翌朝、まだ陽が昇って間もない時間に、李薇がノックもそこそこに蘇晩晴の寝室のドアを開けた。
「晩晴さん、お目覚めですか?」
カーテンの隙間から射し込む朝日が、ベッドの中の女の横顔を照らしている。蘇晩晴はすでに目を覚ましていた。いや、一睡もできなかったと言っていい。昨夜はあの忌々しい椅子に拘束されたまま、深夜まで新しい記憶の断片が頭の中で渦巻いていた。身体のそこかしこに残る痛みが、現実が夢ではないことを告げている。
「……何の用よ、李薇」
蘇晩晴は起き上がらず、天井を見つめたまま問うた。その声にはまだ僅かに誇りが滲んでいるが、どこか掠れていた。
李薇は一歩前に進み出て、手に持ったタブレットを軽く掲げた。
「パトロン様から連絡がありました。本日、直接お会いしたいとのことです」
「断れ」
即答だった。蘇晩晴は身体を起こし、乱れた長い黒髪をかき上げながら、李薇を鋭い目で睨みつけた。その瞳の奥には、まだ消え去らない女王としての誇りが燻っている。
「私は今日は都合が悪い。そう伝えろ」
李薇は微かに息を吐き、表情を変えずに言った。
「断った場合の結果は、あなたもよくご存じでしょう。それに……」
彼女は一呼吸置いて、言葉を慎重に選んだ。
「パトロン様からのお達しで、あなたの……尻の定期的な検査が必要だそうです。もう二週間以上が経過しています。放置すれば、傷痕の状態が悪化する可能性があります」
蘇晩晴の頬が一瞬で紅潮した。それは羞恥か、怒りか、あるいはその両方だった。彼女は自分の尻に刻まれたあの痕跡を思い出した。新しい記憶の中で、あれは決して消えることのない烙印として彼女に刻まれている。自分が誰の所有物であるかを、世界に知らしめるための。
「私は……」
蘇晩晴は言いかけて、言葉を飲み込んだ。心の奥底では、まだ叫びたい衝動が渦巻いている。『私は誰の奴隷でもない』と。しかし、身体が勝手に動き始めていた。彼女はシーツを剥ぎ取り、ベッドから足を下ろした。その動作には、ほとんど反射的な従順さが宿っている。
新しい記憶の痛みが、理性を上回る。あの治療器具の冷たい感触が、皮膚に焼き付くような苦痛が、蘇晩晴の意志を無意識のうちに支配していた。
「……わかった。行けばいいんでしょ」
低く、投げやりな声だった。自分でも、その声に含まれる諦めの色に気づいている。
李薇は何も言わずにタブレットを操作し、スケジュールを調整した。その後、蘇晩晴の背後に回り、彼女の着替えを手伝おうとした。蘇晩晴はそれを手で制した。
「自分でできる」
「でも、パトロン様はお召し物にも指定があります。今日は……」
「黙れ。わかってる」
蘇晩晴はクローゼットを開け、指定された服を取り出した。それは一見すると上品なワンピースだが、背中が大胆に開いており、しかも腰回りには特殊な装飾が施されていた。彼女が屈むたびに、その装飾が彼女の姿勢を強制的に矯正する。パトロンは、彼女が公の場でもその姿を晒すことを好んだ。
着替えを終えた蘇晩晴は、鏡の前で自分の姿を見つめた。そこには、高慢な顔立ちを持ちながらも、服装のせいでどこか卑屈に見える女が映っている。彼女は唇を噛みしめ、目をそらした。
車に乗り込む直前、蘇晩晴は隙を見て逃げ出そうとした。玄関から駐車場へ向かう短い通路の途中、彼女は突然方向を変え、建物の裏手へと走り出した。しかし、その動きを予期していたかのように、影から陳姐が現れた。
「どこへ行くんですか、晩晴さん」
陳姐の声は低く、無駄がない。彼女は蘇晩晴の前に立ちはだかり、その体躯で道を塞いだ。蘇晩晴は歯を食いしばり、彼女の脇をすり抜けようとしたが、陳姐はあっさりと彼女の腕を掴んだ。力は強く、決して逃げられないことを悟らせる。
「離して」
「パトロン様の命令です。あなたを安全に、確実にお連れしろと。それに、逃げ出せばあなたの立場がさらに悪くなる。それはお互い避けたいことです」
陳姐の目には、僅かに哀れみの色が浮かんでいるように見えた。しかし、彼女の手の力は緩まない。蘇晩晴は抵抗を諦め、俯いた。その肩が小刻みに震えていた。
車の中では、王哥が無言で運転していた。助手席には李薇、後部座席の蘇晩晴は、特別に設置された座席に座らされていた。その座席は通常のものより低く、シートベルトの位置も特殊で、彼女の姿勢を強制的に前傾させた。まるで跪いているかのような体勢になる。蘇晩晴はそれを恥辱と感じながら、身体の記憶がその姿勢に抗うことを許さなかった。
車窓から流れる街並みは、どこか現実離れしていた。蘇晩晴は窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、その顔が徐々に新しい記憶のそれに塗り替えられていくのを感じた。元の世界の記憶は、王女であり権力者だった。しかしこの世界では、彼女はパトロンの所有物に過ぎない。
別荘は都心から少し離れた高級住宅地にあった。門を潜ると、広大な庭園が広がり、中央には石造りの豪奢な邸宅がそびえている。車は正面玄関の前に停まり、李薇が先に降りてドアを開けた。
蘇晩晴はゆっくりと車から降りた。足元の砂利が、自分の重い足取りを嘲るように音を立てる。彼女は顔を上げ、正面の巨大な玄関を見つめた。この扉の向こうに、彼女を支配する人物がいる。その事実が、胸の奥で重くのしかかる。
李薇が先導し、陳姐が後ろから付き従う。三人は玄関を潜り、広いエントランスを通り抜け、二階の書斎へと導かれた。廊下の壁には高価そうな絵画が掛けられ、床には分厚い絨毯が敷かれている。すべてが静かで、異様な威圧感を放っていた。
書斎のドアの前で、李薇が立ち止まった。そして、振り返って蘇晩晴を見た。
「パトロン様がお待ちです。失礼のないように」
蘇晩晴は何も答えず、ただじっとドアを見つめた。その瞳には、まだかすかな抵抗の光が残っている。しかし、李薇がドアを押し開けた瞬間、その光は一瞬で消え去った。
書斎の中は思ったより広く、一面の本棚と、中央に置かれた大きな机が印象的だった。窓からは午後の柔らかな日差しが差し込み、机の上の書類を照らしている。その向こうに、彼女のパトロン——あなた——が椅子に座っていた。
あなたは顔を上げ、蘇晩晴を見た。その目は冷たく、しかしどこか興味深そうに彼女の一挙一動を観察している。手に持ったペンを机に置き、背もたれに寄りかかると、静かな声で一言だけ言った。
「こっちに来い」
蘇晩晴の全身が硬直した。頭の中では、『こんな命令に従うものか』という声が響いている。しかし、足は無意識のうちに一歩前に踏み出していた。新しい記憶の鎖が、彼女の身体を操っている。彼女は歯を食いしばりながら、ゆっくりと机の前に進んだ。
あなたは彼女の前に立つと、顎で床を指した。その動作には、一切の曖昧さがなかった。
「跪け」
蘇晩晴はそこで一瞬、止まった。心臓が激しく打ち鳴り、耳の中で血の音がする。この場で拒絶すれば、次に待つものが何か、彼女はよく知っていた。新しい記憶は、それを痛みと共に教えている。屈辱に耐えなければ、さらに深い屈辱が待っている。
彼女はゆっくりと膝を折った。最初は片膝、次にもう片方。絨毯の感触が冷たく、彼女の膝に染み入る。彼女は頭を下げ、目線を床の一点に固定した。その姿勢が、ここでの自分の立場を如実に物語っていた。
あなたは何も言わず、ただその姿をしばらく見下ろしていた。沈黙が重くのしかかる。蘇晩晴は自分の呼吸さえも、許しを得ずに大きくできないような気がした。
やがて、あなたが軽く手を挙げると、李薇と陳姐は黙って部屋を退出した。ドアが閉まる音が、書斎の静寂を一層深くする。
あなたは立ち上がり、蘇晩晴の前に立った。彼女は顔を上げず、ただ自分の震える指先を見つめている。あなたの手が伸びてきて、彼女の顎を捉えた。強く、優しくない手つきで、彼女の顔を無理やり上向かせる。
「目をそらすな」
あなたの声は低く、命令的だった。蘇晩晴は恐怖と屈辱で目を潤ませながらも、それでも必死に視線をそらさずにいた。その瞳の奥に、まだわずかに残る誇りの欠片が、あなたの目に映っている。
しかし、その誇りも、やがて静かに沈んでいく。蘇晩晴は唇を噛みしめ、すべてを受け入れるように、ゆっくりと目を閉じた。その瞬間、彼女の中で何かが折れたような音がした。
あなたは彼女の顎を離し、机の上に置かれていた一枚の書類を手に取った。そして、それを蘇晩晴の前に差し出した。
「読め」
蘇晩晴はおずおずと両手でそれを受け取り、震える声で読み始めた。そこには彼女の行動規範が細かく記されていた。どのように振る舞い、どのような場でどのような姿勢を取るべきか。そして、それに従わなかった場合の罰則が、淡々とした文字で綴られている。
彼女が読み終えるのを待って、あなたは言った。
「今夜から、この別荘で過ごしてもらう。お前の部屋はもう用意してある」
蘇晩晴は顔を上げ、あなたを見た。その目に、かすかな困惑と恐怖が混じっている。
「私の……部屋?」
「ああ。これからは、呼び出しがあるたびにここに来る必要はない。お前はここに住み、私のそばにいる。それが、新しいルールだ」
あなたの言葉に、蘇晩晴の心臓が一気に冷えていくのを感じた。この豪華な檻の中で、彼女は完全に飼いならされることになる。元の世界の誇りは、この世界の現実の中で、少しずつ砕け散っていく。
彼女は床に両手をつき、深く頭を下げた。その額が絨毯に触れる。それは、完全なる服従の証だった。
「……かしこまりました」
その声はか細く、自分の意志とは裏腹に、自然と口をついて出た言葉だった。蘇晩晴はその言葉を聞きながら、自分がもう二度と、あの女王に戻れないことを悟った。