# 第一章:絶望の治療探し
カーテンの隙間から差し込む朝日が、林浩の顔の上半分だけを照らしていた。彼はベッドの上で丸くなり、膝を抱えるようにして縮こまっている。三十歳を目前にした男性の姿とは思えない、幼児のような姿勢だった。
「浩、起きなさい。今日も新しい病院に行くのよ」
林母がドアの外から優しく、しかし諦めにも似た声をかける。彼女の声にはこの数年間で刻まれた疲労の跡がはっきりと滲んでいた。林浩は返事をしなかった。返事ができないのではない。ただ、声を出すことが怖かった。声を出せば、また母を失望させる。また父の眉間の皺を深くする。それがわかっているから、彼は黙り込むのだ。
「浩?聞こえてるの?」
ドアがゆっくりと開き、林母が顔を覗かせた。彼女の目は赤く腫れていた。昨夜も泣いたのだろう。林浩は自分のせいだと直感した。母の涙は全て、この役立たずの息子のせいなのだ。胸が締め付けられるように痛んだが、それを表現する方法を彼は知らなかった。
「起きるよ」
かすれた声でそう言うと、林浩はゆっくりと体を起こした。自分の体が重い。布団から出た腕は細く、青白い血管が透けて見える。ここ数年、まともに外に出ていないのだから当然だった。
リビングに行くと、林父がスーツ姿で新聞を読んでいた。しかしその目は新聞の文字を追っておらず、ただ虚空を見つめているだけだ。林浩が現れると、父は素早く視線を逸らした。
「食事を済ませたら出発するぞ。今日は大学病院の精神科を予約してある」
父の声は事務的で、感情が込められていなかった。かつてはもっと温かかったこの声が、今では機械的な指示を伝えるだけのものになっている。林浩はその変化の原因が自分にあることを痛いほど理解していた。
朝食のテーブルには三人が向かい合う。沈黙だけが流れる。箸の音、茶碗を置く音、それだけが部屋に響いた。林浩は俯いたまま、目の前のご飯を少しだけ口に運んだ。味がしない。何を食べても味がしないのは、もう何年も続いている。
「先週の病院は駄目だったが、今日の先生は評判がいいんだ。きっと…」
母が明るく振る舞おうとして言いかけた言葉は、途中で消えた。きっと何がいいのだろう。彼女自身ももう信じられなくなっていた。
大学病院の待合室は、白くて無機質だった。消毒液の匂いが鼻をつく。林浩は固いプラスチックの椅子に座り、自分の爪をじっと見つめていた。爪の周りのささくれを剥がす癖が、彼にはあった。血が出るまで剥がし続ける。その痛みだけが、自分が生きていることを実感させてくれた。
「林浩さん、どうぞ」
看護師に呼ばれ、両親と共に診察室に入る。医者は五十代くらいの男性で、穏やかな笑みを浮かべていた。しかし林浩にはその笑みが偽りに見えた。誰も彼を本当に受け入れてはくれない。みんな表面上は優しく振る舞うが、心の中では嘲笑っているのだ。
「林さん、お気持ちを聞かせていただけますか?」
医者の問いかけに、林浩は首を振った。声が出ない。喉の奥が塞がったように詰まる。代わりに、彼の両手が震え始めた。それを隠そうとして、さらに震えが大きくなる。
「すみません、先生。うちの子は人前で話すのが苦手で」
林父が代わりに説明を始める。幼少期からの症状、これまでに訪れた病院の数、試みた治療法の数々。しかし林浩の耳には、父の声が遠くから聞こえる雑音のようにしか感じられなかった。
「…ということで、何か良い治療法はないものでしょうか」
「そうですね。医学的には、特に器質的な異常は見られません。私がお勧めしたいのは、長期の心理療法です。患者さん自身が自分の心と向き合い、少しずつ克服していく。時間はかかりますが、最も確実な方法だと思います」
医者の言葉に、林浩の全身が硬直した。心理療法。自分の心と向き合え。それができれば苦労はしない。彼は無意識に首を激しく横に振り始めた。
「嫌だ…嫌だ、俺はやらない」
掠れた叫び声が診察室に響く。林浩は立ち上がり、後ずさりした。椅子が倒れ、金属音が立て続けに響く。
「浩、落ち着きなさい!」
父が制しようとするが、林浩はそれも振り払って診察室を飛び出した。廊下を走る。すれ違う人々の視線が突き刺さる。笑っている。きっと笑っている。また俺は失敗した。また親に恥をかかせた。
病院の裏手にあった小さな公園で、林浩はベンチに座り込んだ。誰もいない。やっと息ができる。震える手で自分の腕を掴み、爪を立てた。その痛みで、自分を落ち着かせようとした。
どれくらいそうしていただろうか。携帯電話が震えている。母からの着信だ。出るべきだろう。そう思いながらも、指は動かなかった。代わりに、彼はメッセージアプリを開いた。そこには、昔の同級生たちの楽しそうな投稿が並んでいる。結婚した報告、子供の写真、旅行の思い出。どれもこれも、彼には決して手の届かない世界だった。
「…こんな自分、いっそ消えてしまいたい」
呟いたその言葉は、風に消えた。本当に消えたいのだろうか。それとも、誰かに助けてほしいのだろうか。もう自分でもわからなかった。
その夜、両親は林浩の寝室の隣にある部屋で、小声で話し合っていた。林浩は薄い壁に耳を澄ませる。
「もう打つ手がない。どの病院も同じことの繰り返しだ」
父の声には明らかな疲弊が滲んでいた。
「でも、もう諦めるわけにはいかないわ。あの子にとって、私たちだけが頼りなんだから」
母の声は嗚咽混じりだった。
「…そうだな。まだ可能性は残っているはずだ。だが、普通の医療では限界があるかもしれない。もっと…別の方法を考えるべきか」
その言葉の後、しばらく沈黙が続いた。そして父が再び口を開く。
「聞いたんだが、闇診療所っていうのがあるらしい。普通の病院では扱えない治療をしてくれる場所が」
「闇診療所?そんなもの、信用できるのか?」
「わからない。だが、もう藁にもすがる思いだ。とにかく明日、その話を聞いてみようと思う」
林浩はその会話を聞きながら、奇妙な既視感を覚えた。これまでにも何度も「特別な治療法」を探しては失敗してきた。今回も同じだろう。そう思いながらも、胸の奥で何かが微かに動くのを感じていた。
翌日、両親は早朝から出かけていった。林浩一人が家に残される。数時間後、彼らが戻ってきた時の顔色は、これまでに見たことのないものだった。疲れ切ってはいるが、どこか諦めと期待が混ざり合った複雑な表情。
「浩、いい話があるんだ」
父が珍しく優しい口調で話しかけてきた。その変化に林浩は戸惑う。
「新しい治療法があるんだ。君のことを完全に変えてくれる方法だ。ただし…」
父は一瞬言葉を切り、母と視線を交わした。母が微かに頷く。
「ただし、少し特殊な方法なんだ。最初は違和感があるかもしれない。しかし、それがうまくいけば、君は今までの自分から生まれ変われる」
「どんな…治療なの?」
林浩が久しぶりに自分から質問をした。その声は震えていたが、確かにそこに意思が宿っていた。
父は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと語り始めた。
「催眠療法だ。だが、普通の催眠とは違う。向こうの医者は、それが『偽装催眠』だと説明してくれた。表面的には催眠にかかっているように見せかけて、実際には…君自身が自分の意志で変わっていくんだ」
「催眠…」
林浩はその言葉を反芻した。催眠療法ならば、これまでも勧められたことがある。だがその度に拒否してきた。しかし、今父の口から出た「偽装催眠」という言葉に、なぜか惹かれるものがあった。
「その治療で、俺は本当に変われるの?」
「約束はできない。しかし、我々はもう他に道がないんだ」
父の声には、切実さが満ちていた。林浩はその切実さを理解した。自分が彼らにどれだけの苦労をかけてきたかを、痛いほど知っている。だからこそ、最後の賭けに出たいという気持ちが湧き上がってきた。
「わかった。やってみる」
林浩は自分でも驚くほど落ち着いた声でそう答えた。両親は顔を見合わせ、ほっとしたような、しかし同時に不安を含んだ表情を浮かべた。
その夜、林浩は久しぶりに窓の外を見た。街の灯りが遠くで瞬いている。明日から始まる新しい治療に、期待と不安が入り混じる。本当に変われるのだろうか。それとも、これまでと同じように失敗するのだろうか。
だが、一つ確かなことがある。今の自分に失うものなど何もないということだ。むしろ、この治療に全てを賭けるしかない。
そう考えた時、林浩の唇の端に、微かな笑みが浮かんだ。それは、数年ぶりの感情の表出だった。
治療は、明後日から始まる。闇診療所の医師は、そう告げたという。