春の日差しが柔らかに降り注ぐ午後、林婉儿は伯爵邸の重厚な鉄門の前に立っていた。彼女の手には小さな革製のトランク一つ。裕福な商家の令嬢である彼女が、なぜ自ら進んで他家のメイドとして働くことを選んだのか——それは、幼い頃から読んできた外国の小説に描かれた貴族社会への憧れと、自らの身分に飽き飽きしていた反動だった。
門の脇にある呼び鈴を押すと、やがて小柄な女性が現れた。彼女は濃い灰色のメイド服を着て、きっちりと前掛けを締めている。年は二十代半ばといったところか。顔立ちは優しいが、目つきにはプロの仕事人としての鋭さが宿っていた。
「初めまして、林婉儿と申します。本日よりこちらでお世話になります」
林婉儿が深くお辞儀をすると、女性は微笑みを浮かべた。
「ようこそ、小薇と申します。先輩メイドとして、あなたの指導を一部担うことになりました。中へどうぞ」
敷地内は想像以上に広大だった。石畳の道を進むと、左右に手入れの行き届いた庭園が広がり、中央には白亜の噴水が陽の光を反射して輝いている。建物は西洋風の造りで、窓には繊細なレースのカーテンがかかり、玄関の扉は重厚な木製だった。
小薇は林婉儿を裏手の従業員用入口へと導いた。そこから続く廊下は薄暗く、天井が低い。使用人の空間と主人の空間は明確に区別されているのだろう。林婉儿はその空気に少し緊張しながらも、心の奥では好奇心が勝っていた。
「まずは伯爵様と夫人にご挨拶を。その後にあなたの部屋とお仕着せを案内します」
小薇の言葉に頷きながら、林婉儿は手早く周囲を観察した。廊下の壁には歴代の使用人と思しき写真が飾られ、皆一様に無表情でカメラを見つめている。彼女たちの着ている服は、今の自分がこれから着るものと同じなのだろうか。
応接室の前で足を止めると、小薇はノックもせずに扉を開けた。中には、一人の壮年の男性と、優雅なドレスを着た女性が腰掛けていた。男性が伯爵、女性がその夫人だ。
「お連れしました、伯爵様、夫人」
小薇が深く頭を下げる。林婉儿もそれに倣い、最敬礼をした。
「よく来たな。林婉儿と聞いている」
伯爵の声は低く、響きが良かった。彼はソファに深く凭れながら、品定めするように林婉儿を見つめている。
「はい、本日より誠心誠意お仕えいたします」
林婉儿は練習してきた通りの言葉を口にした。伯爵は満足げに頷き、夫人は扇子で口元を隠しながら微かに笑った。
「あなた、新しい子はとても素直そうね。すぐに調教が進みそうだわ」
夫人の言葉には、何か含みがあるように感じられた。林婉儿はその意味を正確に理解できなかったが、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
「小薇、着替えさせてやれ。それから、基礎の礼儀を教え込め。三日以内に最低限の動きができるようにしておけ」
「かしこまりました」
小薇が再び頭を下げ、林婉儿の袖を引いた。二人は応接室を後にし、さらに奥へと進む。今度は女性用の小部屋に通された。そこには鏡台と几帳面、そして壁に掛けられた数着のメイド服があった。
「ここがあなたの更衣室よ。これから着る服は——これ」
小薇が手に取ったのは、一見すると普通の黒いメイド服だった。しかしよく見ると、スカートの丈は膝上十センチはあろうかという短さで、エプロンの下のブラウスは胸元が大きく開いている。腰のリボンも飾りというよりは、何かを結びつけるためのもののように見えた。
「これを……着るのですか?」
林婉儿は思わず声を上げた。自分が想像していた格式高いメイド服とはあまりにかけ離れていたからだ。
「ええ、これがこの屋敷の正装です。あなたの体に合わせて調整してあります。着てみてください」
小薇は淡々と言い、手早く林婉儿の上着を脱がせ始めた。抵抗する間もなく、林婉儿は優雅なドレスを剥がされ、代わりに薄手の下着だけになる。小薇は何の躊躇もなく、その下着までも外そうとした。
「ちょ、ちょっと待って……!」
「メイド服の下は何も着けないのがルールです。伯爵様がお召しになる際、布の感触を邪魔しないように」
小薇は当然のように言い、林婉儿のブラジャーを外した。冷たい空気が直接肌に触れ、彼女は両腕で胸を隠そうとしたが、小薇は優しくそれを制した。
「恥ずかしがることはありません。この屋敷では全員が同じ姿です。あなたもすぐに慣れます」
そう言って、小薇はメイド服を被せた。ブラウスの前は深く開き、胸の半分以上が露わになる。スカートは短く、立ち上がると太ももが完全に見えた。裾を引っ張ろうとしてもつまりを感じるだけで、隠しようがない。
「これで完了です。鏡をご覧ください」
鏡に映る自分の姿は、もはや裕福な令嬢ではない。露出の多い黒い服に包まれた一人の女——性的な魅力を強調された従者の姿だった。林婉儿は自分の頬が赤くなるのを感じたが、同時に不思議な高揚感もあった。
「さあ、次は礼儀訓練です。伯爵様と夫人の前で練習しますよ」
小薇に連れられ、再び応接室へ戻ると、伯爵と夫人はまだ同じ姿勢で座っていた。夫人は手に鞭のような細い棒を持っている。
「新しい服はどう? 気に入った?」
夫人が問いかける。林婉儿はうつむきながら「はい」と答えるしかなかった。
「では、まず基本的な跪き方を教えましょう。メイドは主人に対して常に低い姿勢を保つのが礼儀です。特に伯爵様の前では、決して目線を同じ高さにしてはいけません」
小薇が手本を示す。彼女は静かに両膝を床につけ、背筋を伸ばし、両手は太ももの上に置いた。顔は床に向けて伏せる。
「これを、伯爵様の前に出るときは必ず行います。やってみてください」
林婉儿は緊張しながらも、小薇の真似をして膝をついた。しかし初めての動作でバランスを崩し、少しよろめいてしまう。
「もっと優雅に。ゆっくりと、息を吸いながら」
夫人の冷たい声が飛ぶ。林婉儿は深呼吸をし、もう一度試みた。今度はうまくできたようだ。
「次に、お辞儀の角度です。伯爵様に対しては深く、床に額がつくほど。夫人に対してはそれより浅く。そして、他の使用人に対しては会釈程度で構いません」
小薇が続けて説明し、林婉儿は繰り返し練習した。その間、伯爵は黙って観察し、夫人は時折鞭の先で林婉儿のあごを持ち上げて角度を確認した。
「よし、次は奉仕の言葉だ。『何なりとお申し付けください』——これを、伯爵様が何か求めた時にすぐに言えるように」
「何なりとお申し付けください……」
声が震えた。林婉儿はまだこの状況に完全には適応できていなかった。
「もっと愛想よく。あなたはただのメイドではなく、我々の悦びのための存在です。笑顔を忘れずに」
夫人の言葉に、林婉儿は無理やり口元を持ち上げた。そのぎこちない笑顔を、伯爵は面白そうに見つめている。
「では、実践です。ここにワイングラスがあります。これを伯爵様にお持ちしなさい」
夫人がテーブルの上のグラスを指す。林婉儿は立ち上がり、それを手に取った。しかし、歩き方がまだぎこちなく、グラスの中の赤い液体が揺れた。
「止まれ。歩くときはもっと優雅に。スカートがひらりと舞うように、足を揃えて小さく歩くのです」
小薇が再び手本を示す。林婉儿はそれに従い、ゆっくりと歩き出した。伯爵の前に着くと、先ほど教わった跪きの姿勢を取る。両膝をつき、グラスを両手で捧げ持った。
「伯爵様、どうぞ……」
声が上ずっていた。伯爵は微笑みながらグラスを受け取り、一口含んだ。
「うむ。だが、もっと深く頭を下げたままで、グラスを差し出すのが正しい。そうでないと、我々が飲むときにあなたの顔が見えてしまう」
伯爵の言葉に、林婉儿はさらに頭を下げた。額が絨毯に触れそうになる。その姿勢のまま、伯爵はグラスを空にして彼女の手に戻した。
「よし、これで一通りの基礎は終わりだ。後は小薇に任せる。あなたは明日から、朝の奉仕業務を小薇と交代で行いなさい」
伯爵が立ち上がり、夫人もそれに続く。二人は応接室を去り、林婉儿だけが床に跪いたまま残された。
「起きていいわよ。初めてにしては上出来だった」
小薇が手を差し伸べ、林婉儿を立ち上がらせた。彼女の膝は少し痛んでいたが、それ以上に心臓が高鳴っていた。
「これから毎日、こんなことをするのですか?」
「ええ、そしてもっと多くのことを。でも、慣れるわ。この屋敷の全てがあなたを待っている」
小薇の言葉に、林婉儿は複雑な表情を浮かべた。自分が選んだ道とはいえ、ここでの日常がどのようなものか、まだ実感が湧かなかった。しかし、鏡に映った自分の姿——あの露出の多いメイド服を着て、跪く自分——には、確かに抗いがたい魅力があった。
「明日、また朝にお会いしましょう。今はゆっくり休んでください」
小薇はそう言い残し、部屋を出て行った。林婉儿は一人、薄暗い更衣室に立ち、新しい自分を見つめ続けた。窓の外では、夕日が沈みかけていた。長い一日の終わりであり、新たな始まりの予感が静かに広がっていた。