# 堕落の影 第1章 誘惑の始まり
秋の陽射しがキャンパスを柔らかく包むなか、劉美玉は図書館へ向かう並木道を歩いていた。黄色く染まり始めた銀杏の葉が風に舞い、彼女の黒髪に触れる。手にしたノートを胸に抱きしめ、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。恋人・陳河との待ち合わせの時間まではまだ余裕があり、少しだけ自分の時間を楽しめる幸せを感じていた。
「こんにちは、お嬢さん」
突然、背後から聞こえた低い声に、劉美玉は足を止めた。振り返ると、見知らぬ黒人男性が立っていた。彼は浅黒い肌を陽光に輝かせ、白い歯を見せて微笑んでいる。その瞳は鋭く、劉美玉の全身を舐めるように見つめていた。
「すみません、何か御用ですか?」
劉美玉は一歩後退り、警戒心をあらわにした。彼女の目がキョロリと周囲を伺う。キャンパスにはまだ大勢の学生が行き交っている。それだけが彼女の心を少しだけ落ち着かせた。
「いや、ただ美しい女性に声をかけたくなったんだ。私はマーク、国際交流学科に所属している。君の名前を聞いてもいいかい?」
マークと名乗った男性は、ポケットから黒い名刺を取り出し、劉美玉に差し出した。彼女はそれを受け取らず、首を振った。
「すみません、私は急いでいますので。失礼します」
劉美玉は無理やり笑顔を作り、足早にその場を去ろうとした。しかしマークは一歩も動かず、ただ微笑みを浮かべたまま彼女の背中に向かって言った。
「逃げる必要はないよ、劉美玉さん。君のことはよく知っているんだ。陳河の恋人だよね?」
彼の言葉に劉美玉の体が固まった。どうして自分の名前を?どうして陳河のことを知っている?振り返らずにいられなかった。彼女の目には恐怖が浮かんでいた。
「どうして……私の名前を?」
「君は南大で有名だからね。ただの善意だよ。もし何か困ったことがあれば、いつでも連絡してくれ」
マークはそう言うと、軽く手を振って人混みの中に消えた。劉美玉はその場に立ち尽くし、鼓動が速くなるのを感じた。彼の声にはなぜか引力のようなものがあり、心にざわつきを残した。
その夜、劉美玉は陳河のアパートで食事を共にしていた。テーブルには彼の手料理が並んでいる。陳河は優しく微笑みながら、彼女の顔色を心配そうに覗き込んだ。
「どうしたんだ、美玉?今日はなんだか落ち着かないみたいだね」
劉美玉は箸を置き、うつむいた。手がわずかに震えている。
「今日……キャンパスで変な人に声をかけられたんだ。マークっていう留学生らしいんだけど、私の名前も君のことも知ってるんだよ。なんだか気味が悪くて」
陳河の顔が一瞬で曇った。彼は手を伸ばし、劉美玉の冷えた手を包み込んだ。
「怖がらなくていいよ。きっとただの暇な奴だ。明日から僕が送り迎えするから、一人で行動しないでくれ」
「うん……」
劉美玉は頷いたが、胸の奥に引っかかる違和感は消えなかった。彼女は陳河の温かい手のひらに自分の指を絡め、安心感を求めた。
それから三日後、劉美玉が教室で講義を受けていると、テキストの間に一枚のメモが挟まれているのを見つけた。白い紙には、流麗な英文で一言だけ書かれていた。
*“You looked beautiful today. – M.”*
劉美玉の心臓がドキリと鳴った。授業中だというのに、彼女は辺りをキョロキョロと見回した。誰も怪しい者は見当たらない。窓の外を見ると、銀杏並木の向こうにマークの姿が一瞬浮かんだ。彼は手を振ると、電光石火の速さで人波に溶けていった。
翌日、彼女の机には真っ赤なバラの花束が置かれていた。添えられたカードには「あなたの美しさは花に勝る」と日本語で書かれている。周りの女子学生たちが好奇の目で劉美玉を見つめる。
「ねえ、美玉、もしかして新しい彼氏?あの留学生のマーク君だって聞いたよ。すごくセクシーだって評判なんだから」
友人の一人が含み笑いをしながら言った。劉美玉はその言葉を遮るように花束をゴミ箱に捨てた。
「やめてよ。私は陳河が好きだから」
視線を感じて振り返ると、廊下の向こう側にマークが立っていた。彼は微笑み、片手を上げて小さな挨拶をした。劉美玉は無視して教室を出ようとしたが、足がもつれて廊下の柱にぶつかりそうになる。そのとき、マークがすかさず彼女の腕を掴んだ。
「大丈夫?怪我はない?」
「離して!」
劉美玉は手を振り払った。彼の指が触れた部分が熱く焼けるように感じられた。
「そんなに拒否しなくてもいいじゃないか。ただ友達になりたいだけだよ。今週末にパーティーを開くんだ。もしよかったら来てほしい。もちろん、陳河君も歓迎するよ」
マークは胸のポケットから金色の招待状を取り出し、劉美玉の手に押し付けた。彼女はそれを受け取るしかなかった。彼の視線には抗えない力があった。
「断るわ」
「そう言わずに、一度くらい顔を出してみなよ。陳河君だって新しい友達が欲しいだろう?」
マークはそう言い残し、軽やかな足取りで去っていった。劉美玉は招待状を握りしめ、震える指でそれを破り捨てようとした。しかし、なぜかそれができなかった。彼女の目は招待状に印刷された住所に釘付けになっていた。そこは、キャンパスの外れにある古い洋館だった。
その夜、陳河は劉美玉の部屋を訪ねた。彼女はベッドの端に座り、招待状を見つめている。陳河はそれを見ると、苦々しい表情で口を開いた。
「またあのマークって奴からか?」
「うん……無視しようと思ったけど、彼はしつこいわ。君も一緒に行ってくれない?断る理由を伝えるついでに」
陳河はため息をついた。彼の目には不安と怒りが混ざっていた。
「わかった。でも、絶対に油断するなよ。あの男には何か危険な匂いがする」
しかし、その言葉とは裏腹に、陳河の心の中にはすでに深い不安が渦巻いていた。自分だけでは劉美玉を守りきれないかもしれない。そんな無力感が彼の胸を締め付けた。
週末、マークのパーティーは派手に開かれた。会場の洋館は薄暗い照明に照らされ、低音の音楽が響き渡る。招待された学生たちは豪華なドレスやスーツに身を包み、笑い声とグラスの触れ合う音が絶えなかった。劉美玉は陳河の腕にしがみつくようにして会場に入った。彼女の目はキラキラと輝く装飾に驚きながらも、心の奥では警鐘が鳴り響いていた。
マークはすぐに二人を見つけ、ワイングラスを手に歩み寄ってきた。
「来てくれてありがとう。美玉さん、そのドレスは本当によく似合っている」
劉美玉は陳河の腕をぎゅっと握った。彼女は何も答えず、ただ俯いた。陳河が代わりに口を開こうとした瞬間、マークは先に言葉を続けた。
「君の恋人との永遠の愛を称えて、特別なプレゼントを用意したんだ」
そう言って、彼は手を叩いた。すると、使用人が大きな箱を運んでくる。箱の中には、純白のシルクのドレスと、真珠のネックレスが収められていた。劉美玉は息を呑んだ。あまりにも高価な品物だった。
「そんなもの、受け取れません!」
劉美玉は声を張り上げた。周りの客たちが一瞬静まり、彼女に視線を向ける。
「どうか遠慮しないで。これは友情の証だ」
マークはそっと微笑み、彼女の手に箱のリボンを押し込んだ。その瞬間、劉美玉の指が彼の手に触れ、電流のようなものが走った。彼女はすぐに手を引っ込め、箱を床に落とした。
「さあ、楽しんでくれ。パーティーはまだ始まったばかりだ」
マークは優雅に背を向け、人混みの中に消えた。劉美玉は震える手で床から箱を拾い上げ、陳河の方を見た。彼の表情は固く、拳を握りしめている。
「帰ろう、美玉」
「うん……」
陳河は彼女の手を引いて、洋館を後にした。外の冷たい風が劉美玉の頬を打った。空には星が一つも見えず、深い闇が広がっているだけだった。
「あの男、絶対に何か企んでる……」
陳河が呟いた。しかし、劉美玉は何も答えられなかった。彼女の心の中では、マークの言葉が反響していた。『永遠の愛を称えて』。その言葉が、陳河と築いてきた日々を嘲笑っているように思えたのだ。
その夜、劉美玉は自分の部屋で独り、プレゼントの箱を開けた。白いドレスは月光に照らされて淡く光り、真珠は滑らかな輝きを放っている。彼女はそっとドレスに触れた。その感触は、まるで彼女の心を優しく撫でる蛇の肌のように、甘美で危険な吸引力を持っていた。
「私は……変わっちゃいけない」
呟いた声は、誰にも届かなかった。窓の外では、黒い影が彼女の部屋を見つめている。マークは携帯電話を取り出し、一人微笑んだ。
「もうすぐだ……堕ちていくのが待ち遠しい」
彼の声は夜風に消え、キャンパスにはまた静寂が戻った。しかし、劉美玉の心には、すでに小さな亀裂が走っていた。その亀裂は、やがて深い闇へと彼女を誘うだろう。