# 二重の枷
## 第一章 逃亡と誤入
連邦暦三七三年、連邦政府は新たな債務処理法案を可決した。
この法案により、一般市民は自らの意思で債務返済のため、正式な手続きを経て奴隷となることが認められた。表向きは「自主奴隷制度」と呼ばれ、貧困に苦しむ者たちに最後の選択肢を提供するものだとされた。
しかし、その法の隙間を縫うように、闇の組織が静かに牙を研いでいた。
蘇家も仇家も、この業界では名を知られた存在だった。両家とも連邦政府から認可された正規の奴隷売買組織として登録されている。表向きは自ら売りに出た者たちを仲介し、資産家の家庭に使用人や妾として送り込むのが商売だった。
「貧しい娘たちに、裕福な暮らしへの切符を。」そう謳う広告文句が、連邦中の情報端末に流れていた。
だが、その甘い言葉の裏には、違法な私兵組織が存在した。
両家の本当の収入源は、富裕層からの「特別注文」だった。権力者たちは金を払い、特定の女性を手に入れる。若くて美しく、反抗的で、屈服させがいのある獲物を。
蘇家の屋敷は連邦首都の郊外にあった。白亜の壁と緑豊かな庭園に囲まれたその館は、家族の秘密を隠すには十分すぎるほど広かった。
その夜、蘇晴は自室の窓辺で本を読んでいた。
雨が窓ガラスを叩いていた。時計は午後十一時を指している。両親は数日前から家を空けており、使用人のほとんどは早々に休んでいた。
異変は、雨音に紛れたかすかな金属音から始まった。
窓の外で何かが砕ける音がした。続いて、人間の悲鳴。
「何の音…?」
蘇晴が立ち上がろうとした瞬間、館の防犯警報がけたたましく鳴り響いた。
「お嬢様!お逃げください!」
老陳が部屋に飛び込んできた。蘇家に四十年仕えてきた老執事だ。その顔は青ざめ、礼服の襟元が乱れていた。
「何があったの、老陳?」
「仇家の者どもが…私兵を送り込んできました!」
「お父様とお母様は…」
「旦那様と奥様は…もう…」
老陳の声が詰まった。その表情で全てを理解した。
憎しみが胸を突き上げた。しかし、同時に恐怖が全身を駆け巡る。
「地下室の秘密の通路から裏庭へ!奴隷輸送車が出るはずです!」
老陳は蘇晴の手を掴み、部屋を飛び出した。廊下は既に煙が立ち込め、遠くで銃声が響いていた。
階段を駆け下りる。足音が迫る。誰かの怒鳴り声が響く。
「逃げたぞ!追え!」
老人と少女の足では、追手との距離は縮まる一方だった。
「お嬢様、こちらへ!」
老陳は中庭へ通じる扉を開けた。雨が容赦なく二人を打つ。地面はぬかるみ、足を取られる。
裏庭の門の向こうに、一台の大型トラックが停まっていた。荷台には商品を運ぶための檻が積まれている。
「すみません、お嬢様…これしか方法がなくて…」
老陳は蘇晴をトラックの荷台に押し上げた。檻の中は狭く、藁の臭いが充満していた。
「老陳、あなたも逃げて!」
「私は構いません。あなただけでも…」
黒服の男たちが中庭に雪崩れ込んできた。老陳はドアを閉め、追手に向かって立ちはだかった。
「早く!発進しろ!」
トラックのエンジンが始動する。蘇晴は檻の中で震えながら、後ろの窓から老陳の姿を見た。彼は腕を広げ、追手の前に立ちふさがっていた。
鈍い発砲音。倒れる影。
「老陳…!」
トラックは急発進した。雨の中を一直線に走り去る。
蘇晴は全身を丸め、必死に息を殺していた。心臓が激しく鼓動し、手の震えが止まらない。
どれくらい時間が経っただろうか。トラックは舗装された道を外れ、でこぼこした山道へと入っていく。
無理やり閉じ込められた檻の中。体は冷え切り、意識がぼんやりとかすんでいく。
両親の死。家の崩壊。全てが一瞬で奪われた。
涙が止まらなかった。声にならない嗚咽が喉の奥から漏れる。
やがて、運転手と助手席の男が会話を始めたのが聞こえてきた。粗い声。この業界の下働きの者たちだ。
「今回は特別注文だってよ。連邦議会の議員が若い娘を所望だそうだ」
「ほう。俺たちの島に運び込むのか?」
「ああ。しっかり調教しろってさ。反抗的なのがお好みらしい」
「了解だ。反抗的なお嬢様は、俺たちの腕の見せ所だな」
男たちの下卑た笑い声。
蘇晴ははっとした。
彼らは自分を、自家の奴隷島へ運んでいるのだ。普通の奴隷売買とは違い、特別注文の品として。
いや、違う。彼らは私を「注文された商品」と勘違いしている。
おそらく老陳が、混乱の中で私を奴隷輸送車に隠したのだ。だが、運転手たちは私が蘇家の令嬢だとは知らない。ただの集荷品だと思っている。
そう考えると、全身の血が凍るような恐怖が襲ってきた。
蘇家が運営する奴隷島。そこは調教師たちが、屈強な精神を誇る女性たちを徹底的に「訓練」する場所だ。
売られてきた娘たちは、まず島で数ヶ月から一年の調教期間を経て、客の元へ送られる。
「反抗的」な者ほど厳しい調教を受ける。精神を破壊され、自我を失うまで追い詰められる者も少なくない。
私はあの島の真実を知っている。自分の家が営む搾取の現場を。
今、その島の囚人になろうとしている。
トラックが停まった。雨音が弱まり、代わりに潮の香りが漂ってきた。海だ。
荷台の扉が開く。強い照明が目を射る。
「おい、新しい品だ。降りろ」
男の声。太く、威圧的だ。
蘇晴は檻の隅で縮こまったまま、顔を上げなかった。自分が蘇家の令嬢だと名乗ればどうなるのか。だが、ここでそれを言っても信じてもらえないだろう。それどころか、嘘をついて抵抗していると見なされれば、より激しい扱いを受けるだけだ。
「聞こえないのか?」
無理やり腕を掴まれ、引きずり出される。
港には小型の船が停泊していた。夜の闇に浮かぶその船は、まるで巨大な獣の口のように見えた。
乗せられる。波の揺れ。蘇晴の意識が徐々に遠のいていく。
恐怖と疲労で限界だった。冷たい床の上で、彼女は気を失った。
次に目を覚ました時、周囲は石の部屋だった。
天井からは一筋の蛍光灯がぶら下がり、壁は無機質なコンクリート。部屋にはベッドと簡素な机があるだけだ。窓はない。
「目が覚めたか」
女の声がした。振り返ると、厳しい表情の女性が立っていた。筋肉質な体格。鋭い目つき。制服の胸には「教官アリ」と書かれたバッジ。
「ここは…」
「奴隷島だ。お前は特別注文の品だそうだな。これからの生活について説明する」
教官アリは、冷徹な口調で続けた。
「ルールは簡単だ。命令に従え。反抗すれば罰がある。お前の感情や希望は、ここでは何の価値も持たない」
蘇晴は唇を噛みしめた。蘇家の令嬢として育った誇りが奥底で燃え上がる。だが、今ここで反抗すればどうなるかは分かっている。
「番号は七十七。お前の名前は、今日から七十七だ。それ以外の呼び名は許さない」
名前すら奪われる屈辱。血の気が引く。
「これから一週間の適応期間に入る。食事は一日二回。規則を破れば罰則だ。いいな?」
教官は命令口調で、蘇晴に制服を差し出した。くすんだ灰色の粗末な布地。
「着替えろ。五分後に最初の訓練だ」
部屋を出ていく背中。ドアが固く閉ざされる。
残された蘇晴は、手の中の制服を見つめた。
逃げ出さなければ。だが、どこへ? この島から泳いで逃げるのは不可能だ。船も通信手段もない。
親は殺された。家は焼かれた。自分は奴隷として、自分の家が経営する島に囚われている。
二重の枷。身分の枷。記憶の枷。
蘇晴は制服を握りしめ、静かに涙を流した。
だが、その涙はすぐに拭われた。
いつか、必ずここを出る。
その決意だけが、彼女の胸に灯った小さな炎だった。