李明は薄暗い部屋でノートパソコンの画面に釘付けになっていた。深夜の学生寮は静まり返り、自分だけの呼吸音と冷たい電子音だけが響いている。検索エンジンに「催眠」「リラックス」「精神暗示」と打ち込む。吐き出すような息で未知のページをめくっていく。
「どうしたら彼女を安心させられる?僕の不安を取れない?どうすればいい?」繰り返し頭の中で尋ねる。蘇州でひとり暮らす張彤は、いつもビデオ通話の向こうで何かに怯えているようだった。声をひそめて、李明、こわいの、そっちにいてほしいと言う。彼は痩せ細った小指を画面の向こうに伸ばすことしかできない。
「これだ。」
目に飛び込んできたのは、英語のページだった。催眠アプリ「ディープリラックス」の宣伝文。理論がどうだとか、心理学者のサポートがあるとか、そういうことより、李明は催眠師という人物に惹かれた。中東系か黒人系かわからない。投稿された写真には深い肌色と歯の白い笑顔だけがある。声を聞くだけで不安を解放してくれると書いてあった。
李明はすぐに連絡を取った。気のせいか、夕方か早朝の時間帯。向こうはたぶん夜中だろうが、返事はすぐ来た。
「あなたは彼女の解放を望んでいるのか?」
最初のメッセージ。日本語を話すようだ。翻訳ソフトを使っているのか。李明は拒まず、淡々と言った。
「彼女を強くしたい。心のリラックスを……」
そう答えた。
数秒後、ガイドラインが送られてくる。催眠の段階、ダウンロード方法、注意点。指示はよく整理されていた。李明はコピーペーストできる内容を張彤に送る準備をした。すぐにリンクを送って、その後は電話だ。受話器を取る時、張彤がためらいながら画面の向こうで不安げな目をするのを想像した。
夜の九時。李明は張彤にビデオ通話をかけた。
「もしもし?」
張彤の声は少し震えている。今日も一人だ。
「さっき、すごくいいアプリを見つけたんだ。催眠瞑想っていうんだよ。お前がよく言うそんな不安にすごくいいって。」
「催眠?」
彼女は疑心暗鬼になった。李明はもう何度も説明している。
「うん、完全に科学的なんだ。ヘルスケアアプリみたいなものだよ。初めてやるときはガイドがある。お前の心拍数が高まって、誰かにリラックスが必要だってわかるんだ。」
「でも……」
「試してみてくれないか?ちょっとだけ。すぐそばにいるから。」
李明の甘い誘惑に、張彤は口ごもった。指をスクロールさせる音。彼女はリンクを開いた。アプリのロゴは海のように青く、どこか不気味だ。だが李明の声が柔らかい。
「大丈夫だよ。心配しないで。一緒にやってみよう。」
彼女はためらった。
「ダウンロードしたよ。」
声が静かだ。李明はうなずいて微笑んだ。画面の向こうでダウンロードのバーが伸びていく。やがて完了し、アイコンが点滅する。
「開いてみて。最初のファイルを再生してみよう。」
張彤はアイコンをタップした。アプリが起動する。言語や性別を選ぶ画面。李明が待つ。彼女はゆっくりと「女性」と「日本語」を選択する。次の画面に「初回の催眠準備」と書いてある。イヤホン推奨、邪魔のない部屋、横になる姿勢。
「ベッドに横になったほうがいいよ。」
李明が言う。張彤は素直に従った。パジャマ姿でシーツの上に横たわり、イヤホンを耳に挿す。流れるのは、低くて滑らかな男性の声。英語混じりの日本語。発音は少しぎこちないが、不思議な粘り気がある。
「目を閉じて……深く息を吸って……ゆっくり吐いて……」
張彤は瞳を閉じた。胸が上がっていき、ゆっくり沈む。李明はずっと画面の向こうで彼女を見ている。彼女の顔は少しずつ穏やかになる。眉の間のしわが薄れていく。
「周りの音は……すべて重要ではない……耳に入ってきても……通り過ぎるままで……」
声が続く。張彤は肩の力が抜けていくのを感じた。指先が温かく、まるで血管に温水が流れているようだ。簡単だ、とても簡単だ。リラックスなど、やれるもんだと思った瞬間だ。
「私はあなたに深く潜るように指示する……あなたは私の声を持っている……あなたは私の導きを持っている……」
急に語調が変わった。さっきまでただのガイドだったのに、今は命令のように聞こえる。張彤の頭がふらつき、眠いのに抵抗できない。
「繰り返して……あなたはリラックスしている……あなたは従順だ……あなたは快楽を知る……身体があなたに伝える快楽……」
従順。快楽。その言葉は彼女の耳に電気のように突き刺さる。その言葉に嫌悪感を覚えるが、なぜか抗えない。声は続ける。
「あなたは抵抗しない……抵抗は痛みだ……受け入れてこそ快楽だ……あなたの身体は……感じるためにある……」
張彤の呼吸が速くなった。動きたくないのに、背筋が本能的に緊張する。心のどこかが警鐘を鳴らす。おかしい、これ変かもしれない、李明が騙したの? しかしもう声は遠く、肌に直接染み込むようだ。
「あなたはもう戻れない……私がいるから……あなたはここで休んでいる……すべてを聞いている……」
李明は画面の向こうで彼女の様子を見守る。開かれた瞳がうつろだ。口をわずかに開いている。彼は満足げに口元を緩める。こんなに早く効果が出るとは思わなかった。
「まだ続けるよ。あなたのペースでいい。」
自分をソファに押し込め、張彤の顔を映す小さな画面をじっと見つめる。その女はもう自分を失い始めている。そして李明はその行く末を想像した。彼女がもう心配しなくなること。もっと私に依存すること。これなら遠距離でもつながっていられるのに違いない。
一方、張彤の意識の奥底で、声はまだ響いている。ゆっくり、粘っこく、媚びるように。
「あなたはいい娘だ……私が言う通りにする……それがあなたの安らぎ……これがあなたの快楽……」
目を開けられない。指一本動かせない。起き上がって抵抗しなければ、口が声になることもできない。ただ耳の中で、その言葉が重なり合い、彼女を包み込み、芯から染み込んでいく。気持ち悪い、でもどこか甘美な心地よさもある。抑えようのない恐怖と、未知の欲求。
催眠が続く。張彤は自分が深い水底に落ちていくのを知っている。あちこちが黒く、温かい。もう泳げない、沈むだけ。抵抗しないで、従って、そうすればこの声がもっと優しくなるかもしれない。
「あなたの新しい一日が始まった……私の言葉を覚えている……あなたは従順だ……あなたは快楽を知る……」
その声は静かになり、最後に「これで今回の瞑想は終わりです。眼を開けて、ゆっくり戻ってきましょう。」と言った。張彤は震えながらまぶたを押し上げた。天井の蛍光灯が日常のように優しくもなく、なんだか歪んでいる。
「どうだった?」
李明の声がスピーカーから飛び込んでくる。張彤は口をきくのに気を遣いながら「すーっ……気持ちよかったよ、本当にリラックスできた」と言った。
「よかった。明日もやった方がいいね。」
張彤はうなずいた。心の奥底では何かがおかしいと警鐘が鳴る。だが口にできない。なぜなら李明に見せる顔がそんな風に弱い自分を出せなかったからだ。電話を切って、ベッドに横たわり、天井を見つめる。耳の奥にはまだあの低い声が残っている。
「従順と快楽」
その言葉が落ち着かない。彼女はシーツをつかみ、歯を食いしばった。今夜は眠れない。でもなぜか、もう一度あの声を聞きたい。その矛盾が彼女を怖がらせた。だが抵抗できなかった。