# 第一章 陰謀の始まり
セリーナは鏡の前で微笑んだ。淡い金色のカールが肩に揺れ、青い瞳が危険な光を宿している。彼女は慎重に一通の手紙を封筒から取り出し、指先で文字をなぞった。完璧だ。伯爵の筆跡を真似るのは容易いことではないが、彼女は数週間かけて練習していた。
伯爵邸の書斎は夕暮れの薄明かりに包まれていた。セリーナは机の引き出しを開け、あらかじめ用意しておいた偽の恋文をその奥に滑り込ませた。手紙には、アリシアが隣国の若い貴族と密かに逢引しているという内容が、甘美な言葉で綴られていた。さらに、銀製の指輪と、アリシアの部屋から拝借した香水の小瓶をそばに置く。
「これで決まりね」セリーナは囁き、自分の頬を抓って赤く染めた。泣き腫らしたふりをするには、涙が必要だ。彼女は台所から持ってきた玉ねぎの香りを指先に擦り込んだ。目が瞬時に潤む。
その足音が廊下に響いた。レナード伯爵が帰宅したのだ。
「伯爵様!」セリーナは声を震わせ、書斎から飛び出した。彼女の頬には涙の跡があり、手指は小さく震えていた。「大変です。信じられないものを、見つけてしまいました」
レナードは眉をひそめ、彼女の腕を取った。「何があった、セリーナ?そんなに取り乱して」
「書斎の机を整えようとしたら、これが」彼女は偽の手紙を伯爵の胸に押し付けた。「読んでください。ですが、どうかお怒りにならないでくださいませ」
伯爵は手紙に目を通すと、顔色が青ざめた。手が微かに震えている。「これは……アリシアが?」
「まさか、あの方に限って」セリーナは声を細くし、演技を続ける。「けれど、証拠がこれだけ揃っています。指輪も、香水も……すべてアリシア様のものではありませんか?」
伯爵は机の引き出しを開け、指輪と香水瓶を手に取った。彼の指が、結婚を誓ったときに贈った銀の指輪に触れる。「これは確かに、私が贈ったものだ……」
「私が疑うべきではございませんが」セリーナはうつむき、声を詰まらせた。「伯爵様を悲しませるような真実ならば、私は決して口にしないほうがと思いました。けれど、あなた様が騙され続けるのを見過ごせなくて」
彼女は嗚咽を漏らし、伯爵の胸に顔を埋めた。レナードは彼女の髪を撫でながら、唇を噛みしめる。
「アリシアは私の婚約者だ。しかしこの証拠は…何か誤解かもしれない」伯爵は弱々しく言った。
「誤解だといいのですが」セリーナは顔を上げ、潤んだ目で伯爵を見つめた。「あの方の部屋で、この指輪がないのを見ました。あれは伯爵様が贈られたものだと、私は知っています。なぜ別の男の手紙と共にあるのでしょう?」
その言葉が、伯爵の心の最後の抵抗を砕いた。
二日後、公爵家が主催する夜会が開かれた。シャンデリアの光が輝く大広間には、貴族たちが集まっている。アリシアは白いドレスに身を包み、レナード伯爵の腕に手を添えて立っていた。彼女の顔には優しい微笑みが浮かんでいるが、胸の奥では不安が渦巻いていた。セリーナの視線を感じるのだ。蛇のような、冷たい視線を。
「皆様、お聞きください」レナード伯爵が声を上げた。広間が静まり返る。彼の声は震えていたが、決意を固めたように響いた。「私は今ここで、アリシア嬢との婚約を解消いたします」
一瞬の沈黙。アリシアは伯爵の顔を凝視した。彼の目は恐怖に曇り、指先は青白く震えている。
「何をおっしゃるの、レナード?」アリシアの声はかすれていた。
伯爵は彼女から顔を背けた。「証拠がある。お前の不貞の証拠が」
「それは誤解よ!誰かに嵌められたの!」アリシアは叫んだが、周囲の貴族たちの冷たい視線が彼女を刺す。
セリーナは群衆の中から一歩前に出た。彼女の顔には哀れみを装った微笑みが浮かんでいる。「可哀想に、アリシア様。あなたがそんなことをするなんて、信じられませんわ」
「あんたが仕組んだんだ!」アリシアは彼女に飛びかかろうとしたが、使用人たちが間に立った。
「もういい」伯爵は疲れた声で言った。「アリシア、出ていってくれ。この館から、私の前から、二度と姿を見せないでくれ」
夜会の招待客たちは囁き合い、好奇の目でアリシアを見つめる。彼女のドレスの裾が震えた。涙が頬を伝い落ち、床に小さな染みを作った。
「レナード……」アリシアの声は涙で詰まっていた。「どうして、あなたまで。私たちは愛し合ったのに」
「愛?裏切ることを愛とは呼ばない」伯爵は冷たく言い放った。
アリシアは必死で涙を拭いた。彼女はゆっくりと周囲を見渡した。笑顔を隠そうともしない貴族たち、哀れみを装う使用人たち、そして勝ち誇ったように立つセリーナ。
「覚えておきなさい」アリシアは静かに、しかし強く言った。「この屈辱を、私は決して忘れない」
彼女は振り返り、大広間の扉に向かって歩き出した。一つ一つの足音が大理石の床に響く。背後からは嘲笑と囁きが聞こえる。
外は冷たい夜風が吹いていた。アリシアは城の門をくぐり、闇の中へ歩いていった。彼女の肩が小刻みに震え、涙はもう枯れ果てていた。しかし心の奥底では、冷たい怒りが灼熱の炎となって燃え上がっていた。
「必ず帰ってくる」彼女は唇を噛みしめ、闇に向かって呟いた。「あの嘘にまみれた結末を、必ずや」
城の敷地を去るとき、彼女は振り返らなかった。背後で、セリーナが伯爵の腕にすがる声が風に乗って聞こえた。勝利の歓声が、アリシアの耳に毒のように注がれた。
月明かりの下、一筋の涙が彼女の頬を伝った。それは悔しさの涙であり、同時に復讐の誓いの証だった。