# 第一章 母の秘密
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。母は六時に起き、息子の弁当を作る。高校二年になった息子は、父に似て背が高く、口数は少ないが優しい。
「行ってきます」
息子の声が玄関から聞こえる。ドアが閉まる音。鍵が回る。静寂が部屋を満たす。
母は二階の寝室へ向かった。クローゼットの奥。古びたバッグの中から、鍵を取り出す。それは十年以上前から変わらない儀式だった。
床下収納の蓋を開ける。そこには男が残した遺品——ダンボール三つ。中には革製の鞭、蝋燭、縄、そして大量のビデオテープ。すべて、もう一人の男から託されたものだった。
母はテープを一つ手に取る。ラベルには『最終記録 三年目』と書かれている。ビデオデッキに差し込む。画面に砂嵐が走り、やがて映像が映る。
若い女がいた。自分だ。十九歳の自分が、無造作にベッドに座らされている。隣には男——四十代の初老の男。いつもスーツを着ていた。彼は優しく、そして冷酷だった。
「今日で最後だ。よく頑張ったな」
男の声がスピーカーから響く。母の身体が震える。
「これからも、お前は俺の犬だ。犬は主人を待つ。たとえ俺が死んでも、お前は俺のものだ」
男はそう言って、母の首に革の首輪を嵌めた。映像の中で、母は涙を流しながらも笑っていた。
テープはそこで終わる。その翌日、男は交通事故で死んだ。信号無視のトラックに轢かれて、即死だった。遺言には、全財産を『私の愛した女』に譲ると書かれていた。名前はない。でも、それで十分だった。
母は首元に手をやる。今はもう首輪はない。跡もない。でも、皮膚の下に、熱が宿っているような気がする。
「こんなはずじゃなかったのに」
呟く。部屋には誰もいない。
*** * ***
息子が学校に行っている間、母は自分を縛る。
ロープは男から教わった。まず両手を背中で組む。次に胸の上でクロス。そして首を通って、鎖骨の間で結ぶ。圧迫される感覚が、身体を温める。
「……ああ」
声が漏れる。今日は特別に、自分を罰することにした。男が残した鞭を手に取る。革の匂いがする。久しぶりだ。
鏡の前に立つ。四十歳の女がそこにいる。化粧っ気のない顔。地味なスーツ。でも、手に持った鞭が、全てを変える。
「お前は、何も変わっていない」
自分に言い聞かせる。そして、鞭を振り下ろす。自分の太もも。鈍い痛みが走る。もう一発。赤い痕が浮かび上がる。
「あなたの犬は、まだここにいます」
そう言った時、玄関のチャイムが鳴った。母は凍りつく。時計を見る。午後三時。こんな時間に来るのは、近所の主婦か、宅配便。それとも——
二階の窓から覗くと、見知らぬ男が立っていた。スーツを着ている。四十代くらい。初老の男にどこか似ている。
「はい」
インターフォンに応答する。声が震えないように気をつける。
「お届け物です。サインをお願いします」
配達員だった。母はほっとして、印鑑を持って玄関へ向かう。荷物を受け取った瞬間、自分がまだ鞭を持っていることに気づいた。慌てて背中に隠す。
「ありがとうございました」
ドアを閉める。心臓がドキドキしている。息子が戻るまで、あと二時間。片付けなければ。
寝室に戻り、ビデオテープと鞭を元の場所に収める。ロープは解く。鏡の前で服を整え、乱れた髪を手櫛で直す。
「母親の顔」
呟く。部屋はもう普通の主婦の部屋だ。でも、床下の収納には、まだ秘密がある。
母は冷蔵庫から夕飯の材料を取り出した。今夜はカレーだ。息子の好物。普通の幸せ。それで十分、いや——違う。足りない。何かが足りない。
あの男が死んでから、十年以上経った。その間、母は何度も自分を慰めてきた。でも、真の満足は得られなかった。息子が幼い頃は、それでも耐えられた。でも、今は——
「もしも、あの子が……」
思考を打ち消す。ダメだ。考えてはいけない。あの子は私の息子だ。血を分けた子供だ。そんなことを望んではいけない。
でも、胸の奥で熱が疼く。男の遺した教えが、血脈のように流れている。
「夕飯、まだかな」
その時、玄関の鍵が開く音がした。息子が帰ってきた。
「おかえり」
母は笑顔を作る。完璧な母親の顔。
息子は「ただいま」と短く答えて、自分の部屋へ行ってしまった。ドアが閉まる音。沈黙。
夕飯の支度をしながら、母は考える。自分の抱える欲望が、いつか必ず、この平穏を壊すだろうと。今はまだ、誰も知らない。でも、永遠には隠せない。
空っぽの鍋の中で、カレーのルーが溶けて金色に変わっていく。母は瞳を閉じ、深く息を吸った。
夜が来る。今日もまた、一人の夜が。