に扱いたい」という暗示をかけ、徐々に彼女の欲望を解放する。
彼は引き出しから一枚の写真を取り出した。それは数年前、医学雑誌の取材で撮影された彼自身の写真だった。穏やかな笑顔を浮かべたその姿は、誰が見ても信頼できる医者そのものだった。
「誰も気づくまい。この仮面の下に、どんな欲望が渦巻いているか」
彼は写真をしまい、パソコンに向かった。画面には、不妊治療に関する研究論文が表示されている。しかし、彼の目はその文字を追っていなかった。代わりに、さっき初めて見た王麗の姿が頭の中で反芻されていた。
彼女の細くしなやかな首筋。白い胸元。少しはだけたブラウスの隙間から見えた鎖骨。すべてが完璧だった。彼女が笑うたびにできる目尻のしわさえも、美しかった。
「私はこの美を完成させる。彼女に本当の快楽を教えてやる」
張浩はそう呟くと、デスクの上のカルテに何かを書き込んだ。
帰宅後、李偉と王麗はリビングのソファに座って、今日の出来事を振り返っていた。窓の外はすっかり暗くなり、街灯の明かりが部屋の中に差し込んでいる。
「今日は疲れたね。何か食べるものを作ろうか?」
王麗が立ち上がろうとしたが、李偉が彼女の手を引いて止めた。
「まだいい。もう少し、こうして一緒にいよう」
李偉は妻の肩を抱き寄せた。彼女の体は柔らかく、髪からはシャンプーの優しい香りがした。
「李偉、本当に大丈夫だよ。子どもがいなくても、二人で幸せに生きていける」
「でも、君は子どもが欲しいんだろう?」
「欲しいけど……それだけが人生じゃない。それに、私たちにはまだ可能性がある。今日の先生に掛かれば、何か変わるかもしれない」
王麗は夫の胸に顔を寄せた。彼の心臓の鼓動が、耳元で聞こえる。それは規則正しく、力強かった。
「もし、俺に原因があって、子どもができなかったら……君は後悔するか?」
「しない。何度も言ってるでしょ。私はあなたと結婚したことを後悔したことなんて一度もない」
その言葉に、李偉の目頭が熱くなった。彼は妻の頭を優しく撫でながら、自分は何と幸せな男だろうと思った。同時に、その幸せを壊してしまうかもしれない恐怖も感じていた。
「今日の催眠療法、すごく気持ちよかったんだ。まるで、すべての悩みが消えていくような感じだった」
「それは良かったね。私も一度体験してみたいな。でも、やっぱりちょっと怖い気もする」
「大丈夫だよ。あの先生は信頼できそうだし。次回は一緒にやってみないか?」
李偉の提案に、王麗は少し考えた後、うなずいた。
「そうだね。一緒にやってみよう」
その夜、二人は久しぶりにゆっくりと語り合い、抱き合って眠った。しかし、李偉の夢はどこか不穏だった。彼は暗い部屋にいて、目の前には張浩が立っている。その手には、何か光るものが握られていた。
「さあ、これから本当の治療を始めましょう」
張浩の声が響く。李偉は逃げ出そうとしたが、体が動かない。その時、背後から妻の声が聞こえた。
「李偉、私のことは気にしないで」
振り返ると、王麗が裸で立っていた。彼女の体には見知らぬ男の手が這っている。李偉は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
そこで目が覚めた。時計を見ると、午前二時。隣では王麗が静かに眠っている。李偉は冷や汗で濡れたシャツを着替え、キッチンへ行って水を飲んだ。
「悪い夢だ。ただの悪い夢だ」
彼は自分に言い聞かせた。しかし、心の奥底では、あの夢が何かを予感しているような気がしてならなかった。