夜のリビングルームは、普段よりも静けさが濃く漂っていた。小唐はソファに深く腰掛け、スマートフォンの画面を凝視していた。指先がかすかに震え、開いているウェブサイトのヘッダーには「秘密の出会い」という文字が踊っている。視線をそらそうとしても、心臓はバクバクと鳴り続け、ページを閉じることもできずにいた。
数分前、無意識に検索エンジンに打ち込んだキーワード。「寝取られ」「願望」「受け入れられるパートナー」。出てきた結果の多さに驚き、同時に深い自己嫌悪に陥った。自分は何をしているんだ。林薇を愛している。それだけは確かなのに、なぜこんなサイトを見ているのか。
時計は午後十一時を回っていた。玄関の鍵が開く音がして、小唐は慌ててスマートフォンをテーブルの上に伏せた。
「ただいま」
林薇が入ってくる。スーツ姿のまま、目にはあの蛍光色のハート型カラーコンタクトと、太めの黒縁眼鏡をかけていた。彼女は一日中それで仕事をしている。営業先でも、会議でも、同僚とのランチでも。誰も気づかないふりをしているけれど、小唐だけは知っている。それは彼のフェチを満たすために、彼女が自ら選んだ装いだということを。
「おかえり、遅かったね」
「うん。ちょっと残業が長引いて……あ、大丈夫?」
林薇は靴を脱ぎながら、小唐の顔色を窺った。彼の顔は青白く、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「ちょっと疲れただけ。もう寝ようか」
「……小唐、何かあるんでしょ。あなたが隠し事をする時の顔、わかってるから」
林薇はソファの隣に座り、そっと彼の手を握った。指の感触は温かく、小唐の心をさらにかき乱す。
「あのね、林薇。話したいことがあるんだ。でも、聞いたらきっと引くと思う。いや、引くどころか、嫌われるかもしれない」
「何言ってるの。私はあなたの彼女よ。何があっても受け止めるから、言ってみて」
小唐は深呼吸を一つ。そして、ゆっくりと話し始めた。自分のフェチについて。中学の頃から気づいていたこと、ずっと抑圧してきたこと、誰にも言えずにネットで情報を集めてきたこと、そして――林薇に、他の男と関係を持ってほしいという願望を。
声は途中で何度か詰まった。手は震え、視線をテーブルに固定したまま、一言一言を紡いだ。
最後の言葉を吐き出した瞬間、リビングの空気が凍りついた。林薇の表情が一瞬で固まる。彼女は何も言わず、ただ小唐の顔を見つめていた。
しばらくの沈黙の後、林薇は静かに口を開いた。
「あなた、本気で言ってるの?」
「本気だ。でも、これが俺の正直な気持ちなんだ。君を愛しているからこそ、この願望を抑えきれない。君に他の男に抱かれるところを見たい。それが俺の一番深い欲望だ。でも、君が嫌なら――」
「待って」
林薇が手を上げて彼の言葉を遮った。眼鏡の奥の瞳が、蛍光色のレンズ越しに揺れている。
「私、驚いてる。でも……嫌だとは思わなかった。あなたがそんなに苦しんでいたなんて、知らなかったから。私、あなたのことを本当に愛してる。だから、あなたが望むなら、その願望を叶える手伝いをする」
「林薇……」
「でも、すぐには決められない。一緒に考えてほしい。どういう風に進めるのか、誰を巻き込むのか、どこまでが許容範囲なのか。全部、話し合おう」
小唐の目に涙が浮かんだ。彼女の手を握り返す。指が絡み合い、体温が伝わる。
その夜、二人は明け方まで語り合った。キッチンでコーヒーを淹れ、ソファに座ったまま、時にはノートに書き出しながら。小唐は自分の願望の細部を打ち明け、林薇は質問を重ねた。
「じゃあ、相手はどんな人がいいの?」
「年齢は? 見た目は? どんなプレイを想定してる?」
「安全面はどうする? 私が体を張ることになるんだから、ちゃんと対策が必要よ」
小唐は一つ一つに答えながら、心の奥で思う。この女性を、自分はどれだけ愛しているのだろう。彼女が自分の歪んだ欲望をこんなにも真剣に受け止めてくれる。それが嬉しくて、同時に申し訳なくて、胸が締め付けられる。
午前三時を過ぎた頃、林薇が言った。
「じゃあ、明日から行動しよう。まずは相手を見つけるところから。そういうサイトには登録済みなんでしょ?」
「ああ、いくつかブックマークしてる。でも、本当にいいのか?」
「私はもう決めたよ。あなたの願いを叶える。それが私の愛の形だから」
小唐は彼女を抱きしめた。柔らかな髪の香り、肩甲骨の感触、すべてが愛おしい。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み始めていた。窓の外では小鳥が鳴き始めている。長い夜が終わり、新しい一日が始まろうとしていた。
二人は顔を見合わせ、小さく頷いた。その瞳には、決意の光が宿っていた。