黒淵の恋 第一章 再生の始まり
目を開けた瞬間、李昊は硬いベッドの上で体を起こしていた。見覚えのある安アパート、窓の外にはまだ夜明け前の薄暗い空が広がっている。彼はゆっくりと手のひらを開き、その若々しくしわひとつない皮膚をじっと見つめた。
「まさか……本当に戻ってきたのか?」
十年前の自分だ。あの絶望に打ちひしがれた人生が終わりを告げ、もう一度始められるというのか?李昊は深く息を吸い込み、前世で得たすべての記憶を手繰り寄せた。テクノロジー株の急騰、不動産業界の変動、仮想通貨の波――それらすべての情報が脳裏にはっきりと刻まれている。
彼は携帯電話を手に取り、まだ起動していないアプリを確認した。これから起こる世界を、彼は誰よりもよく知っていた。二度と同じ過ちは犯さない。今度こそ、守るべきものを守り抜く。
三ヶ月後、李昊は自らの手で設立した「晨暉科技」の小さなオフィスに立っていた。わずか十数人のスタッフだが、彼の頭の中にあるビジョンはすでに巨大な帝国へと拡がっている。最初のプロジェクトは、前世で成功を収めたAI翻訳エンジンだった。コードの隅々まで覚えている彼にとって、再現は至極簡単なことだった。
資金調達の日、李昊はたった十五分のプレゼンでシードラウンドの投資を勝ち取った。投資家たちはこの若者の先見の明と自信に圧倒された。誰も彼の背後にある悲劇の未来を知らない。彼はただただ、時間に追われるように前に進んだ。
半年後、「晨暉科技」の評価額はすでに五億に達していた。李昊は一躍、業界の寵児となった。メディアは彼を「天才的な起業家」と称え、大学の同級生たちは彼の成功を羨望の眼差しで見つめた。しかし李昊の心の奥底には、たった一つの名前だけが刻まれている。
林晓晓。
彼女は高校時代の恋人だった。前世では、彼女が大学のキャンパスで偶然再会したことが記憶の片隅に残っている。あの時、彼はまだ無名の学生で、彼女と話す勇気さえ持てなかった。だが今回は違う。
十月の金曜日、慶華大学の正門前は夕暮れ時のオレンジ色の光に包まれていた。李昊はスーツに身を包み、手に一輪の白いバラを携えて、人の流れの中で立ち止まった。彼には確信があった。いつもの道を通る彼女の姿を、もう何週間も観察していたのだから。
遠くから、ポニーテールを揺らして歩いてくる少女が見えた。白いTシャツにジーンズというシンプルな装いだが、彼の目には世界で一番美しい絵画のように映った。林晓晓は本を抱えて歩きながら、スマホをチェックしている。彼女の笑顔は相変わらず純真だった。
「晓晓。」
李昊は声をかけた。彼女が顔を上げ、困惑した表情を浮かべる。高校を卒業してから数年が経ち、彼の風貌はずいぶん変わっていた。しかしその目には、彼女が見覚えのある温かさがあった。
「あなたは……李昊?」
「久しぶり。覚えていてくれたんだね。」李昊は優しく微笑み、バラを差し出した。「ずっと君に会いたかった。」
林晓晓の頬がほんのり赤らむ。彼女はバラを受け取り、その香りをかいだ。「すごく……久しぶりね。大学はどう?あなた、有名になってるってニュースで見たよ。」
「ただの小さな会社さ。でも、君に話したいことがたくさんあるんだ。今夜、夕食でもいかが?」
彼女は少し迷ったが、うなずいた。李昊の心臓が高鳴る。前世の悲劇を知っているからこそ、この瞬間のひとときひとときがかけがえのないものに思えた。
レストランはキャンパス近くのイタリア料理店だった。李昊は彼女の好みをよく覚えていた。トマトベースのパスタに、シーザーサラダ。前世では彼女が「ベーコンは抜いて」と注文していたことも忘れていない。彼はそのままウェイターに伝えた。
林晓晓は驚いたようにまばたきした。「よく覚えてるね、そんなこと。」
「君のことなら、何だって覚えてる。」李昊はワイングラスを手に取り、ゆっくりと揺らした。「高校の時、図書館で隣の席だったこと。君が数学の問題を解くとき、眉をひそめる癖があること。雨の日は必ず青い傘を持ってくること……」
「もう、やめてよ。」彼女は恥ずかしそうにうつむいたが、口元はほころんでいた。「そんなことまで覚えてるなんて、気持ち悪いよ。」
「気持ち悪くても構わない。僕は君をもっと知りたいんだ。」
食事が進むにつれ、会話は弾んだ。李昊は自分の事業について話したが、詳細は控えめに語った。彼の目標は彼女を驚かせることではなく、ゆっくりと距離を縮めることだった。林晓晓もまた、自分の大学生活や将来の夢を語った。彼女が子供が好きで、教育の仕事に興味を持っていることを知った李昊は、心の中でほくそ笑んだ。
「もしよければ、今度うちの会社の見学に来ない?スタッフが若いから、雰囲気は楽しいよ。」
林晓晓はしばらく考えてからうなずいた。「いいよ、でも約束は守ってよ。あんまり堅苦しいのは嫌だから。」
「もちろん。」
その夜、李昊は彼女を寮の入り口まで送った。別れ際に、彼女は振り返って微笑んだ。「今日は楽しかった。また会える?」
「いつでも。」
その言葉に、林晓晓の笑顔がさらに輝いた。彼女が中に入っていくのを見送りながら、李昊は拳を握りしめた。この手で彼女を守る。前世の悲劇は絶対に繰り返させない。
数週間後、二人の関係は急速に深まっていた。李昊は仕事の合間を縫って彼女とデートを重ね、時にはキャンパスのベンチで一緒に本を読んだ。周囲の学生たちは、大富豪の社長と一般学生の恋愛を噂した。林晓晓は最初こそ気にしていたが、李昊の真摯な態度に次第に心を開いていった。
一方、事業は順調に成長していた。AI翻訳エンジンは市場で好評を博し、次なるプロジェクトとして音声認識システムの開発に着手した。李昊は毎日のように深夜まで働いたが、決して疲れを見せなかった。彼の頭の中には明確な計画があり、三人の恋人を守るためには、自らがもっと強くならなければならないと理解していた。
ある週末、李昊は林晓晓を自分のペントハウスに招いた。高層ビルの最上階からは、街全体が見渡せる。彼女は窓辺に立ち、眼下に広がる夜景に息をのんだ。
「すごい……ここがあなたの家なの?」
「僕たちの家になるかもしれないよ。」李昊は背後からそっと彼女を抱きしめた。彼女の体が一瞬硬直したが、すぐに力を抜いた。「晓晓、もう一度言わせてほしい。僕は君を愛している。前世も、今も、そしてこれからも。」
彼女は振り返り、彼の目を真っすぐに見つめた。その瞳には迷いと期待が入り混じっていた。「李昊……あなたは変わったね。昔よりずっと誠実に見える。でも、私はただの普通の女の子よ。あなたのような人にふさわしくないんじゃないかって、時々思うの。」
「そんなことはない。」李昊は彼女の手を強く握った。「君こそ、僕にとって唯一の人だ。信じてほしい。僕はもう二度と君を離さない。」
その夜、二人はソファに寄り添いながら夜明けまで語り合った。李昊は前世の記憶を決して口にはしなかったが、彼女への想いの深さだけは伝えた。林晓晓もまた、彼の誠実さに応えるように、自らの気持ちを少しずつ打ち明けていった。
月日は流れ、李昊の事業はさらに拡大した。新たな資金調達ラウンドを成功させ、会社の従業員は百人を超えていた。彼は次々と革新的な製品を市場に送り出し、メディアからの注目もますます高まった。しかし彼の心は常に冷静だった。富や名声は、彼が愛する者を守るための手段に過ぎない。
ある日、林晓晓が彼のオフィスを訪れた。彼女はホールケーキを手に、満面の笑みを浮かべていた。
「会社の設立一周年おめでとう、李昊。」
李昊は目を見開いた。「覚えていたのか?僕自身、うっかり忘れるところだったよ。」
「当たり前でしょ。あなたの大切な日は、ちゃんと覚えてるよ。」彼女はケーキを机の上に置き、ろうそくに火を灯した。「さあ、願い事をして。」
李昊は目を閉じた。頭の中に浮かんだのは、ただ一つの願いだけだった。
『この幸せが永遠に続きますように。』
彼がろうそくの火を吹き消すと、林晓晓は拍手をした。「どんな願い事をしたの?」
「言ったら叶わなくなるよ。」李昊は笑いながら彼女の髪を撫でた。「でも君に関係あることだけは確かだ。」
彼女は頬を赤らめ、ケーキを切り分け始めた。オフィスに甘い香りが広がる。窓の外では、夕日が街を黄金色に染めていた。
李昊はその光景を眺めながら、心の奥で静かに誓った。この平和な日々を守るために、どんな手段も厭わない。たとえ自分の手が血で汚れようとも、彼女たちだけは絶対に守り抜く。
だが、彼がまだ気づいていないことがある。運命はすでに、影の中で新たな歯車を動かし始めていた。海の向こうのアメリカで、一人の男が彼の名を噛みしめながら、冷たい笑みを浮かべている。
「李昊……俺の妹を見捨てたお前を、決して許さない。」
その夜、李昊はベッドの中で目を覚ました。冷や汗が背中を伝う。悪夢だった。前世の記憶がフラッシュバックのように蘇り、彼の恋人たちが苦しむ姿が脳裏をよぎった。
彼は携帯電話を手に取り、林晓晓にメッセージを送った。
『晓晓、愛してる。明日、会える?』
すぐに返事が来た。
『もちろん。私も愛してる。おやすみ、李昊。』
その文字を何度も読み返しながら、李昊は深く息を吸った。闇の中で、彼の決意は鈍らない。この人生は、自分で切り開くしかない。
第二章へ続く。