アリシア・モーニングスターは、退屈にまみれた足取りで城の長い回廊を歩いていた。磨き抜かれた大理石の床には、彼女の足音だけが冷たく響く。窓から差し込む午後の日差しは、絹のドレスに柔らかな光を落とすが、その輝きは彼女の心には何の彩りももたらさなかった。
宮廷の生活は、もはや飽和していた。舞踏会、謁見、退屈な会話の応酬。すべてが繰り返し、どこにも新鮮な刺激はない。彼女はつま先で床の文様をなぞりながら、何か、何かが欲しいと無意識に思っていた。
ふと、見覚えのない扉が目に留まった。廊下の奥、ほこりをかぶったタペストリーの陰にひっそりと隠れた、鉄製の小さな扉だ。今まで気づかなかった自分が不思議だった。まるで、今日という日にだけ、その扉が存在を許されたかのように。
アリシアは周囲を確かめると、扉に手をかけた。蝶番は軋みもせず、するりと開いた。暗い階段が地下へと続いている。湿った空気と、かすかに混じるインクと古びた紙の匂い。彼女の心臓が、見慣れぬ鼓動を打ち始めた。
階段を下りるたびに、明かりは薄れていく。壁に手を触れながら、慎重に進む。足元に何かが触れた。躓きそうになりながらも、彼女は屈み込んでそれを拾い上げた。羊皮紙の束だ。端々は黄ばみ、文字はかすれかかっているが、丁寧な筆跡で記された文言が、暗がりの中でもはっきりと目に飛び込んできた。
「魂の交換の契約」。
アリシアの指先が、紙の上をなぞる。一文一文、その意味が脳裏に焼きつく。自らの魂を差し出し、他者の魂と入れ替える。身分も記憶も、すべてが反転する呪文。それは荒唐無稽な童話のようでありながら、なぜか彼女の胸の奥で、真実の響きを立てていた。
「面白いものを見つけたようだな。」
背後から響いた低い声に、アリシアは肩を跳ねさせた。振り返ると、闇の中からゆっくりと浮かび上がる影がある。マーカス伯爵だ。彼の唇の端には、読めない微笑みが張りついている。
「伯爵……ここで何を?」
「何を、と言われてもな。これは私の城だ。どこに何があるか、すべて知っている。」
伯爵はゆっくりと近づき、彼女の手から羊皮紙を引き取った。指先で丁寧に端を整えながら、彼は言葉を続ける。
「その契約書は、ずっと待っていたのだ。お前のような、血に飢えた魂が触れる瞬間をな。」
アリシアは眉をひそめた。「何が言いたい? 私はただ、偶然見つけただけだ。」
「偶然か。それとも運命か。」伯爵は軽く笑った。「お前は退屈している。毎日同じ空気に飽き飽きしている。そうだろう? だからこそ、この闇の階段を下りてきた。」
彼は羊皮紙を広げ、文字を指差した。
「ゲームをしよう、王女殿下。これに署名するか、しないか。もし署名すれば、お前は奴隷の女の身分を知ることになる。すべてを失うかもしれないし、すべてを得るかもしれない。ただし、一度契約を結べば、元には戻れない。」
「ゲームだと?」アリシアの声には、軽蔑と好奇心が混ざり合っていた。「私が、ただの契約書に署名するだけで? そんな遊びに何の価値がある。」
「価値は、お前自身が決めることだ。」伯爵は羊皮紙を彼女の手に押し戻した。「ただし、覚えておけ。署名したが最後、お前の世界はひっくり返る。奴隷が王女に、王女が奴隷になる。お前の傲慢が、どこまで耐えられるか、見てみたいものだ。」
その言葉が、アリシアの中で何かを引き金にした。退屈と、それに抗う虚ろな誇り。彼女は伯爵の目を見つめ返し、ゆっくりと笑った。
「面白い。受けて立とう。」
彼女は羊皮紙を床の上に置き、指をかざした。何の躊躇もなく、自分の名前を書き込んだ。文字が紙の上でかすかに光り、空気が震える。
瞬間、周囲の空気が重くなった。アリシアの体に、冷たい何かが流れ込む。視界が歪み、耳の奥で低い唸り声が聞こえる。立っていることすら覚束なくなり、彼女は膝をついた。
伯爵の声が、遠くから聞こえてくる。
「契約は成立した。これよりお前は、名実ともに奴隷の身だ。さあ、新しい人生を始めようではないか。」
アリシアは顔を上げた。曇った視界の中で、伯爵の姿が歪んで見える。彼女はまだ、自分が何を失ったのか、何を始めたのか、まったく理解してはいなかった。ただ、胸の奥で、小さな尊厳の灯が、消えかかっているのを感じただけだった。