# 第一章: 悪夢からの帰還
雨の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
林若云は病院のベッドの上で、白い天井を見つめていた。三ヶ月。正確に言えば九十四日間、彼女はあの地下倉庫に監禁されていた。警察の特殊部隊が突入した時、彼女は壁に鎖でつながれ、床にうつ伏せになっていた。目は布で覆われ、口にはガムテープが貼られていた。
「林警部、もう大丈夫ですよ」
同僚の声が遠くで聞こえた気がする。でも、彼女の耳にはまだ、あの倉庫に響く水滴の音がこだましていた。ぽたぽたと、一定の間隔で落ちる水の音。それは拷問の合図だった。水音が止むと、彼らが来る。新しい痛みが始まる。
「若云さん!」
顔の前で手が振られて、彼女ははっと現実に戻った。医師が心配そうに彼女の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか? 何かお感じになりますか?」
「……大丈夫です」
彼女は機械的に答えた。体には目立った外傷はなかった。彼らは痕跡を残さないように気をつけていた。でも、体中のあちこちが痛んだ。特に腰と手首がひどかった。
「退院してもいいですよ。ただ、しばらくは安静に」
医師の言葉を聞きながら、彼女は窓の外を見た。雨が降っていた。あの倉庫にも雨漏りがあった。冷たい水滴が首筋を伝う感覚を、彼女は忘れられなかった。
病院を出ると、迎えに来たのは息子の陈浩だった。十五歳になったばかりの少年は、母親の姿を見るなり、顔色を変えた。
「母さん!」
陈浩が駆け寄る。彼女は無意識のうちに一歩下がった。誰かに近づかれると、まだ体が強張る。それが自分の息子でも。
「……浩、来てくれたのね」
「当たり前だよ! 三ヶ月も行方不明で……警察の人から連絡があった時、本当に……」
陈浩の声が震えている。彼女はそれを見て、胸が締め付けられる思いがした。この子に心配をかけた。それだけで罪悪感で押しつぶされそうになる。
でも、それ以上に。
彼女は自分の中に芽生えた違和感を必死に押し殺していた。
家に着いても、彼女は落ち着けなかった。見慣れたリビング、ソファ、テレビ、食器棚。全てが懐かしいのに、どこか現実感がなかった。自分は本当にここに帰ってきていいのだろうか。
「母さん、お茶を入れたよ」
陈浩が差し出した湯呑みを受け取ろうとして、彼女は手を震わせた。彼らはよく水や飲み物を拒否した。そして罰として、さらに激しい責め苦を与えた。
「……ありがとう」
彼女は湯呑みをテーブルに置いた。飲めなかった。何かを口にするのが怖かった。
「母さん、何か食べるもの……いや、まずはお風呂に入った方がいいよね。ゆっくりして」
陈浩は気を遣って、彼女の負担にならないように動いている。その優しさが、かえって彼女を苦しめた。
浴室のドアを閉めると、彼女は鏡に映る自分の姿を見た。痩せた。頬がこけ、目は窪んでいる。でも、それ以外は普通の女性に見えた。普通の、四十代半ばの女性警察官。
服を脱ぎながら、彼女は自分の体に刻まれた記憶をなぞった。胸の下に、かすかな赤い跡。それは紐で縛られた痕だ。腰の横には、打撲の跡がまだ青黒く残っている。
シャワーをひねると、温かい湯が彼女の髪を濡らした。その感覚が、あの倉庫での冷たい水責めを思い出させる。
「やめて……やめてください……」
彼女は壁に手をつき、肩を震わせた。記憶がフラッシュバックする。暗闇の中、見知らぬ男たちの手が彼女の体を這い回る。支配される感覚。抵抗できない無力感。そして、その中で芽生えた、おぞましいほどの快感。
「……違う」
彼女は首を振った。認めてはいけない。自分は被害者だ。正義の警察官だ。あんなものに屈してはいけない。
でも、夜が訪れると、彼女の体は正直だった。
ベッドに入っても、全く眠れなかった。体が自由すぎることに違和感を覚える。手足を束縛されていないこと自体が、不安を誘発した。
彼女は無意識のうちに、手首を自分で掴んでいた。あの感触を求めてしまう。革のベルトが肌に食い込むあの感覚。動けなくされるあの絶対的な束縛。
「何を考えているの……私は……」
彼女は自分の思考の異常さに恐怖した。三ヶ月の監禁で、心が壊れてしまったのか。でも、違う。それは前からあった。警察官としての表面上の強さの裏側で、彼女はずっと何かに支配されたいと思っていた。それが今回の事件で表面化しただけだ。
時計が三時を指していた。彼女は起き上がり、窓の外を見た。雨は上がっていた。月明かりが濡れたアスファルトを照らしている。
不意に、彼女は本棚の隅にしまってあったロープを見つけた。引っ越しの時に使ったものだ。彼女はそれを手に取り、部屋のドアを施錠した。
「……試すだけ」
彼女はロープを自分の手首に巻き付けた。強く締める。ほどけないように結ぶ。ちょうどあの時のように。
「あ……」
息が漏れた。痛みと同時に、何かが彼女の中で解き放たれる感覚があった。不安が和らぐ。思考が静まる。
彼女はそのままベッドに横たわり、縛られた手首を見つめた。ああ、これだ。これが欲しかった。
安堵とともに、深い罪悪感が押し寄せてきた。自分は何をしているのか。警察官として、母親として、どうかしている。
でも、体は正直にその束縛を求めていた。
彼女はそっとロープを解いた。まだ完全には堕ちてはいけない。認めてはいけない。でも、その夜、彼女は何度もロープを手に取り、そして置いた。
隣の部屋から、息子の寝息が聞こえてくる。陈浩は心配で、なかなか眠れずにいたのだろう。今ようやく眠ったようだ。
彼女はその寝息を聞きながら、自分の中に広がる暗い欲望と向き合っていた。この先、どうすればいいのか。自分はどこへ向かおうとしているのか。
窓の外で、夜明け前の風がカーテンを揺らした。新しい一日が始まろうとしている。でも、彼女にとっては、悪夢のような日々がこれから始まる予感があった。