寇月菡は新しい会社のエントランスに立っていた。高層ビルのガラス張りのロビーは清潔で、磨き上げられた床には自分の姿が映り込んでいる。彼女はスーツの襟を整え、深呼吸を一つした。転職は初めてではないが、ここでは何もかもを新しくしたかった。まっすぐで背筋の伸びたその立ち姿は、同年代の女性たちとは一線を画す、どこか品のある雰囲気を漂わせていた。黒髪を一つに束ね、控えめな化粧、清楚な白いブラウス。彼女自身は気づいていなかったが、そのどこか哀愁を帯びた目の奥には、まだ見ぬ誰かに許しを請うような弱さが潜んでいた。
総務の女性に案内されて自分の席に向かう途中、彼女はいくつかの視線を感じた。特に、窓際の席で新聞を広げていた中年の男は、彼女が通り過ぎる瞬間、顔を上げてじろりと見つめた。その目は一瞬で彼女の全身を舐め回すように走り、すぐにまた新聞に戻った。寇月菡はその視線に気づいたが、気にしないようにして自分のデスクに着いた。
午後、その男――王哥と呼ばれているらしい――が自らのデスクから立ち上がり、コーヒーカップを二つ手に持って彼女のところにやって来た。「新人さん、これ飲むか?この会社のコーヒー、結構いけるんだぜ」と、彼は気さくな笑顔を見せた。寇月菡は軽く会釈し、「ありがとうございます、いただきます」とカップを受け取った。何気なく一口すすると、少し変わった味がした。コーヒーの苦味の中で、ほのかに甘い何かが混ざっている。彼女は一瞬奇妙に思ったが、すぐにこういうブレンドなのかと納得して飲み干した。
その日の夕方、異変が起きた。寇月菡は書類の整理を終えて帰ろうとしたが、突然体の内側から熱が湧き上がるのを感じた。顔が火照り、心臓が早鐘を打ち始める。彼女は手を机について立ち上がったが、膝が震えてうまく力が入らない。頭の中には、なぜか先ほど廊下ですれ違った同僚の男の腕の筋肉が焼き付き、その映像が何度も反芻される。彼女は慌てて首を振ったが、その思考は消えず、かえって濃くなる一方だった。「おかしい…」とつぶやき、彼女はトイレに駆け込んで冷水で顔を洗った。鏡の中の自分の顔は赤く染まり、目は熱っぽく潤んでいた。彼女は口を引き結び、何とか自分を落ち着かせようとしたが、体の奥底に疼くような快感の予感が芽生え始めているのを感じ取っていた。
翌日、王哥はますます彼女に近づいてきた。「寇さん、今日もお疲れさん。こんな飲み物、差し入れだよ」と、彼は缶入りのスポーツドリンクを置いていった。寇月菡は礼を言って受け取ったが、開ける前に少し迷った。しかし、彼が親切を装って差し出す断りにくさが彼女を動かし、結局口を付けてしまった。その直後、体が一気に熱くなるのを感じた。彼女はスカートの上から太ももをぎゅっと握りしめ、下半身にじわりと湿り気が広がるのを感じた。羞恥心と同時に、何かを渇望するようなえもいわれぬ焦燥感が押し寄せてくる。
昼休み、王哥が彼女の後ろを通るときに耳元でささやいた。「寇さん、今日もきれいだよ。でもなんか顔が赤いな、大丈夫か?」その声は低く、含みを含んでいた。寇月菡は言葉を返せず、ただ頭を下げた。耳の先が燃えるように熱くなり、彼の声が脳裏にじんわりと残響する。自分がなぜこんなに反応してしまうのか、彼女自身にも理解できなかった。胸の奥底で、何かが少しずつ崩れ落ちていく音がした。
週末、部署の歓迎会が開かれた。個室の居酒屋で、寇月菡は先輩社員たちの輪の中に座っていた。王哥は当然のように彼女の隣の席を確保し、何度も酒を注いだ。「寇さん、今日は新人だからしっかり飲まなきゃな」と笑いながら、彼は彼女のグラスになみなみと日本酒を注いだ。寇月菡は元々酒に強くなかったが、断る雰囲気でもなく、何杯か飲み干した。その酒にも、あの変わった甘さが混ざっていた。次第に意識がもうろうとし始め、彼女は自分の体が言うことを聞かなくなるのを感じた。手が震え、目線が定まらず、無意識のうちに自分の唇を舐めていた。
会が終わり、店の外に出たとき、彼女は足元が不安定でふらふらと歩いた。王哥が素早く彼女の腕をつかみ、「危ないから送ってやるよ」と言い、タクシーを拾った。車内で彼女はシートにだらりと寄りかかり、景色が流れていくのを無意識に見ていた。王哥が何か運転手に告げた住所が、自分の家とは違う方向であることにも気づかなかった。
目が覚めると、見知らぬ部屋のソファに座らされていた。薄暗い照明の中、王哥が目の前に立っていて、スマートフォンをこちらに向けている。「寇さん、せっかくの記念に写真を撮ろう」と彼は言った。寇月菡はぼんやりと笑い、彼の指図に従ってカメラを見つめた。その瞳は虚ろで、頬は紅潮し、口元には幼い子供のような無邪気な笑みが浮かんでいた。彼女は自分が何をされているのか、半分も理解していなかった。ただ体中に満ちる不思議な多幸感と、背骨を伝わる甘い震えに身を任せていた。
そして彼女の意識は、再び深い闇へと落ちていった。