会議室の空気は張り詰め、重苦しい静寂を破ったのは、私の手に握られた端末の無機質な振動だった。
「失礼」
私は眉をひそめ、画面に視線を落とした。瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。表示されているのは、高速道路を管轄する警察署からの通知。高速道路上で発生した玉突き事故。犠牲者リストの中に、父と、夫の名があった。
手が震え、端末を取り落としそうになる。耳鳴りがして、周囲の音が遠ざかっていく。
「社長? 大丈夫ですか?」
秘書の声が、水底から響いてくるようにぼんやりと聞こえた。私は、テーブルの端を掴んで、なんとか立ち上がった。
「……本日の会議は、これまでとします」
絞り出すように言って、私は会議室を後にした。廊下の冷たい空気が、火照った頬に心地悪い。足がもつれ、ヒールがフローリングに嫌な音を立てる。頭の中では、先ほどの通知文が、毒々しい蛍光色で点滅し続けていた。
*嘘だ。何かの間違いだ。*
誰にともなくそう呟きながら、私は個室のトイレに駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。
――それからの数日間は、まるで悪夢の中を歩いているようだった。
葬儀場は、むせ返るような線香の煙と、白菊の匂いに満ちていた。祭壇に飾られた、穏やかな笑顔の父と、若々しい夫の遺影。それを見上げる私の心は、凍りついたように何も感じなかった。涙さえも、出てこなかった。
黒い服の群れの中に、親族たちの姿があった。彼らの視線は、哀悼よりも、何か別の、薄ら寒いものを孕んでいる。それは、評価するような、値踏みするような、嫌な視線だった。
焼香を終えた叔母の一人が、私のすぐ横に立った。香水と加齢臭が混ざった不快な匂い。彼女は声を潜めて、まるで秘密の取引を持ちかけるかのように囁いた。
「小雪さん、お気の毒に……でも、あなたももうお若くはないし、これからが大変ね。ああ、B国の法律はご存じでしょう? 夫と父という後ろ盾を同時に失った女性は、速やかに新しい男性保護者を見つけなければ……」
私は唇を噛みしめ、何も答えなかった。
別の親戚、遠縁の従兄を名乗る男は、薄笑いを浮かべながら近づいてきた。
「一族の恥になるような真似はしないでくださいよ。公娼施設だけは勘弁ですからね。我々の株価にも響く」
*公娼施設*。
その言葉が、鉛のように私の胸の奥底に沈んでいく。この国では、庇護者を失った無収入の成人女性が、強制的に公娼施設へ送られる制度がある。それは、国家公認の売春宿だ。法律上は“社会復帰支援施設”などと謳われているが、実態は単なる女体の商品化に過ぎない。そんな場所に、かつて“ビジネス界のお嬢様”とまで呼ばれた私が?
悔しさと、燃えるような怒りが、乾いた心の奥底から沸き上がってくるのを感じた。だが、それも長くは続かなかった。すぐに、深い絶望がそれを押し流してしまう。
葬儀が終わり、親族たちがまばらになった頃、一族の長老が、重々しい足取りで私の前に歩み寄ってきた。無数の皺に刻まれた顔は、岩石のように無表情で、感情の一切を拒絶していた。
「小雪」
彼の声は、法廷で判決を読み上げる判事のようだった。
「お前も、一族の掟は理解しているな。猶予は三日だ。三日以内に、戸籍上の従属先となる新たな男性を定め、役所に届け出よ。さもなくば……」
長老は言葉を切り、ぎらついた目で私の全身を舐め回すように見下ろした。
「わかっているな。一族は、公娼施設に堕ちた女の面倒まで見る義理はない」
彼の言葉は私の心に重くのしかかり、逃げ場を失わせる。しかし、その追い詰められた状況の中で、かすかな光が感じられた。それは16歳の息子、凌雲の存在だった。
周囲の空気が、一気に冷え込んでいくのを感じた。私の運命は、まさにその一言で断罪されたのだ。
私は、縋るように、会場の隅に立つ、小さな人影を見つめた。
凌雲。
まだ十六歳になったばかりの、私の実の息子。
彼は、まだ状況を完全に理解できていない様子で、大きな黒い瞳を潤ませ、所在なさげに立っていた。学生服のまま駆けつけたらしく、葬式の黒に染まった大人たちの中で、彼だけが異様に眩しく、そしてひどく脆く見えた。
ああ、この子がいる。
私の、ただ一人の血を分けた息子。
法律は、女性が財産や事業を相続することを禁じていはいない。ただ、それはあくまで『男性保護者の管理下』にある場合に限られる。保護者のいない女性は、それこそ物と同じ扱いなのだ。つまり、公娼施設に送られ、不特定多数の男に身体を好き勝手に使われる、公衆の“奴隷”となる。
嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。
だったら……。
私の頭の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした。
死んだように冷え切った心が、たった一つの、歪んだ結論を導き出す。
私は、ふらふらと凌雲に歩み寄った。彼は、私の尋常でない様子に、小さく震えながら、私を見上げた。
「母さん……」
か細い声が、胸に突き刺さる。
私は、震える手で、彼の冷たい手を握った。そして、聞き取れないほどの小さな声で、しかし、断固たる決意を込めて、囁いた。
「凌雲……母さんを、あなたの奴隷にして」
少年の瞳が、大きく見開かれる。
「……え?」
「お願い。あなたが、私の主人になって。B国の法律では、実子間でも、成人と未成年でも、血縁者でも、奴隷契約は有効なの。そうすれば、私はあなたの所有物になる。少なくとも、見ず知らずの男たちに汚されるよりは……」
私の言葉は、嗚咽に阻まれて途切れ途切れになった。涙が、堰を切ったように溢れ出し、止めどなく頬を伝って落ちる。初めての涙だった。
凌雲は、ただ呆然と、私の顔を見つめている。その無垢な瞳に映る私は、どれほど醜く、浅ましく映っているだろうか。
「母さんを、護って……」
私は彼の手に縋り、声にならない声で、何度も何度も繰り返した。
これが、私たち母子の、長く苦しい、地獄の始まりだった。