正邪の大戦が終わりを告げてから、すでに十年の歳月が流れていた。
あの日、天空を真っ二つに裂くような光と闇の衝突は、人間たちの記憶から徐々に薄れ始めていた。闇の神は完全に消滅し、女娲をはじめとする神々は仙界へと戻っていった。人界と仙界の間には見えない壁が築かれ、二つの世界は隔絶された。もはや神々が人間の前に姿を現すことはなく、奇跡も神託も、遠い昔の物語となろうとしていた。
そんな中、東方の神の子である二人だけは、人界に留まる道を選んだ。
鳳娃は村はずれの小さな教場で、子供たちに文字と知識を教えていた。彼女は自らの神力の大部分を捨て、凡人の娘として生きることを選んだのだ。かつて光を司る神女として戦場に立っていた面影は、今ではほとんど感じられない。日に焼けた肌、質素な麻の服、後ろで一つに束ねた黒髪――どこから見ても、ただの美しい村娘に過ぎなかった。
「今日は、天地がどのようにして生まれたかというお話をしましょう」
鳳娃は教壇に立ち、柔らかな声で語り始めた。教場には十五人の子供たちが座っている。その目はみな、彼女の言葉を待ちわびるように輝いていた。
「遠い遠い昔、この世界には何もありませんでした。ただ、混沌とした気だけが広がっていたのです……」
彼女が語る神話の物語は、かつて自分自身が目撃した真実の記憶でもあった。しかし、それを子供たちに伝える時、彼女はあくまでも「遠い昔の話」として語った。自分がその一部だったとは決して明かさない。それが、凡人として生きると決めた自分の役割だと、彼女は思っていた。
授業が終わり、子供たちが帰っていく。鳳娃は教場の戸締まりを確認し、村の広場へと足を向けた。夕暮れの村は、家々から夕飯の煙が立ち上り、柔らかな橙の光に包まれている。農具を担いで帰る男たち、井戸端で立ち話をする女たち、路地を駆け回る犬――すべてが、穏やかで平和な日常の光景だった。
村の入り口に立つと、鳳娃は無意識に遠くの山並みを見上げた。あの山の向こうには、龍娃がいる。彼はこの地域一帯の守護者として、定期的に大地を巡視していた。月に一度、彼は村に立ち寄り、鳳娃と短い言葉を交わす。それだけの関係だったが、鳳娃にとってその時間は、何よりも大切なものになっていた。
「鳳娃さん、今日もお授業ご苦労さま」
声をかけられて、鳳娃は振り返った。村の長の妻である老婆が、洗濯物を抱えて立っていた。
「いいえ、とんでもない。子供たちが真面目に聞いてくれるので、教えがいがあります」
「ほんに、あんたのような先生がいてくれて助かるよ。この村の子供たちは、みんなあんたのことが大好きだ」
老婆は皺くちゃの顔に優しい笑みを浮かべた。
「ところで、龍娃さんは今どちらに?」
「さあ……先月は北の村の方に行くとおっしゃっていましたが」
「そうかい。あの若者は本当に立派だねえ。村から村へと渡り歩いて、人々を守っている。まるで昔話に出てくる英雄みたいだよ」
鳳娃は微笑んだまま、何も答えなかった。英雄――そう、龍娃は確かに英雄だった。かつて闇の神と戦った、東方の神の子の一人として。しかし今は、そのことでさえも遠い記憶の彼方にあった。
それからの数日間、鳳娃はいつも通りに教場で授業を行い、村の女たちと畑仕事を手伝い、夕方には一人で家に帰るという穏やかな日々を送った。しかし、彼女の心はどこか落ち着かず、夜になると窓辺に座って星空を見上げることが多くなった。
あの戦いの後、捨てたはずの神力の残滓が、まだ微かに彼女の中に息づいている。そのおかげで、彼女は凡人の視界を超えて、遠くの気配を感じ取ることができた。特に、龍娃の持つ光の力は、彼女にとってまるで灯台のように明瞭に感じられた。
今、その光の気配は北の方角から、ゆっくりとこちらへ近づいている。
鳳娃の胸が少し高鳴った。彼が来る。もうすぐ、龍娃がこの村にやって来る。
翌日の午後、村に一人の旅人が現れた。背の高い、精悍な体つきの青年だった。日に焼けた小麦色の肌、切れ長の鋭い目、そして背中に背負った長剣。彼が村の入り口に立つと、子供たちが真っ先に気づいて駆け寄っていった。
「龍娃のお兄ちゃん!」
「お帰りなさい!」
龍娃は屈んで、一番小さな子供の頭を撫でた。その仕草は優しく、とても剣士の手とは思えないほど温かみがあった。
「ただいま。みんな、元気にしてたか?」
「うん!」
子供たちに囲まれながら、龍娃は村の広場へと歩いていく。途中、井戸端で水を汲んでいた鳳娃と目が合った。
一瞬、二人の時間が止まったかのようだった。
鳳娃は手に持った水桶を下ろし、軽く頭を下げた。
「お帰りなさい、龍娃さん」
「ああ……ただいま、鳳娃」
龍娃の声には、抑えきれない喜びが滲んでいた。彼の目が、鳳娃の姿を何度もなぞる。束ねた黒髪、日焼けした頬、シンプルな麻の服に包まれたしなやかな体――凡人の娘として暮らす彼女は、神女であった頃よりもずっと、人間らしい温かみを帯びていた。
「しばらくぶりですね。北の村は如何でしたか?」
「ああ、特に変わったことはなかった。ただ、この冬は雪が多かったから、そろそろ畑の準備を始めた方がいいと村長に伝えておいた」
「そうですか……それは大事な情報ですね。私からも村の方々に伝えておきます」
まるで他人のような、儀礼的な会話。しかし、その一言一言の裏には、相手を想う気持ちが込められていた。龍娃は鳳娃に会いたくて、旅の途中で何度もここへ立ち寄る口実を考えた。鳳娃もまた、龍娃が来る日を心待ちにしていた。それでも、二人はお互いにその気持ちを表に出せずにいた。
その夜、村では龍娃を歓迎する小さな宴が開かれた。広場に篝火が焚かれ、村人たちが料理や酒を持ち寄って集まった。龍娃は村人たちに囲まれ、旅の話や外の世界の噂を語って聞かせた。鳳娃は少し離れた場所に座り、彼の話に耳を傾けていた。
「そういえば、龍娃さんはどうしてそんなに旅を続けているんだい?」
村の一人が問いかけた。
龍娃は一瞬、鳳娃の方を見てから、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺は……この大地が好きなんだ。どこにいても、この地を守りたいと思っている。だから、自分の目で確かめながら、できることを少しずつやっているだけだ」
「立派なことだよ。昔は神さまが守ってくださっていたけど、今はもう神さまもいらっしゃらない。龍娃さんのような若者がいてくれるから、安心して暮らせるんだ」
「いや……俺なんか、まだまだだ」
龍娃はそう言って、杯を傾けた。
鳳娃はその横顔を見つめながら、胸の奥が切なくなるのを感じていた。彼は何も言わない。自分が神の子であることも、捨てた神力のこと