正邪の大戦が終わりを告げたあの日から、世界は静けさを取り戻したかに見えた。闇の神は完全に消滅し、女娲をはじめとする神々は天庭へと帰還した。仙界と人間界を隔てる結界は再び張り巡らされ、凡人の目には神々の姿は二度と映らなくなった。
しかし、その結界のこちら側に残った者が二人いた。東方神娃、龍娃と鳳娃である。彼らは神力の大部分を捨て去り、人間の村々に溶け込む道を選んだ。鳳娃は村の学堂で子供たちに文字や知識を教え、龍娃は村々を巡り、人々の安全を守る巡回役を担った。
長い年月が流れた。かつて神々しい光を放っていた二人の姿は、次第に人間らしい風貌へと変わっていった。龍娃は筋骨たくましい青年へと成長し、その瞳には大地を見守る者の優しさと強さが宿っていた。鳳娃はと言えば、智慧の神娃らしい気高さを残しつつも、どこか人間の女性のような温かみを帯びた美しい娘になっていた。彼女の心の中で、龍娃に対する想いは静かに、しかし確実に育っていた。夜風に揺れる灯りのように揺らめくその恋情を、彼女は決して口にせず、胸の奥底に押し込めていた。
ある日の夕暮れ、西の空が異様な色に染まった。空気が重く、泥土の匂いに混じって鉄錆のような匂いが漂い始めた。村人たちは空を見上げて首をかしげたが、誰もその意味を理解できなかった。
その夜更け、天の彼方から一条の黒い流星が走った。それは一直線に村の近くの山間部へと落下し、鈍い轟音とともに大地を揺るがした。龍娃はその衝撃を遠くの巡回先で感じ取った。彼は足を止め、振り返って煙の上がる方角を見つめた。何かが、今、世の均衡を崩し始めている予感がした。
翌朝、龍娃は村の男たちに指示を出し、周辺の巡回を強化すると自らも出かける準備を整えた。鳳娃は学堂の窓辺に立ち、遠くの山肌に刻まれた新しい傷跡を見つめていた。そこから立ち上る紫がかった靄に、彼女はかつて感覚を研ぎ澄ませたことのある気配――闇のものの残滓を感じ取った。心臓が早鐘を打つ。
「龍娃、気をつけて」
龍娃が村を出る前、鳳娃は短く声をかけた。龍娃は振り返り、しっかりと頷いた。その目にはいつもの揺るがぬ決意が宿っていた。
「お前も、無理はするなよ」
それだけを言い残し、彼は村の門を出ていった。鳳娃はその後ろ姿を、唇を噛みしめて見送った。
龍娃の姿が見えなくなった後も、鳳娃の胸のざわつきは収まらなかった。あの降りた場所から、まるで生きた生き物のような力が這い出し、空気を重くしている。彼女は迷った末、決断を下した。このまま待つだけではいられない。悪しきものが育つのを看過すれば、龍娃たちが守ってきたこの村が危険に晒される。
鳳娃は自室で軽装に身を包み、腰に短剣を差した。もうほとんど神力は残っていないが、それでも僅かに宿る神気だけが、闇に対抗する唯一の武器だった。彼女は村人に何も告げず、山道を駆け上がった。
山道はだんだんと険しくなり、草木は異様に捻じれ、苔の色は紫がかっていた。空気に混じる腐臭が強まり、肌に触れる風がひどく冷たい。鳳娃は息を切らしながらも足を止めず、落下地点へと近づいた。
斜面を曲がった先に、巨大な穴が開いていた。地割れのように深く、内部からは紫色の瘴気が立ち上っていた。穴の縁には奇妙な模様が浮かび上がり、まるで地獄への門のように見えた。鳳娃は息を飲んだ。この力を察知した他の者がいないことを願いながら、彼女は慎重に近づいた。
穴の縁に立ち、内部を覗き込む。底は闇に呑まれて見えない。何かが蠢く気配がした。触手めいたものが、壁面を這うように動いている。それは闇の残滓と隕石の力が融合し、自らの意志を持ち始めた証拠だった。
鳳娃が足を踏み出そうとした瞬間、足元の地面が脆く崩れた。ガラガラと音を立てて、地盤が大きく沈み込む。彼女は体勢を崩し、腕を振ってバランスを取ろうとしたが、遅かった。重力に従い、彼女の身体は穴の中へと吸い込まれた。
「あっ……!」
短い悲鳴が闇に呑まれる。落下する間、鳳娃の視界には紫黒色の触手が無数にうごめく壁面が流れ、耳には不気味な囁き声のようなものが響いた。何度か岩壁に身体を打ちつけ、痛みが全身を襲う。意識が飛びそうになるのを必死にこらえ、彼女は最後の力を振り絞って手を伸ばした。
しかし、触れるものは何もない。ただ、深く、暗い底へと落ちていく。
そして、衝撃。全身が激しく叩きつけられ、鳳娃は短く呻いた。泥と血の匂いが混じった空気が肺に広がる。視界は歪み、耳鳴りが止まない。彼女は必死にまぶたを開き、周囲を見渡そうとした。
そこは洞窟のようだった。壁面は脈打つように動き、無数の紫色の触手が天井から垂れ下がっている。それらは鳳娃の気配に反応してか、ゆっくりと彼女の方へと伸びてきた。鳳娃は冷や汗が頬を伝うのを感じた。
ここは――魔窟の中だ。もう外には戻れない。龍娃の助けを呼べば、彼をこの危険に巻き込むことになる。しかし、このまま一人で抗うには、彼女の神力はあまりに乏しい。
触手の一本が、彼女の足首に絡みついた。生温かく、ねっとりとした感触が腿の上へとのぼってくる。鳳娃は恐怖で全身を硬直させながらも、残った意志で短剣を抜き、触手を切り裂いた。紫色の体液が飛び散り、触手は痙攣して後退した。
「まだ……終わらせない……」
鳳娃は歯を食いしばり、よろめきながら立ち上がった。服は裂け、体中に擦り傷ができている。しかし、彼女の目にはまだ闘志の光が宿っていた。闇の囁きが耳元で響く。欲に溺れろ、快楽に堕ちろ、かつての神よ。鳳娃は首を振り、雑念を振り払った。
今は逃げ道を探すしかない。龍娃が戻る前に、この魔窟の弱点を見つけ出さなければ。鳳娃は暗い通路の奥へ、足を引きずりながら歩き始めた。
その背中に、無数の触手が執拗に迫っていた。