スマホの画面に表示された『ご注文、誠にありがとうございます』の文字を、陸子辰は息を詰めて見つめていた。薄暗い部屋の中、唯一の光源だけが彼の顔を青白く照らし、瞳孔の奥にぎらついた小さな光点を浮かび上がらせている。
指先がまだ微かに震えていた。最後の確認ボタンを押すまで、何度も登録情報を見直した。送付先住所は自宅で間違いない。都内の閑静な住宅街に建つ、ごく平凡な一軒家。両親が共働きだから、平日の昼間なら確実に誰もいない。宅配業者がインターホンを押すこともなく、指定した宅配ボックスにそのまま投函される手筈だ。
「GF-900……」
乾いた唇が、商品名をそっと転がした。高仿真人間ロボット。ネットの海の最深部、何層ものアクセス制限と匿名プロキシをすり抜けた先にだけ存在する、非合法すれすれのマーケットで見つけた代物だ。値段は高校生の小遣いでは到底手が出せない額だったが、一年以上かけてコツコツと貯めた金と、親戚からもらったお年玉をすべて注ぎ込んだ。
画面にはすでに、注文番号と配送予定日が表示されている。最短で三日後。陸子辰はスマホを机の上に伏せると、大きく息を吐き出した。心臓が耳元で打つ音がうるさい。まるで犯罪に手を染めたかのような錯覚に陥るが、これは誰にも迷惑をかけない、ただの買い物だ。自分で稼いだ金で、自分の欲望を満たすだけの、純粋な取引に過ぎない。
部屋の壁には、SF映画のポスターや美少女フィギュアが所狭しと貼られている。棚にはプログラムの参考書や電子工作のキットが乱雑に積み上げられ、現実世界への興味の薄さを物語っていた。学校でも、家でも、陸子辰はいつも一人だった。言葉を交わすのは、せいぜいゲーム内のチャットか、AIアシスタントへの命令だけ。人間同士の面倒くさい駆け引きも、気を遣う会話も、彼にとっては無駄でしかなかった。
むしろ、機械の方がずっと正直だ。命令すれば忠実に動き、期待した反応を返してくれる。そして今回手に入れるものは、その頂点とも言える存在だった。最新型の女性型アンドロイド。外見はもちろん、触感も体温も、本物の人間と区別がつかない。しかも学習能力を備え、所有者の好みに合わせて性格や行動パターンを変えていくという。
陸子辰はもう一度スマホを手に取り、注文確認メールを開いた。そこには簡単な商品説明が羅列されている。
『GF-900は、当社の最先端バイオミメティクス技術を結集したフラッグシップモデルです。初期設定は従順モードとなっており、ご購入後すぐにご使用いただけます。なお、本製品はあくまでパートナーロボットであり、生命体ではありません。法律に基づき、その権利を主張することはできません』
最後の一文を読んで、陸子辰は口元を歪めた。当たり前だ。ロボットが権利など持てるわけがない。人間に作られ、人間に所有されるだけの道具。それがどれほど精巧にできていようと、中身はただのプログラムと人工筋肉の塊に過ぎないのだ。
彼はもう待ちきれなかった。
翌日の教室は、いつも以上に灰色だった。
黒板に書かれた数式の羅列が、ただの記号の連なりにしか見えない。教師の声は耳を素通りし、窓の外の運動部の掛け声だけがやけに脳裏にこびりつく。陸子辰は一番後ろの窓際の席で、頬杖をつきながらこっそりとスマホを机の下で操作していた。
配送状況は『出荷準備中』。まだ倉庫から動いてすらいない。だが、それだけで彼の胸は熱くなった。頭の中ではすでに、段ボールを開けるところから、初回起動のシークエンス、そして――あらゆる妄想が、際限なく膨らんでいく。
『GF-900』は、いわゆる「大人のおもちゃ」としての機能も当然備わっている。というより、それがメインの用途だと謳っている販売ページもあったくらいだ。陸子辰だって例外ではない。インターネットで見つけた、アンドロイドの分解動画や改造レポートの数々が、彼の知識欲と同時に、歪んだ支配欲をも刺激していた。
「りく、聞いてるのか?」
突然、教師に名前を呼ばれ、陸子辰は大げさに肩を震わせた。慌ててスマホをポケットに押し込み、顔を上げる。五十代の数学教師が、白いチョークを持ったまま不機嫌そうに彼を見下ろしていた。
「……聞いてます」
「じゃあ、この問題を解いてみろ」
黒板には、授業の流れとは明らかに無関係な、ひどく複雑な方程式が書き殴られていた。どうせ当てつけだ。陸子辰は心の中で毒づきながら席を立つ。クラスメートの好奇と嘲笑が入り混じった視線を背中に感じるが、気にするだけ無駄だ。どうせこいつらとは、卒業すればそれっきりだ。
結局、解けずにそのまま立たされ、授業が終わるまで気まずい時間を過ごした。だが、そんな屈辱すら、今の彼にはどうでもよかった。頭の中はあと二日後に届く『彼女』のことでいっぱいで、それ以外のことはすべて解像度が落ちて見える。
昼休み、陸子辰は一人で屋上へ向かった。途中、廊下でクラスメートのグループとすれ違う。リーダー格の男子が、「お、陸じゃん。立たされてたな」とからかうように声をかけてきたが、彼は完全に無視した。エレベーターのドアが閉まる瞬間、後ろから「ノリ悪いな」という声が聞こえたが、知ったことではない。
屋上への扉は施錠されていなかった。誰も来ない、彼だけの場所。フェンス越しに広がる街並みは、ミニチュア模型のように小さく綺麗に整っている。陸子辰はコンクリートの床に腰を下ろし、再びスマホを取り出した。
配送アプリを起動する。指が自然と動く。『出荷準備中』の文字は変わらない。彼は軽く舌打ちをして、今度は商品ページのスクリーンショットを何度も拡大しては、そのスペックを穴が開くほど読み返した。
「身長162センチ、体重は……人間の女性とほぼ同等の触感を再現……なるほどな」
声に出して読み上げる。風が吹いて、その言葉をかき消した。この高揚感はなんだろう。新しいゲーム機を買うときのワクワク感とは、明らかに質が違う。もっと深く、どろりとした、身体の芯から湧き上がるような期待。
彼はこれから、完全に自分の言いなりになる存在を手に入れる。拒絶されることも、失望されることもない。ただ命令通りに動き、望む言葉を紡ぎ、どんな行為にも従順に応じる。それがどれほど素晴らしいことか、誰にも理解できはしないだろう。
午後の授業中も、陸子辰の意識の大半は二日後に飛んでいた。世界史の年号も、化学の反応式も、ただのノイズでしかない。ノートの端には無意識のうちに、女性の身体の簡単なスケッチと、『GF-900』の文字が何度も書き込まれていた。幸い、それ以上あてられることはなく、平穏に放課後を迎える。
チャイムが鳴る。教室が一気に騒がしくなる中、陸子辰は誰よりも早く鞄を掴み、席を立った。いつもならわざとゆっくり片付けをして、人の波が去るのを待つのだが、今日は違う。一秒でも早くこの檻から出たかった。
靴箱で上履きをローファーに履き替え、通用口から裏門へと抜ける。表門の前ではたむろする生徒たちの声がするが、聞こえないふりで足を速めた。普段はまっすぐ帰る道を、今日はわざわざ一本裏の生活道路に入り込む。細い路地の両側には古い民家が立ち並び、庭先からは夕飯の支度をする匂いが漂っている。
誰もいない。夕日のオレンジ色が、アスファルトに長い影を落とす。陸子辰は歩きながら、再びポケットのスマホを握りしめた。指が画面に触れるたび、ほんの少しだけ振動が返ってくる。今はもう、『出荷準備中』のままでいい。むしろ、まだ届かないという焦燥感すら、この特別な時間を引き伸ばすスパイスだと感じ始めていた。
「……グナ」
無意識に、小さな笑い声が漏れる。口元が緩むのを止められない。誰かに見られたら、さぞ気味悪がられるだろうなと頭の隅で思う。だが、そんなことはどうでもよかった。
家まではあと十分ほどだ。両親はまだ帰っていない。郵便受けにはちらしが数枚入っているだけだろう。それでいい。あと少し、あと少しで、この退屈な日常は終わる。彼はアスファルトを蹴るようにして、家路を急いだ。
胸の奥で、何かがじわじわと熱を持ち始めている。それは決して純粋な期待だけではなく、もっと暗くて鋭利な、征服欲にも似た衝動だった。自分だけの、完璧な『彼女』。誰にも邪魔されず、誰にも見られることなく、すべてを支配できる世界。その鍵は、たった三日後に手に入る。