# 第一章 突然の交通事故
十一月の終わり、乾いた冷たい風が街路樹の葉を一枚、また一枚と舞い散らせていた。林悦は夫の陳沢とともに、久しぶりの週末デートに出かけようとしていた。結婚五年目、共働きで少しずつ貯めてきた小さなマンションのローンもあと数年で終わる。そうすれば、少しは余裕のある生活が送れるはずだった。
「今日は何食べたい?」
陳沢がハンドルを握りながら、優しい目で妻を見つめた。彼の横顔は少し疲れていたが、それでも林悦に向ける笑顔は温かかった。
「うーん…最近節約続きだったし、たまには焼肉なんてどう?」
林悦はエアコンの効いた車内で、コートの襟元を整えながら答えた。彼女の声には久しぶりの贅沢への期待が滲んでいた。
「いいね。駅前の新しい店、前から気になってたんだ。」
陳沢がそう言ってウインカーを出そうとした、その瞬間だった。
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轟音。衝撃。世界がひっくり返るような感覚。
林悦の意識がかろうじて残っていたのは、シートベルトの正しい装着と、エアバッグが適切に作動したおかげだった。右側面からの追突—交差点で信号無視した大型トラックが、彼らの車を轢いたのだ。
ガラスの破片が飛び散り、金属が軋む音が耳の奥で響き続ける。血の匂い。そして、隣から聞こえてくる苦しげなうめき声。
「…さわ…陳沢?!」
林悦は首をなんとか動かし、運転席を見た。そこには、血まみれの夫の姿があった。ハンドルにうつ伏せになった陳沢の顔からは、赤黒い液体が滴り落ちている。彼の身体は明らかに不自然な角度でねじれていた。
「誰か!助けて!お願い、誰か!!」
林悦の悲鳴が、砕け散った車内に響き渡った。彼女自身も足に鋭い痛みを感じていたが、それどころではなかった。夫の命が——夫の命が消えかけている。
サイレンの音が遠くから近づいてくる。救急車の赤い光が、粉々になったフロントガラスを通してチカチカと点滅していた。
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集中治療室の前の硬いプラスチック椅子に座りながら、林悦はまだ震えの止まらない手で診断書を握りしめていた。左足首の捻挫と全身の打撲—自分は軽傷で済んだ。だが、陳沢は違った。
「陳沢様のご容態ですが…」
白衣を着た医師が、難しい表情で林悦の前に立った。見たところ四十代後半のその医師は、何度も同じような話をしてきたのだろう、慣れた口調でありながらも、どこか気まずそうだった。
「頭部に強い衝撃を受けており、内出血を起こしています。それに加えて、内臓にも損傷が見られます。すぐに手術を行わなければ、命の保証はできません。」
医師の言葉が、遠くの出来事のように林悦の耳に届いた。彼女は必死に冷静を保とうとしたが、唇は震え、声は上擦った。
「…手術を、お願いします。すぐに。」
「承知しました。ただ、手術費用とその後の治療費を合わせますと、概算で七十万円ほどになります。保険の適用もありますが、それでも自己負担分が三十万円以上必要です。」
三十万円。数字が頭の中で反響した。確かに少しは貯金があった。しかし、それはマンションのローンや生活費を差し引いた残りだった。三人分の給料—いや、自分ひとりの給料と、陳沢の休業補償だけでは、すぐに底をつく。
「…いつまでに、用意すればいいんですか?」
林悦の声はかろうじて絞り出されたものだった。
「できれば、一週間以内にお願いします。それ以上遅れると、最悪の場合、後遺症が残る可能性がありますから。」
医師はそう言うと、軽く頭を下げて病室へと戻っていった。
林悦は手すりに掴まりながら、ゆっくりと立ち上がった。捻挫した足首がズキズキと痛む。それでも、彼女は病室へ向かって歩き出した。陳沢の顔を見なければ。彼に、必ず助けると約束しなければ。
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病室のドアを開けると、モニターの電子音だけが静かに鳴り響いていた。白いシーツに包まれた陳沢は、点滴と人工呼吸器に繋がれ、まるで眠っているように横たわっていた。しかし、その顔色は青白く、頬はこけていた。
林悦はゆっくりと彼のベッドサイドに歩み寄り、そっと手を握った。かすかに温もりが残っている手だった。かつては力強く、自分を包み込んでくれたその手が、今はこんなにも頼りなく細くなっている。
「…陳沢、聞こえる?」
彼女は囁くように言った。返事はない。ただ、モニターの波線が規則正しく動いているだけだった。
「あなたを絶対に助けるからね。お金のことなら、私がどうにかするから。あなたはただ、しっかり治ることだけ考えていて。」
林悦の目から涙が一滴、シーツの上に落ちた。彼女は急いで涙を拭った。今は泣いている場合じゃない。自分がしっかりしなければ。夫を守るのは、自分の役目だ。
病室の時計が午後九時を指している。窓の外では、都会のネオンが冷たく輝いていた。林悦は握った夫の手に力を込め、自分に言い聞かせるように繰り返した。
「大丈夫。絶対に、大丈夫だから。」
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翌日から、林悦の生活は一変した。昼間は病院で陳沢に付き添い、夜になると職探しに奔走した。彼女はもともと小さな広告会社で事務のパートとして働いていたが、時給制で収入は不安定だった。それに、陳沢の容態が落ち着くまでは、フルタイムの仕事に就くわけにはいかない。
「すみません、経験者を求めているんですよ。」
「あなたのスキルだと、うちではちょっと…」
「パートですら、今は募集していません。」
何度も何度も断られ続けた。日中に病院からインターネットカフェに通い、求人サイトを片っ端からチェックした。条件に合わないものはもちろん、高収入を謳う怪しい仕事すら、応募した。しかし、どこも採用には至らなかった。
ある日、林悦はスマートフォンの画面をスクロールしながら、疲れ果てた目でため息をついた。貯金の残高は、もう三万円を切っていた。友達や親戚に借金を頼もうとしたが、誰もが「自分たちも大変だから」と断った。中には「旦那さん、治らないかもしれないしね」と、残酷な現実を突きつける者もいた。
「どうしよう…本当に、どうすれば…」
林悦は病室のベンチに座り、うつむいた。涙が膝の上に落ち、ジーパンに染みを作った。もう、限界だった。自分には何もできない。ただ、夫が死ぬのを見ているしかないのだろうか。
その時だった。スマートフォンが震え、新しいメッセージが届いた。何気なくタップした林悦の目に、ある広告が飛び込んできた。
**『星輝グループ 秘書募集 月給五十万円以上 経験不問 未経験者歓迎』**
林悦は一瞬、目を疑った。五十万円。それは、自分がパートで働いていた時の三倍以上の金額だった。しかも、経験不問で未経験者歓迎。これほど条件の良い仕事は、今まで見たことがない。
「…嘘みたい。だって、こんなの絶対怪しい…」
彼女はそう呟きながらも、応募ボタンに指を伸ばしていた。もう、選択肢はなかった。夫を助けるためには、何でもするしかない。たとえ、それが危険な仕事でも。
面接は翌日に決まった。場所は、都心の高層ビルにある星輝グループの本社だった。林悦は鏡の前で、唯一持っているスーツに身を包み、髪を丁寧に整えた。顔色は悪かったが、化粧でごまかすしかない。
「行ってくるね。あなたを助けるためだから。」
病室の陳沢にそう言い残し、林悦は病院を後にした。
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星輝グループの本社は、ガラス張りの高層ビルだった。エントランスには警備員が立ち、厳重なセキュリティが敷かれている。受付で名前を告げると、すぐに最上階の社長室へ通された。
エレベーターの中で、林悦は何度も深呼吸を繰り返した。心臓が早鐘を打っている。この仕事を逃せば、もう夫を助ける道はない。絶対に採用されなければ。
エレベーターのドアが開くと、そこはまるで別世界だった。落ち着いた間接照明に照らされた廊下は、高級ホテルのようだ。壁には絵画が飾られ、床には分厚いカーペットが敷かれている。案内された先には、重厚な木製のドアがあった。
「どうぞ、お入りください。」
秘書らしき女性がそう言ってドアを開けた。
中は広々としたオフィスで、窓からは街の景色が一望できた。大きなデスクの向こうには、一人の男性が椅子に深く腰かけ、こちらを見つめていた。彼は三十五歳前後だろうか。スーツの上からでもわかるほど鍛えられた体躯、鋭い目つき、そしてどこか危険な雰囲気をまとっていた。
「林悦さんですね。私は代表の趙擎と申します。どうぞ、お掛けください。」
男—趙擎は、優雅な仕草で応接用のソファを指し示した。その声は低くてよく通り、聞く者を魅了するような響きがあった。
林悦は緊張しながらも、ソファに腰を下ろした。趙擎も向かいに座り、彼女をじっくりと観察するように見つめた。
「履歴書は拝見しました。広告会社での事務経験がおありなんですね。それに、経理の知識もあるとか。」
「はい、少しだけですが…」
林悦はかろうじて答えた。趙擎の視線が、自分の体を這うように動いている気がして、落ち着かなかった。
「うん。見た目も申し分ない。うちの秘書には、ルックスも重要な要素ですからね。」
趙擎はそう言って、にっこりと笑った。しかし、その笑顔にはどこか冷たいものがあった。
「それでは、採用ということで。月給は話の通り、五十万円。ただし、試用期間が三ヶ月ありまして、その間は三十万円となります。」
「それでも、十分です。ありがとうございます!」
林悦は思わず立ち上がりそうになった。三十万円でも、今の自分には天文学的な金額だった。
「ただし、条件があります。」
趙擎はデスクから一枚の書類を取り出し、林悦の前に差し出した。
「これが雇用契約書です。ご確認ください。」
林悦は急いで書類に目を通した。給与に関する項目、勤務時間、休日—すべてがまともな条件に見えた。しかし、最後のページに、小さな文字でこう書かれていた。
**『第十六条 契約者は、会社の指示する研修に無条件で従うものとする。研修内容の説明は、研修開始後に行う。研修を拒否した場合、契約は即時解除とする。』**
「…研修?」
林悦はその部分を指さして尋ねた。趙擎は相変わらず微笑みを浮かべたまま、答えた。
「ええ、うちでは秘書向けの特別な研修があるんです。主に、会社のルールや振る舞い方について学んでいただきます。拒否する必要はありませんよ。」
その言葉は、あまりにも自然だった。林悦は少し疑問に思ったが、それ以上のことを考える余裕はなかった。夫の手術費用。一刻も早く金が必要だ。
「…わかりました。サインします。」
林悦はペンを握りしめ、契約書に署名した。彼女の字は震えていたが、それでも力強く書いた。
趙擎は満足そうにそれを受け取り、自分の署名を加えた。そして、ニヤリと唇の端を持ち上げた。
「では、明日から出勤ですね。楽しみにしていますよ、林悦さん。」
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その夜、林悦は病室で陳沢に報告した。
「仕事、見つかったよ。月に五十万円もらえるんだ。これであなたの手術も、きっと大丈夫。」
彼女は夫の手を握りしめながら、笑顔を作った。陳沢はまだ意識は戻っていなかったが、手がわずかに動いた気がした。
窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。林悦は夫の横顔を見つめながら、今日の面接を思い出していた。趙擎の笑顔。あの冷たい目。そして、契約書の細かい文字。
不安が胸をよぎる。しかし、彼女はそれを振り払った。
「大丈夫。きっと、全部うまくいくから。」
彼女はそう自分に言い聞かせながら、明日からの新しい仕事に思いを馳せた。それが、自分を破滅へ導く沼の入り口だとは、まだ知る由もなかった。