# 第四章:病院の亀裂
白い病室の壁は、陳沢にとって日増しに狭く感じられた。窓の外には春の日差しが差し込んでいるというのに、彼の心は冬のままだ。身体の回復は順調だった。医師は「奇跡的な回復力だ」と驚き、看護師たちも笑顔で彼の状態を褒めた。しかし、彼の視線は常に病室の扉に向いていた。
林悦が来る時間だ。
彼女は毎日のように見舞いに来ていたが、その姿は一日ごとに変わっていった。最初の頃は、彼の知っている優しい妻だった。しかし、二週間前から、彼女の外見は徐々に異様なものへと変貌し始めた。
その日、扉が開く音がして、陳沢は息を呑んだ。
「悦…」
彼の声は震えていた。立っていたのは確かに妻だったが、まるで別人のようだった。
林悦は漆黒のレザースカートを腰に巻き付け、上には深く開いたVネックのブラウスを着ていた。胸の谷間が露わになり、以前は決して見せなかった肌の広範囲が晒されている。化粧は厚く、目元にはグリーンのアイシャドウが塗られ、唇は血のように赤い。
しかし、最も衝撃的だったのは彼女の爪だった。
両手の指先からは五センチはあろうかという長さの爪が伸び、鮮やかなグリーンのキャッツアイネイルが施されている。細長い爪は猫のそれのように鋭く、光を反射して異様な輝きを放っていた。足の爪も三センチほどに伸び、黒のラメがちりばめられた装飾が施され、サンダルから覗く指が奇妙な美しさを醸し出している。
「沢、元気そうね」
林悦の声は甘ったるく、どこか気の抜けた響きがあった。彼女はゆっくりと歩み寄り、腰をくねらせるようにベッドの横に立った。その動きは以前の彼女からは考えられないほど官能的で、陳沢の胸は締め付けられた。
「その…その爪は…」
陳沢は彼女の手を指さした。五センチの爪は、スカートの端を撫でるように動いている。
「ああ、これ?綺麗でしょ?お気に入りなの」
林悦は手を掲げ、爪を眺めた。その目には陶酔にも似た光が宿っている。
「仕事で必要なのよ。接待の時とか、雰囲気を作るのに大事なんだって」
「仕事?あんたは普通の会社員だろう?そんな爪でタイピングできるのか?」
陳沢の問いかけに、林悦は軽く笑った。
「あら、今はもっと重要な仕事をしてるのよ。趙さんがね、私の能力を買ってくれてね…」
「趙さん?またあの男か!」
陳沢の声が鋭くなる。林悦は微かに眉をひそめたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「そうよ、趙擎さん。すごく良い人よ。私に色々教えてくれるの。ねえ、沢、あなたも彼に会ってみない?」
「絶対に嫌だ!」
陳沢は激しく首を振った。彼の頭の中には、あの男が妻に送り続けている高価なプレゼントや、夜遅くまで続く電話の内容が浮かんでいた。
林悦はため息をつき、ベッドの横の椅子に座った。その時、陳沢は彼女の首筋に何かがあることに気づいた。黒いインクで描かれた、複雑な模様のタトゥーが、彼女の鎖骨から首の後ろまで伸びている。
「そのタトゥーは…」
「ああ、これ?素敵でしょ。蝶のデザインなの」
林悦は首を傾げ、誇らしげにタトゥーを見せた。その動きに合わせて、彼女の髪が揺れる。それまで黒かった髪は、今や鮮やかなグリーンに染められ、同じ色に染められた眉と長いまつ毛が、彼女の顔に異様な雰囲気を与えている。
「それに…その腕…」
陳沢の視線が彼女の腕に移る。袖から覗く腕にも、大きなタトゥーが彫られていた。花と蛇が絡み合うデザインで、腕全体を覆っている。
林悦はゆっくりと袖をまくり上げ、タトゥーを披露した。
「すごいでしょ?全身に彫ってもらってるの。まだ完成してないけどね」
「全身?!」
陳沢は叫んだ。彼の知っている林悦は、針さえ怖がる女だった。ましてやタトゥーなど、絶対に許さないはずだった。
「どうして…どうしてそんなことを…」
「だって、綺麗だから。それにね、沢、私の体型、変わったと思わない?」
林悦は立ち上がり、ゆっくりと体を捻った。確かに、彼女の体型は以前とは全く違っていた。腰のくびれは極端に細く、胸は一回り大きく、ヒップは豊かに膨らんでいる。衣服の下からは、誇張されたS字カーブが浮き出ていた。
「ダイエットと筋トレの成果よ。それに、特別なマッサージも受けてるの」
「誰が…誰がそんなことを…」
陳沢の声は掠れていた。この変化の背後に、あの男がいることは明らかだった。
林悦は答えず、代わりにベッドの端に腰かけた。彼女の指、五センチの爪が伸びた指が、陳沢の手を撫でる。その感触は奇妙で、異物感があった。
「沢、私のこと、嫌いになった?」
彼女の声は甘く、しかしどこか空虚だった。
「そんなわけない!でも、どうして…どうしてあんたは…」
陳沢は言葉を詰まらせた。彼の目には涙が浮かんでいる。この数週間、彼は必死に考えた。妻に何が起きているのか。なぜ彼女はこんなにも変わってしまったのか。
「仕事の都合なのよ、沢。もうすぐ大きな契約が取れるの。そうしたら、私、もっと自由になれるの」
林悦はそう言いながら、バッグから小さなボトルを取り出した。中には透明な液体が入っている。
「何を…」
「ただの水よ。疲れた時に飲むんだって、趙さんがくれたの」
彼女はボトルのキャップを開け、一口飲んだ。その瞬間、彼女の目つきが変わった。瞳孔が開き、頬が薄く紅潮する。
「悦?大丈夫か?」
「ええ…大丈夫…とても…気持ちいいの…」
林悦の声はとろけるように甘くなった。彼女はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。その表情は、まるで何か陶酔的なものに浸っているかのようだった。
「それ、何の薬だ?」
陳沢が問い詰めると、林悦はゆっくりと目を開けた。その瞳は潤み、どこか虚ろだった。
「薬なんかじゃないわ。ただの…栄養補助食品よ。趙さんがね、疲れた時はこれを飲めばいいって…」
「趙さん、趙さんって、あんたはいつからそんなに…」
陳沢の声は怒りと悲しみに震えていた。しかし林悦は、ただ無邪気な笑顔を浮かべるだけだった。
「彼は私を理解してくれるの。沢、あなたも彼に会ってみてよ。きっと気に入るから」
「絶対に嫌だ!」
陳沢は激しく首を振った。しかし、その拒絶も、すでに遠くの出来事のように感じられた。目の前の妻は、確かに彼の妻だったが、どこか別の存在になっていた。
林悦は立ち上がり、スカートの裾を整えた。その動きは無意識のうちに官能的で、腰をくねらせる癖がついているようだった。
「じゃあ、私はもう行くわね。今日は大事なパーティーがあるの」
「パーティー?何のパーティーだ?」
「趙さんの会社のパーティーよ。私、ホステス役を頼まれてるの」
林悦はそう言って、バッグからコンパクトミラーを取り出した。彼女は唇を尖らせ、口紅を塗り直す。その仕草は優雅で、しかしどこか品がなかった。
「ホステス…あんたが?!」
「そうよ。私、向いてると思うの。だって、人を楽しませるのが好きだし、それに…ねえ、このドレス、似合うかな?」
彼女はバッグから、黒いレースのドレスを取り出した。それはほとんど布と呼べないほど小さく、胸元と腰元が大胆にカットされている。
「そんな服を着るのか?!正気か?!」
「正気よ。これが普通なんだから。沢、あなたの考え方は古すぎるのよ」
林悦は軽く笑い、ドレスをバッグにしまった。その表情には、一切の迷いがなかった。
「じゃあね、沢。また明日来るわ」
彼女は手を振り、五センチの爪が光を反射して輝いた。そして、腰をくねらせながら病室を出て行った。
扉が閉まった後、陳沢はしばらく動けなかった。彼の胸は激しく痛み、息が苦しい。何かが間違っている。彼女は操られている。そう確信した。
「悦…何が起きてるんだ…」
陳沢は枕に顔を埋めた。彼の涙がシーツを濡らす。何もかもが歪んでいた。愛する妻が、見知らぬ女に変わっていく。その時、病室の電話が鳴った。
「もしもし、陳沢さんですか?私です、趙擎です」
その声は低く、どこか楽しげだった。
「あんたか…何の用だ?」
陳沢の声は鋭くなる。
「いや、奥さんのことで連絡したんですよ。彼女、とても頑張ってますよ。私の期待に応えてくれています」
「あんたが彼女に何をした?!」
「何もしてませんよ。ただ、彼女の可能性を引き出しただけです。彼女は素晴らしい才能を持っている。あなたにはわからないでしょうけどね」
趙擎の声は優雅で、しかし底冷えするような冷たさがあった。
「彼女を元に戻せ!さもなければ…」
「さもなければ、どうするんです?あなたは今、病院のベッドに寝ているだけの身体ですよ。それに、彼女はもうあなたのものじゃない。彼女は今、私のものです」
「何だと…」
「今夜、彼女は私のパーティーで主役を務めます。あなたにも招待状を送りましょうか?彼女がどれほど輝いているか、見てみたいでしょう?」
趙擎は軽く笑った。その笑い声は、陳沢の神経を逆撫でした。
「彼女を返せ!彼女は俺の妻だ!」
「あなたの妻?残念ですが、彼女はもうあなたの妻ではありません。彼女は私の創造物です。私が彼女を新しく生まれ変わらせたのです」
「くそっ…」
陳沢は受話器を握りしめた。しかし、力は入らない。彼は弱っていた。精神的にも、肉体的にも。
「安心してください。彼女はとても幸せですよ。あなたと一緒にいた時よりも、ずっとずっと幸せです。ただ…彼女があなたのことを忘れるまで、もう少し時間がかかるかもしれませんね」
「忘れる?!何を言ってるんだ!」
「いずれわかりますよ。それでは、お大事に」
電話は一方的に切られた。陳沢は受話器を握りしめたまま、呆然としていた。彼の妻は、もう彼のものではない。あの男が彼女を変えてしまった。
その夜、陳沢は眠れなかった。頭の中には、林悦の新しい姿が浮かんでいた。五センチの爪、緑の髪、タトゥー、誇張された体型。それらは全て、異様で、そしてどこか美しかった。しかし、それが彼の知っている妻ではないことも、確かだった。
翌日、林悦は約束通り病院に来た。だが、彼女の服装はさらに激しくなっていた。その日は、ほとんど下着と呼べるような小さな黒のキャミソールと、太ももの付け根までしかないスカートを履いていた。足元には十五センチはあろうかというプラットフォームシューズ。全身のタトゥーが露わになっていて、彼女の体はもはや以前のものではなかった。
「昨夜のパーティー、すごく楽しかったのよ。沢、聞いてくれる?」
林悦はベッドの横に座り、嬉しそうに話し始めた。その言葉には、以前のような優しさはなく、ただ興奮だけがあった。
「趙さんがね、私をステージに上げてくれたの。みんなの前で、私の新しい姿を披露したんだよ。そしたらみんな拍手してくれて、褒めてくれて…本当に気持ちよかった」
「ステージ?何をしたんだ?」
「踊ったのよ。それと…ちょっとしたパフォーマンス。みんな、私の体に釘付けだったわ。特に、この爪がすごく評判だったの」
彼女は手を掲げ、爪を自慢げに見せた。五センチの爪は、先端が尖っており、まるで武器のようだった。
「それからね、趙さんが私に特別なドレスをくれたの。次回のパーティーで着るんだって」
林悦はバッグから、極薄の黒いレースのドレスを取り出した。それはほとんど透明で、着れば体のラインが丸見えになるだろう。
「こんなもの…」
「綺麗でしょ?沢、あなたの目にはどう映る?」
林悦は立ち上がり、ドレスを体に当ててみせた。彼女の体の曲線がはっきりと浮かび上がる。陳沢は目を背けた。
「そんな服を着るのはやめろ!お前は俺の妻だ!」
「俺の妻?あら、そうだったわね」
林悦は笑った。その笑い声は無邪気で、しかしどこか残酷だった。
「でもね、沢、私はもうあんたの妻じゃないのよ。私は…趙さんのものなの」
「何てことを言うんだ!」
陳沢は怒りのあまり、ベッドから起き上がろうとした。しかし、身体が思うように動かない。林悦はそれを一瞥し、優しく微笑んだ。
「無理しないで、沢。あなたはまだ回復途中なんだから。それにね、私、もうあなたの世話をする必要もないの。趙さんが全てやってくれるから」
「悦…何を言ってるんだ…」
「本当のことよ。私はもう、あなたに縛られない。自由になったの」
林悦はそう言って、バッグを手に取った。その動きは優雅で、しかし冷たかった。
「じゃあね、沢。多分、もう二度と来ないと思うわ。だって、私、忙しいから」
「待って!悦!頼む!待ってくれ!」
陳沢の叫びも虚しく、林悦は振り返らずに病室を出て行った。扉が閉まる音が、虚しく響く。
陳沢は枕に顔を埋めた。涙が止まらない。彼の妻は、もう戻ってこない。あの男が彼女を奪い去った。いや、彼女自身が自ら進んで行ったのだ。薬物と洗脳によって、彼女は完全に変わってしまった。
その日から、林悦は一度も病院に来なかった。代わりに、趙擎の会社から見舞いの品が届くようになった。高価な果物や花束には、必ず一枚の写真が添えられていた。写っているのは、林悦の新しい姿。彼女は豪華なドレスを着て、パーティーで微笑んでいる。男たちに囲まれ、彼女の体に触れる手もある。彼女の顔には、陶酔にも似た表情が浮かんでいた。
陳沢は日に日に憔悴していった。彼は必死に林悦を取り戻そうと考えたが、何もできない。病院のベッドに寝ているだけの自分が、無力すぎた。
そんなある日、一通の手紙が届いた。差出人は趙擎だった。封筒を開けると、中には林悦が撮影した写真と、短い手紙が入っていた。
「陳沢様
奥様は今、私の所有物として大変ご活躍されています。彼女は極上の快楽に浸り、もはやあなたのことを覚えていません。彼女は私の命令に従うだけの、完璧な人形です。
あなたはもう、彼女に関わる必要はありません。もし、どうしても彼女に会いたいのであれば、こちらの住所へお越しください。ただし、その場合は、あなたの目に映るのは、もはやあなたの妻ではない、私の作品のひとつだけです。
趙擎」
手紙には、林悦の新しい住所が書かれていた。陳沢はその手紙を握りしめた。彼の心は怒りと悲しみで満ちていた。しかし、同時に、一抹の好奇心もあった。彼女が今、どのような姿で、どのような生活を送っているのか。会いたい。でも、会ってしまえば、最後の希望も失われる。
陳沢は手紙を握りしめたまま、固まっていた。窓の外は、春の日差しが差し込んでいる。しかし、彼の心は冬のままだった。
数日後、陳沢は病院を抜け出した。体力はまだ十分に戻っていないが、どうしても林悦に会いたかった。彼はタクシーに乗り、手紙に書かれた住所へ向かった。
着いた先は、高級マンションの一室だった。インターホンを押すと、しばらくして声が聞こえてきた。
「はい?」
それは林悦の声だった。しかし、以前の声とは違う。甘く、艶めかしい響きがある。
「悦…俺だよ。沢だ」
沈黙が続いた後、ドアが開いた。そこに立っていたのは、もはや人間離れした美貌の女だった。
林悦は全身にゴールドのラメを散りばめたドレスを着ていた。胸元は深く開き、腰には鎖が巻かれている。五センチの爪はゴールドに塗り替えられ、足の爪も同色に輝いていた。髪はブロンドに染められ、瞳はグリーンのコンタクトレンズで覆われている。全身に彫られたタトゥーが、ドレスの隙間から覗いていた。
「沢…来てくれたのね」
林悦の声は甘く、しかし冷たかった。彼女はゆっくりとドアを開け、彼を中に入れた。
部屋の中は、異様な雰囲気に包まれていた。壁には大きな鏡がいくつも貼られ、天井からは赤い照明が照らされている。中央には大きなベッドがあり、周りには様々な器具が置かれていた。
「ここが…あんたの家なのか?」
「そうよ。趙さんがくれたの。素敵でしょ?」
林悦は優雅にソファに座り、足を組んだ。その動きに合わせて、彼女の体の曲線が強調される。
「悦…俺と一緒に帰ろう」
陳沢は必死に言った。しかし、林悦は軽く笑った。
「帰る?どこへ?ここが私の家よ。沢、あなたの家には帰らないわ」
「なぜだ?俺たちは夫婦だろう?」
「夫婦?そうだったわね。でも、それは過去のことよ。今の私は、趙さんの所有物。それで十分幸せなの」
林悦はそう言って、バッグから小さなボトルを取り出した。中には、前回見た透明な液体が入っている。
「それ、また飲むのか?」
「そうよ。これを飲むと、すごく気持ちよくなるの。あなたも飲んでみる?」
彼女はボトルを差し出した。陳沢は首を振る。
「いらない。悦、そんなものはやめろ!お前は薬物にやられてるんだ!」
「薬物?違うわ。これはただの快楽の液体よ。私を自由にしてくれるの」
林悦はボトルのキャップを開け、一気に飲み干した。しばらくすると、彼女の目つきが変わり、頬が紅潮し始めた。
「はあ…気持ちいい…」
彼女はゆっくりと立ち上がり、体をくねらせた。その動きは官能的で、陶酔的だった。
「悦…しっかりしろ!」
陳沢は彼女の肩を掴んだ。しかし、林悦は彼の手を振り払った。
「触らないで!あなたに触られるのは嫌なの!」
彼女の声は鋭かった。その目には、憎しみの色すら浮かんでいる。
「お前…」
「私はもう、あなたの妻じゃないの。私は趙さんのもの。あなたはもう必要ないのよ」
林悦は冷たく言い放った。陳沢の心は張り裂けそうだった。
「なぜだ…なぜそんなことを言うんだ…」
「だって、それが真実だから。沢、あなたはただの過去の人よ。私は今、新しい人生を生きている。趙さんがくれた、新しい人生を」
林悦はそう言いながら、鏡の前に立った。彼女は自分の姿を眺め、満足げに微笑む。
「綺麗でしょ?私、こんなに綺麗になったんだよ。あなたと一緒にいた時は、こんな自分に気づかなかったわ」
「悦…」
「もういいわ。あなたは帰ってちょうだい。私は今夜、趙さんのパーティーがあるから、準備しなくちゃ」
林悦は振り返らずに、そう言った。その背中は、もう以前の彼女ではなかった。
陳沢は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。彼の目から、涙がこぼれ落ちる。
「悦…」
「さよなら、沢。もう二度と、私に会おうとしないで」
林悦の声は冷たく、そして確固たるものだった。陳沢は、もはや彼女を取り戻せないことを悟った。
彼はゆっくりと背を向け、部屋を出た。背後でドアが閉まる音がする。それが、彼の人生の終わりの音のように聞こえた。
病院に戻った陳沢は、深い絶望に落ち込んだ。彼の愛した妻は、もうどこにもいない。代わりに存在するのは、趙擎が作り出した、美しくも異様な人形だけだった。
その夜、陳沢はベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。彼の頭の中には、林悦の新しい姿が焼き付いている。緑からブロンドに変わった髪、五センチの爪、全身のタトゥー、誇張されたS字カーブの体型。あれはもう、彼の知っている林悦ではなかった。
しかし、それでも彼は彼女を愛していた。たとえ彼女が変わってしまっても、彼の心の中には、かつての優しい妻の姿が生き続けている。
「悦…俺は絶対に、お前を取り戻す…」
陳沢は拳を握りしめた。彼の目には、強い決意の光が宿っていた。しかし、その光は、すぐに暗く曇った。
彼は無力だった。病気で弱った身体では、何もできない。あの男の持つ権力と富の前では、ただの無力な一市民に過ぎない。
陳沢は涙を流しながら、眠りについた。夢の中で、彼はかつての林悦と出会う。優しく微笑む彼女の姿が、あまりにも懐かしかった。
翌朝、一通の速達が届いた。差出人は趙擎だった。封筒を開けると、中には一枚のDVDと手紙が入っていた。
「陳沢様
昨夜のパーティーの様子をお送りします。奥様の新しい姿をご覧ください。彼女は本当に輝いています。あなたも、きっと気に入るはずです。
なお、彼女はもう二度と、あなたの元には戻りません。彼女は今、私の完全な所有物です。あなたが何をしようと、無駄ですよ。
趙擎」
陳沢は震える手でDVDをプレーヤーにセットした。画面には、豪華なパーティー会場が映し出される。中央には、ほとんど裸同然のドレスを着た林悦が立っていた。彼女の体は鎖で飾られ、五センチの爪が光を反射している。
彼女は男たちに囲まれ、笑顔を振りまいていた。その笑顔は、陳沢がかつて見たことのないものだった。妖艶で、そしてどこか空虚だった。
映像が進むにつれ、林悦の行動は過激になっていく。彼女は男たちに体を撫でさせ、自らも挑発的な動きをする。そして最後には、趙擎の腕の中に倒れ込んだ。
陳沢は画面を見つめたまま、動けなかった。彼の胸は激しく痛み、涙が止まらない。
「悦…どうして…」
彼は膝から崩れ落ちた。もはや、全てが終わった。彼の妻は、永遠に戻ってこない。
それから数週間後、陳沢は退院した。しかし、彼の心は完全に壊れていた。彼は自宅に戻り、林悦の痕跡を全て処分した。写真、服、思い出の品。全てを燃やし、灰にした。
しかし、彼の心から林悦の記憶は消えない。彼女の新しい姿、あの異様な美しさ。そして、彼女の最後の言葉。
「私はもう、あなたの妻じゃないの」
その言葉が、陳沢の頭の中で繰り返し響く。彼は窓の外を見つめながら、呟いた。
「悦…どこにいるんだ…」
その時、彼のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号からだ。恐る恐る通話ボタンを押すと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「沢?私よ。林悦よ」
その声は、以前の優しい響きに戻っていた。陳沢の心臓が激しく鼓動する。
「悦?!どこにいるんだ?!」
「私…今、家の前にいるの。あなたに会いたくて…」
陳沢は急いで玄関に走った。ドアを開けると、そこにはかつての林悦が立っていた。もう、異様な化粧も、五センチの爪も、タトゥーもない。彼女は以前のままの姿で、涙を流しながら立っていた。
「沢…ごめん…私…」
林悦は言葉を詰まらせた。陳沢は彼女を抱きしめた。しかし、その瞬間、彼の腕に異変が起きる。林悦の体に触れた手に、鋭い痛みが走った。
「何だ?!」
彼は手を離し、自分の手を見た。そこには、五ミリほどの注射針が刺さっていた。
「悦…?」
林悦の顔から笑顔が消え、代わりに冷たい表情が浮かんだ。
「ごめんね、沢。でも、趙さんが言ってたの。あなたが私に執着するなら、あなたを消せって」
「何てことを…」
陳沢の体から力が抜けていく。彼はその場に倒れ込んだ。視界がぼやける中、彼は林悦の顔を見た。彼女の目には、涙が浮かんでいる。
「ごめん…でも、私はもう、彼のものなの…」
林悦は震える声でそう言うと、振り返らずに去っていった。
陳沢は冷たい地面の上で、意識を失っていった。彼の最後の記憶は、彼女の背中と、響く足音だった。
全ては、趙擎の思うままになっていた。林悦は完全に彼の所有物となり、陳沢は消される。これで、彼女は完全に自由になる。ただし、それは趙擎の定義する自由だった。
陳沢が再び目を覚ました時、彼は見知らぬ部屋にいた。白い壁、銀色のベッド。そして、彼の体にはいくつもの管が繋がれていた。
「目が覚めたか」
声が聞こえ、振り返ると、そこには趙擎が立っていた。
「ここは…」
「私の研究所だ。あなたには、これから特別な治療を受けてもらう」
「治療?何の治療だ?」
「記憶を消す治療だ。あなたは林悦のことを忘れる。全てを忘れるんだ」
趙擎は冷たく笑った。陳沢は叫ぼうとしたが、声が出ない。
「安心しろ。苦痛はない。ただ、あなたの人生は、今夜で終わるだけだ」
趙擎が手を上げると、看護師たちが陳沢の周りに集まった。彼らの手には、注射器が握られている。
「やめろ!頼む!やめてくれ!」
陳沢の叫びも虚しく、注射針が彼の腕に刺さった。そして、意識が再び闇に沈んでいった。
その頃、林悦は趙擎のマンションで、鏡の前に立っていた。彼女の体は再び、異様な姿に戻っている。五センチの爪、全身のタトゥー、誇張された体型。彼女は新しいドレスを身にまとい、今夜のパーティーの準備をしていた。
「悦、準備はいいか?」
趙擎の声が聞こえる。彼女は振り返り、妖艶な笑みを浮かべた。
「ええ、いつでも大丈夫よ」
「今夜は、特別なゲストが来る。お前の新しい相手だ」
「わかりました。私は、あなたの思い通りに動きます」
林悦の声は甘く、しかしどこか空虚だった。彼女の目には、かつての優しさはもうない。ただ、服従と快楽への渇望だけがあった。
彼女は鏡の中の自分を見つめながら、呟いた。
「さようなら、沢。私の愛した人」
その言葉は、誰にも聞かれることなく、闇に消えていった。
そして、パーティーの夜が始まる。林悦は再び、趙擎の腕の中にいる。彼女の体は、彼の所有物として、永遠に縛られることになる。
一方、陳沢は研究所の暗い部屋で、全ての記憶を消されていた。彼はもはや、林悦のことを覚えていない。ただ、胸の奥に、何かが欠けたような感覚だけが残っていた。
深淵の約束は、こうして果たされた。だが、それは愛の約束ではなく、支配と服従の約束だった。林悦は永遠に、趙擎の人形として生きていく。そして、陳沢は永遠に、その記憶を消されて、虚無の中を彷徨うことになる。
全ては、趙擎の掌の上で踊らされていた。彼の作り出した歪んだ世界で、林悦は永遠に、美しくも異様な存在として輝き続ける。それが、彼女に与えられた新しい人生だった。