# 第1章 道心崩壊
壁穴の中は湿気と麝香の匂いが混ざり合い、冷月璃の白い肌にべっとりと貼り付いていた。彼女は何もかも見透かしたような、冷たく澄んだ瞳で虚空を見つめていた。先ほどまで彼女の肢体を弄んでいた鄧社長は、汗だくの肥満体を揺らしながら、意気揚々と壁の向こう側へ去っていった。
「ふん…かの剣神も、今ではただの穴じゃないか…」
遠くから聞こえてくる嗤い声が、冷月璃の耳朶を打つ。しかし彼女の表情は動かない。ただ、心の底で何かが静かにひび割れる音がした。
突然、彼女の手首を縛る幌金縄が弱々しく光を放ち、次の瞬間、ぷつりと切れた。
冷月璃はゆっくりと立ち上がった。暴力的な脱出ではない。まるで水が流れるように自然に、縄が彼女の体から滑り落ちた。かつての剣神の体内に眠る絶大な霊力が、渡劫の失敗で荒れ狂いながらも、依然として彼女の周囲を渦巻いている。
鄧社長が慌てて戻ってきた。彼の太った顔が恐怖に歪む。
「な、なんだと!? 幌金縄が…」
冷月璃は一歩を踏み出した。その一歩で、彼女は鄧社長の目前に立っていた。剣気は出さなかった。ただ指でそっと彼の額を弾いただけだ。鄧社長の巨体は後方へ吹き飛び、壁に激突して昏倒した。
「面白い…」
黒田一郎が車椅子に座ったまま、遠くから拍手を送った。彼の両足はないが、その目には狡猾な光が宿っている。
「さすがは冷月璃殿。渡劫に失敗しても、その実力は衰えていない。だが…」
彼はゆっくりと続けた。「お前が守ろうとした者は、今どこにいる?」
冷月璃の視線が遠くへ向く。かつて彼女が守った村の民たちが、壁の向こうに集まっていた。彼らの目には、かつての敬愛の光はない。代わりにあるのは好奇と、そしてある種の嗜虐的な愉悦だった。
「剣神様が、まさかあんな壁穴に入れられるとはな…」
「鄧社長の言う通りだ、結局は女よ…」
「それも俺たちを守るって言いながら、自分の体一つ守れないのか…」
囁き声が風に乗って彼女の耳に届く。
冷月璃の心の中で、何かが音を立てて崩れた。
それは道心と呼ばれるものだった。百年修行、千の戦い、万人の敬慕。すべてがこの瞬間、空虚な響きを伴って崩れ去った。彼女が剣を振るったのは、そういう者たちのためだったのか? 彼女が三度の劫を渡ろうとしたのは、そういう者たちの笑い草になるためだったのか?
彼女の手が震えた。剣を握るその手が、今は虚空をつかむだけだった。
守るべきものなど、もう何もない。
「くくく…」
乾いた笑い声が冷月璃の喉から漏れた。それは彼女の清楚な容貌に不釣り合いな、自嘲と諦念に満ちた笑いだった。
彼女はゆっくりと黒田に向き直り、そして昏倒した鄧社長の肥えた体を見下ろした。
「鄧社長…」
彼女の声は相変わらず冷たく澄んでいたが、その言葉の意味は誰の耳にも異様に響いた。
「お願いです。私をあなたの婢にお加えください。」
鄧社長が目を覚ました。目の前の光景が信じられなかった。件の剣神が、跪いている。彼の前に。
「何…だと…?」
「私は迷っていました。何を守るべきか、誰のために剣を振るうべきか。今、分かりました。誰かの守護者になるよりも…誰かの所有物になるほうが、どれほど楽か。」
彼女の声には感情がなかった。だが、その瞳の奥深くで、何かが燃え尽きて灰になっていた。
黒田一郎が車椅子を進めた。彼の唇に浮かぶ笑みは、獲物を追い詰めた策士のそれだった。
「冷月璃殿、あなたは本当に変わられた。だが…所有物となるなら、魂の契約が必要だ。」
「承知しています。」
冷月璃はうつむいた。彼女の長い髪が顔を覆い、表情は見えなかった。彼女はゆっくりと右手を持ち上げ、丹田の奥深くに輝く魂の源を引き出した。本命の魂。修行者の存在そのものと言える光球が、彼女の手のひらで淡く輝いている。
「これは…本命の魂…まさか自分から差し出すとは…」
黒田でさえ、一瞬驚きを隠せなかった。しかしすぐに彼の口元には残忍な笑みが浮かんだ。
「あなたは本当に堕ちたのだな、剣神よ。」
彼は指を伸ばし、その光球を受け取った。瞬間、金色の光が二人を包み、契約が結ばれた。魂の一部を他者に預ける、それは修道士にとって最も深い隷属の証だった。
「契約は成った。これより後、お前の心も体も、すべては我が掌中にある。」
黒田の声が冷月璃の脳裏に直接響く。魂の契約を通じて、彼の意志が彼女の内側に直接刻まれる。
冷月璃は顔を上げた。その瞳は相変わらず清冷だったが、もはやかつての剣神の傲りはなかった。あるのは、すべてを諦めた後の虚無的な静けさだけだった。
「はい…主君。」
彼女の唇がそう動いた。
壁の向こうの民たちは声を失っていた。彼らを守った英雄が、自ら進んで隷属の道を選んだ。その光景は、あまりに衝撃的だった。
冷月璃は立ち上がり、かつて自分が刈り取ったように草花を踏みしだきながら、ゆっくりと黒田の車椅子の後ろに立った。彼女の指が車椅子の把手に触れる。
「どこに参りますか、主君。」
その言葉には、もはや迷いはなかった。
黒田は満足げに笑った。
「まあ、まずはあの鄧という男を始末しよう。用済みだ。」
「はい。」
冷月璃の答えは簡潔だった。彼女の手が一閃し、剣気もなく、ただ風が鄧社長の首を撫でた。鄧社長の太った体がゆっくりと倒れ、床に血溜まりが広がった。
その血を見ながら、冷月璃の心は静まり返っていた。
かつて彼女はこの手で万の魔を斬り、民を守った。今、この手で何の罪もない男を斬った。しかし、彼女は何も感じなかった。むしろ、ある種の解放感があった。
守るものがあれば、壊されるものもある。
何も守らなければ、何も失わない。
「よくやった。これからは、お前の剣は俺だけのために振るうのだ。」
黒田の声が彼女の脳裏に直接響く。魂の契約は、それを許した。
「はい…主君のために。」
冷月璃は再びうつむいた。彼女の顔は影に落ち、その表情は見えなかった。
だが、もし誰かが彼女の瞳を覗き込めるなら、そこにはかつて剣神を支えた道心の最後の一片が、今まさに音を立てて崩れ去る瞬間を目撃しただろう。
外の空は暗くなり始めていた。
冷月璃は車椅子を押し、ゆっくりとこの辱めの場を後にした。彼女の白い衣には、鄧社長の血と壁穴の汚れが染みついていた。それでも彼女は歩みを止めない。
一歩、また一歩。
その一歩ごとに、彼女は過去の自分から遠ざかっていく。
もう戻れない。戻る場所もない。
冷月璃という剣神は、今日この日、完全に死に絶えた。
残されたのは、ただ一振りの刃。主のために振るうための、刃だけが。