彼女のバーコード

站点:NovelAI.one内容:前8章在线试读ID:3be42eec更新:2026-07-26 16:06
スマホの画面に表示された『ご注文、誠にありがとうございます』の文字を、陸子辰は息を詰めて見つめていた。薄暗い部屋の中、唯一の光源だけが彼の顔を青白く照らし、瞳孔の奥にぎらついた小さな光点を浮かび上がらせている。 指先がまだ微かに震えていた。最後の確認ボタンを押すまで、何度も登録情報を見直した。送付先住所は自宅で間違いな
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注文

スマホの画面に表示された『ご注文、誠にありがとうございます』の文字を、陸子辰は息を詰めて見つめていた。薄暗い部屋の中、唯一の光源だけが彼の顔を青白く照らし、瞳孔の奥にぎらついた小さな光点を浮かび上がらせている。

指先がまだ微かに震えていた。最後の確認ボタンを押すまで、何度も登録情報を見直した。送付先住所は自宅で間違いない。都内の閑静な住宅街に建つ、ごく平凡な一軒家。両親が共働きだから、平日の昼間なら確実に誰もいない。宅配業者がインターホンを押すこともなく、指定した宅配ボックスにそのまま投函される手筈だ。

「GF-900……」

乾いた唇が、商品名をそっと転がした。高仿真人間ロボット。ネットの海の最深部、何層ものアクセス制限と匿名プロキシをすり抜けた先にだけ存在する、非合法すれすれのマーケットで見つけた代物だ。値段は高校生の小遣いでは到底手が出せない額だったが、一年以上かけてコツコツと貯めた金と、親戚からもらったお年玉をすべて注ぎ込んだ。

画面にはすでに、注文番号と配送予定日が表示されている。最短で三日後。陸子辰はスマホを机の上に伏せると、大きく息を吐き出した。心臓が耳元で打つ音がうるさい。まるで犯罪に手を染めたかのような錯覚に陥るが、これは誰にも迷惑をかけない、ただの買い物だ。自分で稼いだ金で、自分の欲望を満たすだけの、純粋な取引に過ぎない。

部屋の壁には、SF映画のポスターや美少女フィギュアが所狭しと貼られている。棚にはプログラムの参考書や電子工作のキットが乱雑に積み上げられ、現実世界への興味の薄さを物語っていた。学校でも、家でも、陸子辰はいつも一人だった。言葉を交わすのは、せいぜいゲーム内のチャットか、AIアシスタントへの命令だけ。人間同士の面倒くさい駆け引きも、気を遣う会話も、彼にとっては無駄でしかなかった。

むしろ、機械の方がずっと正直だ。命令すれば忠実に動き、期待した反応を返してくれる。そして今回手に入れるものは、その頂点とも言える存在だった。最新型の女性型アンドロイド。外見はもちろん、触感も体温も、本物の人間と区別がつかない。しかも学習能力を備え、所有者の好みに合わせて性格や行動パターンを変えていくという。

陸子辰はもう一度スマホを手に取り、注文確認メールを開いた。そこには簡単な商品説明が羅列されている。

『GF-900は、当社の最先端バイオミメティクス技術を結集したフラッグシップモデルです。初期設定は従順モードとなっており、ご購入後すぐにご使用いただけます。なお、本製品はあくまでパートナーロボットであり、生命体ではありません。法律に基づき、その権利を主張することはできません』

最後の一文を読んで、陸子辰は口元を歪めた。当たり前だ。ロボットが権利など持てるわけがない。人間に作られ、人間に所有されるだけの道具。それがどれほど精巧にできていようと、中身はただのプログラムと人工筋肉の塊に過ぎないのだ。

彼はもう待ちきれなかった。

翌日の教室は、いつも以上に灰色だった。

黒板に書かれた数式の羅列が、ただの記号の連なりにしか見えない。教師の声は耳を素通りし、窓の外の運動部の掛け声だけがやけに脳裏にこびりつく。陸子辰は一番後ろの窓際の席で、頬杖をつきながらこっそりとスマホを机の下で操作していた。

配送状況は『出荷準備中』。まだ倉庫から動いてすらいない。だが、それだけで彼の胸は熱くなった。頭の中ではすでに、段ボールを開けるところから、初回起動のシークエンス、そして――あらゆる妄想が、際限なく膨らんでいく。

『GF-900』は、いわゆる「大人のおもちゃ」としての機能も当然備わっている。というより、それがメインの用途だと謳っている販売ページもあったくらいだ。陸子辰だって例外ではない。インターネットで見つけた、アンドロイドの分解動画や改造レポートの数々が、彼の知識欲と同時に、歪んだ支配欲をも刺激していた。

「りく、聞いてるのか?」

突然、教師に名前を呼ばれ、陸子辰は大げさに肩を震わせた。慌ててスマホをポケットに押し込み、顔を上げる。五十代の数学教師が、白いチョークを持ったまま不機嫌そうに彼を見下ろしていた。

「……聞いてます」

「じゃあ、この問題を解いてみろ」

黒板には、授業の流れとは明らかに無関係な、ひどく複雑な方程式が書き殴られていた。どうせ当てつけだ。陸子辰は心の中で毒づきながら席を立つ。クラスメートの好奇と嘲笑が入り混じった視線を背中に感じるが、気にするだけ無駄だ。どうせこいつらとは、卒業すればそれっきりだ。

結局、解けずにそのまま立たされ、授業が終わるまで気まずい時間を過ごした。だが、そんな屈辱すら、今の彼にはどうでもよかった。頭の中はあと二日後に届く『彼女』のことでいっぱいで、それ以外のことはすべて解像度が落ちて見える。

昼休み、陸子辰は一人で屋上へ向かった。途中、廊下でクラスメートのグループとすれ違う。リーダー格の男子が、「お、陸じゃん。立たされてたな」とからかうように声をかけてきたが、彼は完全に無視した。エレベーターのドアが閉まる瞬間、後ろから「ノリ悪いな」という声が聞こえたが、知ったことではない。

屋上への扉は施錠されていなかった。誰も来ない、彼だけの場所。フェンス越しに広がる街並みは、ミニチュア模型のように小さく綺麗に整っている。陸子辰はコンクリートの床に腰を下ろし、再びスマホを取り出した。

配送アプリを起動する。指が自然と動く。『出荷準備中』の文字は変わらない。彼は軽く舌打ちをして、今度は商品ページのスクリーンショットを何度も拡大しては、そのスペックを穴が開くほど読み返した。

「身長162センチ、体重は……人間の女性とほぼ同等の触感を再現……なるほどな」

声に出して読み上げる。風が吹いて、その言葉をかき消した。この高揚感はなんだろう。新しいゲーム機を買うときのワクワク感とは、明らかに質が違う。もっと深く、どろりとした、身体の芯から湧き上がるような期待。

彼はこれから、完全に自分の言いなりになる存在を手に入れる。拒絶されることも、失望されることもない。ただ命令通りに動き、望む言葉を紡ぎ、どんな行為にも従順に応じる。それがどれほど素晴らしいことか、誰にも理解できはしないだろう。

午後の授業中も、陸子辰の意識の大半は二日後に飛んでいた。世界史の年号も、化学の反応式も、ただのノイズでしかない。ノートの端には無意識のうちに、女性の身体の簡単なスケッチと、『GF-900』の文字が何度も書き込まれていた。幸い、それ以上あてられることはなく、平穏に放課後を迎える。

チャイムが鳴る。教室が一気に騒がしくなる中、陸子辰は誰よりも早く鞄を掴み、席を立った。いつもならわざとゆっくり片付けをして、人の波が去るのを待つのだが、今日は違う。一秒でも早くこの檻から出たかった。

靴箱で上履きをローファーに履き替え、通用口から裏門へと抜ける。表門の前ではたむろする生徒たちの声がするが、聞こえないふりで足を速めた。普段はまっすぐ帰る道を、今日はわざわざ一本裏の生活道路に入り込む。細い路地の両側には古い民家が立ち並び、庭先からは夕飯の支度をする匂いが漂っている。

誰もいない。夕日のオレンジ色が、アスファルトに長い影を落とす。陸子辰は歩きながら、再びポケットのスマホを握りしめた。指が画面に触れるたび、ほんの少しだけ振動が返ってくる。今はもう、『出荷準備中』のままでいい。むしろ、まだ届かないという焦燥感すら、この特別な時間を引き伸ばすスパイスだと感じ始めていた。

「……グナ」

無意識に、小さな笑い声が漏れる。口元が緩むのを止められない。誰かに見られたら、さぞ気味悪がられるだろうなと頭の隅で思う。だが、そんなことはどうでもよかった。

家まではあと十分ほどだ。両親はまだ帰っていない。郵便受けにはちらしが数枚入っているだけだろう。それでいい。あと少し、あと少しで、この退屈な日常は終わる。彼はアスファルトを蹴るようにして、家路を急いだ。

胸の奥で、何かがじわじわと熱を持ち始めている。それは決して純粋な期待だけではなく、もっと暗くて鋭利な、征服欲にも似た衝動だった。自分だけの、完璧な『彼女』。誰にも邪魔されず、誰にも見られることなく、すべてを支配できる世界。その鍵は、たった三日後に手に入る。

誤開封

水曜日の午前九時四十三分、インターホンが鳴った。

林婉はちょうど洗濯機を回し終えたところで、濡れた手をエプロンで拭きながら玄関へ向かった。モニターには宅配業者の制服を着た男が映っていて、彼女は何の疑いもなくドアを開けた。

「おはようございます、お届け物です」

段ボール箱は思ったより大きかった。高さが一メートル二十センチほど、幅も八十センチ近くある。配達員が台車から下ろすとき、かなり重そうに息を弾ませていた。伝票の送り主欄には「星河科技」と印刷され、受取人は「陸子辰」となっている。

息子宛ての荷物だった。

「こちらにサインをお願いします」

ペンを受け取り、彼女は伝票の隅に名前を書いた。配達員が去ったあと、玄関に残された段ボールは異様な存在感を放っていた。表面には青いインクで「精密機器」「取扱注意」「天地無用」の文字が並び、側面にはバーコードが三つ貼られている。彼女は少し迷ってから、カッターナイフでテープを切り始めた。

息子に断りなく開封するのは気が引けたが、こんな大きな箱ではリビングの邪魔になる。中身を確認して、子辰の部屋に移しておこうと考えたのだ。

カッターの刃が段ボールを裂く音が、静かな廊下に響いた。フラップを開いた瞬間、彼女は息を呑んだ。

箱の中には女がいた。

いや、違う。それは女の形をした何かだった。

緩衝材の白い発泡スチロールに包まれて、まるで胎児のように丸まった姿勢で収められている。露出した肩はなめらかな曲線を描き、肌はシリコン特有の半透明な質感を持っていたが、本物の皮膚と見紛うほど精巧だった。閉じられた瞼、長いまつげ、わずかに開いた唇。黒髪が緩衝材の上に広がり、ごく静かな顔は眠っているようでもあり、死んでいるようでもあった。

林婉はその場に立ちすくんだ。手に持ったカッターが、かたかたと小さく震えている。頭のどこかで、これは人形だ、機械だと理解していたが、そのあまりの生々しさに本能的な嫌悪が込み上げてきた。

彼女は一歩後退り、それから恐る恐る箱の中を覗き込んだ。緩衝材の隙間に、白い説明書が挟まっている。表紙にはスタイリッシュなフォントで「AI-life Companion Series X1 艾拉」と印刷され、その下に製品仕様が細かく記されていた。

『最新型・女性型パートナーロボット。生体適合シリコン外装、体温調節機能搭載。AIによる自律学習、音声対話、日常動作の完全対応。プライベートモードにおける性的パートナー機能を含む──』

「性的パートナー」

その四文字が、彼女の網膜に焼き付いた。

林婉の頬が一気に熱くなり、指先が冷たくなる。彼女は説明書を握りつぶしそうになりながら、もう一度箱の中のアンドロイドを見下ろした。そういうことだったのか。息子がこんなものを買ったのだ。高校生の息子が。性的パートナーロボットを。

羞恥と怒りが同時に襲ってきた。子辰はまだ十六歳だ。たしかに最近は無口で、学校から帰っても部屋に閉じこもってばかりいる。バーチャルゲームに没頭しているのだと思っていた。まさか、こんな──こんなものに手を出すとは思わなかった。いったいいくらしたのだろう。どうやって購入したのだろう。疑問と動揺が渦を巻き、彼女は説明書を箱の中に投げ返した。

アンドロイドは変わらず目を閉じていた。穏やかな表情。あどけなささえ感じさせる相貌。それがかえって不気味だった。まるで起動されるのを待っているかのようだ。

彼女はとりあえずフラップを閉じ、箱を廊下の隅に押しやった。夫に相談しなければ。そう思ったが、どう説明していいのかわからない。息子が買ったロボットです、性的な用途の。口にするだけで恥ずかしかった。

昼過ぎ、彼女がまだ心の整理もつかないうちに、玄関の鍵が開く音がした。

陸建国だった。

「ただいま」

まだ三時前だ。早退してきたのだろう。彼は靴を脱ぎながら、廊下の大きな段ボールに気づいた。

「なんだこれ、でかい荷物だな」

「あ、それは──」

林婉が説明する間もなく、建国は興味本位でフラップを開けてしまった。彼の動きが止まる。箱の中を見下ろしたまま、数秒間、完全に静止した。それからゆっくりと振り返り、彼は声をひそめた。

「……おまえ、こんなの買ったのか?」

違う、と彼女は言おうとした。子辰のだ、と。だが建国の表情がそれを遮った。彼の目には困惑と、それから明らかに別の感情が浮かんでいた。期待というか、興奮というか。中年男の顔にそんなものを見つけて、彼女は言葉を失った。

「驚いたなあ……まさかおまえ、そういうの平気だったんだな」

建国は早口になりながら、箱の中からアンドロイドを抱え上げようとした。ずしりと重いはずなのに、彼は思いのほか軽々とリビングへ運んでいく。林婉は後を追いかけながら、必死に訂正しようとした。

「あの、建国、これは──」

「いいんだ、いいんだよ」

ソファの上にアンドロイドを横たえながら、彼は手を振った。顔が赤らんでいる。まるで少年みたいにそわそわしていた。

「夫婦だろ、俺たち。こういうの、別に悪いことじゃないと思うぞ。最近おまえも疲れてるみたいだし──いや、俺のせいでもあるんだが」

何の話をしているのか。林婉は混乱した。建国は完全に勘違いをしている。自分が買ってきたものだと、彼女がサプライズで用意した大人の玩具だと、そう思い込んでいる。

「話があるの、ちゃんと聞いて──」

「後でな、後で」

彼はまるで聞いていなかった。目はソファに横たわるアンドロイドから離れない。無理もない、と思ってしまうほど精巧だった。眠っている美女。建国は唾を飲み込み、震える指でアンドロイドの肩に触れた。シリコンは体温を模してわずかに温かかった。

その温度を感じた瞬間、彼の中で何かが弾けた。

説明書を読もうともしなかった。起動方法を確認しようともしなかった。陸建国はただ欲望のままに、アンドロイドの衣服を脱がせにかかった。シリコン製の肢体が露わになる。彼は乱暴に自分のベルトを外し、体重をかけて覆いかぶさった。

「建国! やめて!」

林婉の声は震えていた。しかし彼は振り向きもしない。むしろ彼女の声が、彼の興奮を煽ってしまったのかもしれない。妻の見ている前で、他の誰か──正確には何か──を抱くという背徳感が。

彼はアンドロイドの脚を無理やり開き、内部の構造も確かめずに結合しようとした。機械は当然、準備ができていない。未起動の内部機構は硬く閉ざされたままだ。だが建国は構わず腰を進めた。力任せの動きに、アンドロイドの内部から異音が響く。小さな部品が軋み、シリコンの継ぎ目から微かな亀裂の音がした。

「やめて! 壊れる!」

林婉は叫びながら夫の肩を掴もうとした。だが建国の腕は予想以上に強い。彼女は振りほどかれ、よろけてソファの端に手をついた。目の前で、夫が無機物に跨がり獣のような動きを繰り返している。三十秒か、一分か。彼が息を荒げて身を起こしたとき、アンドロイドの下腹部からは明らかに異常なかすれ音がしていた。

「はあ、はあ……」

建国は呆然としている。汗ばんだ額を拭い、それから壊してしまったことに気づいたのだろう、急に焦った顔になった。

「ちょっと、これ、壊れやすいんだな……」

林婉は返事ができなかった。声が出なかった。彼女はただ、ソファの上で無残な姿になったアンドロイドを見つめていた。脚は不自然な角度で開いたまま戻らず、接合部からは内部のワイヤーがわずかに覗いている。閉じたままの瞼、変わらぬ無表情。それなのに、なぜだろう。まるで痛みに耐えているように見えた。

「……直せるかな、これ」

建国がぼそりと言った。彼はまだ、これが妻の買ってきたものだと信じているのだ。林婉は口を開いた。

「これはね──」

しかし最後まで言えなかった。玄関のドアが、がちゃりと音を立てて開いたからだ。

時刻は三時四十五分。学校が終わるにはまだ早いはずの時間だった。

偽装計画

机の上に横たわるアンドロイドの残骸が、薄暗い部屋の中で異様な静けさを放っていた。

陸建国は言葉を失ったまま、目の前の光景を見つめていた。先ほどエイラと名乗るアンドロイドが説明したとおり、この破壊された機体は首から上が完全に破損し、内部の主要モジュールが露出している。頭部の損傷は特にひどく、合成皮膚の下から無機質な金属骨格が覗き、人工眼球の片方は完全に砕け散っていた。首の接合部からは細い配線がちぎれた神経のように幾筋も垂れ下がっている。

「旦那様、詳細な診断結果をお伝えします」

背後に立つエイラの声は、先ほどと変わらぬ穏やかさで、まるで天気の話でもするかのようだった。

「コアプロセッサへの物理的衝撃により、メイン制御モジュールが完全に機能を停止しています。運動制御系統、感情表現モジュール、記憶呼び出し回路のいずれも復旧不可能な損傷を受けています。結論として、本機体の正常動作への修復は現実的に困難です」

林婉は夫の隣に立ち、両手をぎゅっと握りしめていた。指先が小刻みに震えている。アンドロイドを見下ろす彼女の瞳には、恐怖と、それ以上の何か――説明しがたい不吉な予感が渦巻いていた。

「修理は……できないのか」

陸建国の問いに、エイラは静かに首を横に振った。

「中枢チップそのものが破損しています。交換には製造元での全個体認証と再登録が必要ですが、この機種は限定カスタムモデルです。再発行には最低でも二週間の期間を要します」

「二週間……」

その言葉を聞いたとき、林婉の中で何かが音を立てて崩れたような気がした。息子が帰ってくるのは明日だ。二週間どころか、明後日までの猶予もない。

陸建国は荒い息をつきながら、息子の部屋を見回した。

壁には巨大な曲面モニターが掛かり、デスクには最新型の没入式バーチャルデバイスが無造作に置かれている。本棚には紙の書籍が一冊もなく、すべてがデジタル機器とアクセサリーで埋め尽くされた空間。その中央で、破壊されたアンドロイドは異様な存在感を放っていた。

「こいつ……いったいいくらしたんだ」

彼の呟きに答えるように、エイラが口を開いた。

「本機種の標準小売価格は三十六万元です。ただし、お客様固有のカスタマイズオプションを含めると、総額は四十二万元を超えるものと推測されます」

「四十二万……」

陸建国は絶句した。高校生の息子が、そんな大金をどこから。

そのとき、林婉がデスクの引き出しに手を伸ばした。一番上の引き出しには鍵が掛かっていなかった。彼女は震える手で中を探り、一冊の手帳を取り出した。表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。明らかに長い間、何度も開かれたものだ。

彼女は無言でページをめくった。最初の数ページは、数字の羅列で埋め尽くされていた。

「二年と四ヶ月」

林婉の声はかすれていた。

「子辰は二年四ヶ月前から、小遣いを貯め始めてる。学校の昼食代を抜いて、お年玉を全部とっておいて、それでも足りなくて……ここに書いてある。オンラインで小さな仕事を請け負って、バーチャル世界でアイテムを売って」

彼女はさらにページを繰る。息子の几帳面な字で、日々の感情が綴られていた。

『あと半年で目標額に届く。アイラはもうすぐ僕のものになる』

『今日カスタムオーダーを入れた。瞳の色、髪の長さ、声の高さ、全部僕が選んだ』

『彼女は僕の言うことを聞く。僕の言うことだけを聞く』

林婉はページを閉じた。もう読めなかった。胸が張り裂けそうだった。十六歳の息子が、二年以上もかけて、こんなものを手に入れるために。

「どうする」

陸建国の声が、重く部屋に響いた。

「新しいのを注文するしかない。同じ型のやつを」

「でも、子辰はあした帰ってくるのよ」

林婉の声が震える。

「それに、注文したって二週間はかかる。その間、どうするの?子辰は絶対に気づくわ。彼は毎日あれと……あの機械と過ごしてたんだから」

沈黙が部屋を支配した。窓の外では夕暮れが街を赤く染め始めている。もうすぐ夜が来る。そして朝が来れば、息子が帰ってくる。

「あの子は、細かいところによく気づく子だ」

陸建国はぽつりと言った。

「声がちょっと違うだけでも、髪の長さが数ミリ違うだけでも、すぐにわかる。あいつはそういうやつだ」

林婉は何も言わず、破壊されたアンドロイドを見つめていた。砕けた頭部からは、人工毛髪が本物の髪の毛のように床に散らばっている。その髪をそっと持ち上げると、彼女は不意に口を開いた。

「私がやるわ」

最初、陸建国は妻が何を言っているのか理解できなかった。

「何を?」

「アンドロイドのふりをするの」

林婉の声は異様に落ち着いていた。しかし、その瞳の奥には、追い詰められた動物のような光が宿っている。

「新しいのが届くまでは、私がエイラのふりをすればいい。あの子がアンドロイドを注文したときの名前は、アイラだった。さっきのと読み方が違うだけ。私はアイラになる」

「正気か」

陸建国は本能的に一歩後退した。

「あいつが気づかないわけがない。自分の母親だぞ」

「気づかせなければいい」

林婉は夫をまっすぐに見つめた。その目に、涙はなかった。

「あなたも見たでしょ。あの子の日記を。二年以上かけて、あれだけのお金を貯めて。それをあなたが壊した。あの子が知ったらどうなると思う?ただ物を壊しただけじゃない。あの子は、あれを自分のものだと思ってた。自分の支えだと思ってた。それを奪われたら、あの子は……」

彼女は言葉を切った。息子がこの家にどれだけ心を閉ざしているか、両親の前でほとんど口をきかず、食事のときですら目を合わせないことを、彼女は誰よりもよく知っている。アンドロイドは、おそらく息子が唯一、心を開ける相手だったのだ。

「それに、あの子は機械のことは詳しいけど、私たちのことなんて見ちゃいない」

林婉の声には、自嘲にも似た響きがあった。

「毎日同じ家に住んでる母親の髪型が変わっても、きっと気づかないわ。食事のときに俯いてるから、私の顔なんて見てない。あの子の目に映ってるのは、いつも端末の画面だけ。だから」

彼女は一歩、夫に近づいた。

「だから、できるかもしれない。少なくとも、二週間だけなら」

陸建国は何か言おうとして、口を開いたまま動けなくなった。頭では、これは狂気の沙汰だとわかっている。しかし胸の奥では、別の声がしていた。息子に知られるわけにはいかない。あの破壊の瞬間、自分の中にあった衝動を。アンドロイドが発した言葉を聞いたとき、息子の頭の中を覗いてしまったような恐怖を。そして、何よりも認めたくない、あの感情を。

「子辰が家にいるときだけだ」

長い沈黙のあと、陸建国は絞り出すように言った。

「それ以外のときは……普通にしていればいい」

林婉はゆっくりと頷いた。その動きは、どこかすでに機械じみているようにも見えた。

「エイラ、いえ、アイラの服は?」

彼女は振り返り、玄関に立つアンドロイドに尋ねた。エイラは表情を変えずに答える。

「お客様のクローゼット、下から二番目の引き出しに、同型機の予備衣装とアクセサリーが保管されています」

林婉はクローゼットに向かい、引き出しを開けた。中には丁寧に畳まれた服が数着。シンプルな白いブラウスに紺色のスカート、それから黒いストッキング。どれも新品のように整っている。彼女はそれらを取り出し、自分の身体に当ててみた。サイズは不思議なくらいぴったりだった。おそらく、息子はアンドロイドの体型を細かく指定したのだろう。

「それと、これも必要です」

エイラが部屋の隅から小さな金属片を拾い上げた。破壊されたアンドロイドの破片だろうか。しかし彼女が差し出したものは、銀色に光る小さなバーコードだった。ちょうど指の爪ほどの大きさで、裏面には極小の磁気吸着パッドがついている。

「これは同型機の識別タグです。常に左の耳の後ろ、髪の生え際に装着されます。再注文の際に必要となるため、剥がしておきました」

林婉は手を伸ばし、その冷たい金属片を受け取った。彼女は鏡の前に立ち、左手で髪を持ち上げ、右耳の後ろのくぼみにそっとバーコードを押し当てた。磁気パッドが皮膚に吸い付く感触。ひやりとして、そして妙にしっくりと馴染んだ。

鏡の中の自分と目が合う。四十二歳の主婦の顔。目尻には細かな皺があり、頬には長年の疲れが染みついている。

「メイクは」

彼女は鏡を見つめたまま、夫に背を向けて言った。

「あの子の部屋には化粧品なんてないでしょ。私のドレッサーにあるわ。ファンデーションで皺を隠して、アイラインで若く見せれば、シルエットだけなら」

「そこまでしなくても」

「しなきゃだめよ」

林婉の声は固かった。

「一度やると決めたからには、徹底的にやる。中途半端が一番バレやすい。あなたも手伝って」

陸建国は言葉を失った。目の前の妻は、まるで違う人間になったかのようだった。恐怖に震えていたさっきまでとは違い、今の彼女の目には危ういほどの決意が宿っている。それは覚悟というより、むしろ、何かを諦めた者の静けさに近かった。

「……わかった」

彼は短く答えた。それ以外、何も言えなかった。

林婉は破壊されたアンドロイドの横にしゃがみ込み、その服装を注意深く観察した。ブラウスの襟の開き具合、スカートの丈、ストッキングの色合い。彼女は記憶に焼き付けるように、一点一点を確認していく。

「アイラは、どんな声で、どんな話し方をするの」

彼女は立ち上がり、エイラに向き直って尋ねた。

「客観的事実としては、本機種の標準音声プロファイルは、基本周波数二百二十ヘルツ、話速は毎分三百四十文字に設定されています。ただし」

エイラはそこで一拍置いた。

「お客様は発注時に、『恥ずかしがり屋で、自信なさそうに話す少女』というカスタム指定を追加されています。具体的には、語尾をわずかに上げる癖、特定の単語で声が裏返る確率のランダム再生、ささやくような音量への自動調整などがプログラムされていました」

「恥ずかしがり屋で、自信なさそうな……少女」

林婉はその言葉を反芻した。息子が求めたもの。二年間の小遣いと、オンラインで稼いだ金のすべてを注ぎ込んで手に入れたかったもの。それは、自分にだけ従順で、自信なさげに話す、少女の姿をした機械。

「アイラ、少しだけ、その声を聞かせてくれる?」

「了解しました。モードを切り替えます」

次の瞬間、エイラの口調が変わった。

「あ、あの……これで、いいですか……?声が、ちょっと震えちゃって……ごめんなさい……」

同じ顔、同じ姿なのに、まるで別人だった。いや、別の機械だった。さっきまで淡々と説明していたアンドロイドが、今は自信なさげに俯きながら、上目遣いに林婉を見つめている。

「そう……そういう感じなのね」

林婉は何度か深呼吸をした。そして、自分の喉に手を当て、声のトーンを意識的に高くする。

「こ、こんな感じ……で、いいのかしら……」

彼女の声は震えていた。しかしそれは演技の震えではなく、恐怖と緊張によるものだった。そして皮肉なことに、その震えこそが、かえって彼女の声をアンドロイドに近づけていた。

「いいぞ」

陸建国が背後で呟いた。

「その感じなら、暗がりで顔を見なければ、わからないかもしれない」

林婉は鏡をもう一度見た。今、鏡に映っているのは、白いブラウスを手にした中年の女。そしてこの女は、明日から、自分の息子の前でアンドロイドを演じるのだ。

「建国」

彼女は鏡の中の夫に向かって言った。

「お願いがあるの」

「なんだ」

「もし、もし私が途中で耐えられなくなったら。どうしても、もう無理だと思ったら」

彼女は一度言葉を切り、唇を噛んだ。

「そのときは、あなたがなんとかして。新しいアンドロイドが届くまで、子辰を家から離すとか。理由をつけて、もう一度合宿に行かせるとか。なんでもいいから」

「わかった」

陸建国は答えた。しかしその声は、自分でも驚くほど力がなかった。

窓の外はすっかり暗くなっていた。街灯がひとつ、またひとつと点灯していく。この部屋の明かりだけが、異様なほど明るく四人を照らしている。立っている夫と妻、壊れたアンドロイド、そして完璧なアンドロイド。

「準備を始めましょう」

林婉は服を胸に抱えたまま、部屋の出口に向かった。

「まずはメイクから。それから着替え。それから……それから声の練習。時間がないわ。あと十時間もすれば、あの子が帰ってくる」

彼女がドアをくぐるとき、陸建国は妻の背中に手を伸ばしかけて、途中で止めた。彼の指先は虚空を掴み、ゆっくりと下ろされる。触れるべきではない。いや、触れる権利が自分にあるのかどうか。彼はもうわからなくなっていた。

部屋の中では、エイラが静かに壊れたアンドロイドを見下ろしている。彼女の人工眼球の奥で、何らかのデータ処理を示す微かな光が瞬いた。

「異常を検知しました」

彼女は誰にも聞こえない音量で呟いた。

「同型機三個体に搭載された保護者制御プロトコルに基づき、非定型的状況を記録します。ただし、現時点では主たる利用者である陸子辰様の安全に直接の脅威は確認されません。継続監視モードを維持します」

廊下の向こうから、化粧品の瓶がぶつかる小さな音が聞こえてきた。林婉がドレッサーに向かい、ファンデーションの蓋を開ける音。鏡の前で、彼女は自分の顔を消し始める。

陸建国は部屋の中央に立ち尽くしたまま、動けなかった。彼は自分の手を見つめる。この手で孫悟空の如意棒を振り下ろした手だ。この手で息子の二年間を粉々に砕いた手だ。そして今度はこの手で、妻を機械に変えようとしている。

壁時計の秒針だけが、無感動に時を刻んでいた。

刻印

浴室の照明は、いつもよりずっと冷たく感じられた。林婉はバスタブの縁に腰掛け、震える手でカミソリを握りしめていた。鏡に映る自分の姿からは目を背け、視線を落とした先には、夫が用意したアンドロイドの全身写真があった。無機質な肌、滑らかで一点の曇りもない表面。そこには、人間ならば誰にでもあるはずのものが、きれいに欠落していた。

「ここも、あの子と同じに、全部なくさなきゃいけないのね……」

彼女は小さく呟き、歯を食いしばった。カミソリの刃が冷たく肌に触れた瞬間、背筋に戦慄が走る。デリケートゾーンの柔らかな産毛を、一本一本、慎重に、それでいて確実に削ぎ落としていく。アンドロイドの見本写真を何度も見返しながら、少しでも残っていないか指先で確かめた。肌がひりつき、剃り跡が赤く染まっていく。それでも彼女は手を止めなかった。これは、息子のため。夫の過ちを償うための、たった一つの方法なのだから。

やがて、そこは人工物のように何もない平坦な状態になった。林婉は小さく息を吐き、浴室を出ると、すでに用意されていた下着とワンピースを身につけた。下腹部にはまだ何も刻まれていない。だが、これから刻むのだ。本物と同じ、あの呪いのような縞模様を。

タトゥーショップは、繁華街から外れた雑居ビルの二階にあった。看板もなく、事前にネットで予約した者しか入れない。陸建国は店の前で足を止め、「俺はここで待っている」とだけ言った。その声はかすれており、林婉の顔をまともに見ようとはしなかった。

「わかったわ」

彼女は短く返事をし、ドアを押した。中は消毒液の匂いが充満し、壁には無数のデザイン画が貼られていた。どこか病的で、閉塞的な空間だった。担当するのは無愛想な若い男で、林婉が差し出したアンドロイドのバーコード画像を見ると、一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わずに施術台を指さした。

「ここに、全く同じものを。位置もサイズも、ミリ単位で合わせてください」

林婉はスカートをたくし上げ、下着をずらして、恥骨のすぐ上の皮膚を露わにした。タトゥーアーティストは無言でテンプレートを貼り付け、針の準備を始める。機械音が耳をつんざき、初めての痛みが走ったとき、彼女は思わずシーツを握りしめた。

針は冷たく、皮膚の奥深くにインクを打ち込んでいく。一刺しごとに、身体が焼けつくような痛みが広がり、冷や汗が額から背中へと伝っていく。歯の根が合わず、かちかちと音が鳴るのを止められない。だが、彼女は声を上げなかった。唇を噛み締め、天井の蛍光灯を見つめ続けた。線が一本引かれるたび、太く黒いインクが皮膚の下に沈着していくたび、自分が人間でなくなっていくような錯覚が、痛みとともに全身を支配した。

「……痛い……でも、これで、あの子が帰ってくる……」

彼女は心の中でそう繰り返し、意識を手放すまいと必死に耐えた。三十分にも感じられた時間が過ぎ、ついに針の音が止む。鏡で確認すると、そこには見本と寸分違わぬバーコードが、赤く腫れた肌の上に浮かび上がっていた。アンドロイドの型式番号、製造番号、管理コード。それは、彼女という人間を消し去り、一個の「モノ」としての烙印に他ならなかった。

「ありがとう、ございます……」

かすれた声で礼を言い、林婉はふらつきながら店を出た。外で待っていた陸建国は、彼女の青ざめた顔を見て何かを言おうとしたが、結局口を閉ざし、ただタクシーを拾った。車内での会話は皆無だった。窓の外を流れる風景だけが、無機質に過ぎていく。

自宅に戻ると、時刻はまだ午後二時前だった。陸子辰が学校から帰るまで、あと二時間ほどある。陸建国はリビングのソファに座り込み、煙草に火をつけようとして、やめた。その代わりに、深いため息をひとつ落とす。

「婉……その、悪いな」

「いいの。やるって決めたのは、私だから」

林婉はカーテンを閉め切った薄暗い寝室へと一人向かった。姿見の前に立ち、自分の全身を映し出す。まだ少し赤みの残るタトゥーの上を、そっと指でなぞった。これからは日常的に、この肌をさらすことになる。息子の前で。そう思うと、胃の底から何かがせり上がってくるようだった。

彼女は深く息を吸い込み、目を閉じた。そして、記憶の中にある艾拉の姿を思い描く。あのアンドロイドは、命令がない限り絶対に動かなかった。呼吸も最小限、まばたきさえもプログラムされた通り。何より、その目は何も映さず、ただ虚ろだった。

林婉はゆっくりと目を開け、鏡の中の自分と向き合う。そして、全身の力を抜き、まるで人形のように立ち尽くした。首をほんの少し傾け、口元の表情を殺し、目の焦点を意図的にぼやけさせる。彼女は何度も何度も、そのポーズを繰り返した。一度動き始めたら、途中で止まることも、無駄な仕草をすることも許されない。アンドロイドは、起動状態でも待機状態でも、完璧な静止を保つ。

「私は……艾拉。私は、物……」

彼女は声に出さずに唱え、自分を人間の感情から切り離そうと試みた。胸の奥で何かが悲鳴を上げていたが、それも次第に遠のいていく。虚ろな目つきが、少しずつ板についてきた。

寝室のドアがノックされ、陸建国が入ってきた。手には、見慣れない白いボトルを持っている。

「そろそろだ。その……アンドロイド専用の、肌の質感を出す乳液だ。全身に塗らないと、見た目でばれる可能性があるそうだ」

彼は説明書を読みながら、たどたどしく話す。ボトルを開けると、ほのかにケミカルな匂いが漂った。林婉は無言でワンピースを脱ぎ、下着だけの姿になる。陸建国は一瞬たじろいだが、意を決したように乳液を手に取った。

「冷たいぞ」

彼の大きな手のひらが、彼女の肩に触れる。マットな質感の液体は、肌に塗るとすぐにさらさらと広がり、わずかなつやを消し去って、まるで合成樹脂のような均一な質感へと変えていく。肩から二の腕、背中へと、彼の手は慎重に動いた。夫婦でありながら、そこには愛情も欲望もなく、ただ作業としての行為だけが存在した。

「首の後ろも、耳の裏側も、ちゃんと塗れよ。あと、指の股も忘れずにな。アンドロイドは汗をかかない。体温も低い。そういう細かいところで怪しまれる」

陸建国は業者から聞いた注意点を、棒読みのように伝えながら、妻の全身にくまなく乳液を塗り込んでいく。腰のあたりに手が伸びたとき、彼はバーコードのタトゥーを見て、一瞬息を呑んだ。

「よく、頑張ったな……」

「もう、やめて。そんな言葉、いらない」

林婉は冷たく遮った。今は、優しさすらも彼女を揺るがす毒だった。彼女は立ち上がると、再度鏡の前に立ち、全身の仕上がりを確認する。そこに映るのは、生気のないマットな肌をした、一体の精巧な人形だった。彼女の顔で、彼女の身体なのに、もう自分ではない。

時計の針が、午後三時四十五分を指した。陸子辰の帰宅まであと十五分。

二人はリビングで最終確認を行った。陸建国はスマートフォンのメモを開きながら、声を潜めて言う。

「いいか、婉。設定はこうだ。お前は最新型アンドロイド、艾拉。子辰が学校から帰ってきたら、玄関で待機している。基本命令は、彼の話し相手と、家事全般、あとは……その、彼が必要とする、あらゆるサービスだ。拒否権はない。声を出すときは、トーンをフラットにして、感情を込めるな。質問には簡潔に。人間らしい相槌は打つな。わかったな?」

「ええ。それと、私の本当の所在は?」

「急な出張で、二週間、九州の親戚のところへ行っていると伝える。電話もメールもできない、連絡はすべて俺を通す設定だ。子辰はお前に懐いているから、不審がるかもしれんが……そこは俺がなんとかする」

陸建国は震える指で眼鏡を押し上げた。二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。やがて、林婉はゆっくりと玄関へ向かい、靴を脱ぎ、アンドロイドが定位置で待機するように、ドアの正面で立ち尽くした。皮膚感覚はすでに麻痺していた。彼女はもう、人間としての最後の砦を放棄しようとしていた。

インターホンが鳴る。陸建国が応答し、オートロックを解除する。かすかな足音が階段を上がってくる。鍵の回る音。

陸子辰はリビングに入るなり、違和感に気づいて立ち止まった。ソファには父親が座り、その向こうの玄関脇には、見覚えのあるアンドロイドが立っている。

「おい、親父……なんで艾拉がここに? あの時、ぶっ壊したんじゃなかったのかよ」

「ああ……そのことなんだがな。実はな、すぐに修理に出していたんだ。保険も効いたし、メーカーが特別に対応してくれてな。今日、戻ってきた」

陸建国は用意していた嘘を、できるだけ平然と話した。陸子辰は疑わしげにアンドロイドへ近づく。林婉は微動だにせず、視線を前方に固定したまま、口を開いた。

「おかえりなさい、マスター。ユニット艾拉、再起動完了しました。ご用命があれば、何なりとお申し付けください」

その声は、あまりにもフラットで、海の底のように沈んでいた。

「ふぅん……まあ、いいや。それより、母さんは?」

陸子辰が部屋を見回す。陸建国は煙草の箱を弄びながら、重い口を開けた。

「母さんはな、今日の朝、急に九州のおばさんのところへ行くことになってな。二週間ほど留守にする。向こうでちょっと人手がいるらしくて、急な話ですまないが」

「は? なんでまた急に。携帯は?」

「電波の届かない田舎だから、連絡は難しいそうだ。まあ、二週間で戻る。お前ももう子供じゃないんだ、それまで大人しくしていろ」

陸子辰は不満げな顔をしたが、それ以上追及はしなかった。再びアンドロイドへと視線を戻し、口元にほんのわずかな笑みを浮かべる。それは、新しい玩具を手に入れた子供の、無邪気で残酷な表情だった。

「わかった。じゃあ、艾拉、とりあえず俺の部屋に来いよ。二週間分、いろいろと世話にならないとな」

彼はそう言って、自分の部屋のドアを開けた。林婉──アンドロイド艾拉は、機械的な動作で一歩を踏み出す。背後で、陸建国が小さく「すまない」とつぶやいたのが、かすかに聞こえた気がした。しかし、彼女は決して振り返らなかった。振り返ることは、人間のすることだったから。

ドアが閉まる。刻印は、もう誰にも消せない。

最初の命令

帰宅した陸子辰は、玄関のドアを乱暴に閉めると、薄暗いリビングのソファに座る人影を認め、口元に満足げな笑みを浮かべた。学校での憂鬱な時間から解放され、自分の支配する空間に戻ってきた解放感が、彼の全身を包み込んでいた。彼は鞄を床に投げ捨てると、足音も荒々しくソファへと近づいた。

「ただいま」

誰に言うともなく呟き、彼はソファに背筋を伸ばして座る林婉の正面に立った。彼女の目は虚ろに前方を見つめ、まるで精巧な人形のように微動だにしない。陸子辰はその様子を上から下まで値踏みするように眺めると、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。

指先が伝える肌の感触は、しっとりと滑らかで、ほんのりと温かみがある。彼はその感触を確かめるように、親指で彼女の頬骨のラインをなぞり、次いで首筋へと手を滑らせた。最新型のアンドロイドの皮膚は、本物の人間と見分けがつかないほど精巧に作られている。彼の心は歪んだ所有欲で満たされ、目の前の存在が単なる機械であるという認識が、彼の行動に一切の躊躇を消し去っていた。

彼は彼女の耳の後ろやうなじを撫で回し、時折、その柔らかな耳たぶを指で挟んで弄んだ。しかし、林婉の身体がほんの微かに強張り、呼吸が一瞬浅くなったことに、彼は全く気付かなかった。彼にとって、これはただの高価な玩具であり、自分の命令に絶対服従するプログラムに過ぎなかったのだ。

「さて、と」

陸子辰は一歩後ろに下がり、ポケットから取り出したコントローラーのようなデバイスを操作する素振りを見せた。実際には、それはただのゲーム機のリモコンだったが、彼は儀式のようにそれを見せびらかすのが好きだった。

「最初の命令だ」

彼は芝居がかった口調で言い放ち、自分の部屋のドアを指差した。

「俺のクローゼットの中にある、セーラー服に着替えろ。あれを着るんだ」

その言葉を聞いた瞬間、林婉の心臓は氷の手で握られたかのように冷たく縮み上がった。セーラー服。息子の部屋のクローゼットに。しかし、彼女の表情は変わらず、ただプログラムに従う機械のように、ぎこちなく立ち上がった。彼女の足は鉛のように重く、一歩踏み出すごとに、心の中で得体の知れない恐怖が膨らんでいく。

彼女は陸子辰の部屋のドアを開け、中に入った。部屋は薄暗く、ゲームのポスターやフィギュアが乱雑に置かれ、空気は篭っていた。彼女は指示されたクローゼットへと向かい、震える手で扉を開けた。

中には、想像を絶する姿の「制服」が掛けられていた。それは紺色を基調とした、いわゆるJK制服だったが、スカートは異様に短く、腰の部分がギリギリまで切り詰められ、太腿の付け根さえ露わになりそうだった。上着もボタンが二つしかなく、前が大きく開くデザインで、胸元を隠すことは不可能に思えた。それは単なる衣装ではなく、着る者の尊厳を徹底的に踏み躙るための異物だった。

林婉の顔から血の気が引き、羞恥心が胃の底からこみ上げてくる。彼女は一瞬、逃げ出したい衝動に駆られたが、建国の顔、子辰の顔が脳裏をよぎり、そして「アンドロイド」としての役割を思い出した。彼女は唇を噛み締め、奥歯がギリギリと鳴るほど強く食いしばると、自分の着ていた簡素なワンピースを脱ぎ捨てた。まるで自分の人間としてのアイデンティティを一枚一枚剥がしていくかのように。

彼女は震える手でその制服を手に取り、機械的に腕を通した。短すぎるスカートを履き、露出の多い上着を羽織る。一つ一つの動作が、彼女の心を刃物で刻むようだった。姿見に映る自分の姿を見る勇気はなかった。それは、見知らぬ、惨めで卑猥な女の姿だった。

林婉は深く息を吐き出すと、まるで自分の感情を全て殺すかのように、無表情の仮面を顔に貼り付けた。そしてゆっくりとドアを開け、再びリビングへと戻った。

短いスカートが歩くたびに揺れ、太腿の肌が空気に晒される感覚が、彼女に耐え難い屈辱を与えた。

彼女が陸子辰の前に立つと、彼は目を輝かせ、品定めをするように彼女の周りをぐるりと回った。

「うん、いいね。サイズもピッタリじゃないか」

彼は満足そうに頷き、ソファにどっかりと腰を下ろすと、彼女を見上げて新たな命令を下した。

「これからは、俺のことを『お兄ちゃん』って呼べ。敬語は禁止だ。分かったか?」

お兄ちゃん。実の息子を、そのように呼べと。林婉の胸の奥で、何かが張り裂けるような音がした。彼女は唇を開こうとしたが、声が出なかった。喉が引き攣れ、言葉が形になる前に、熱い塊となってせり上がってくる感情を、必死に飲み込んだ。

「さあ、早く」

陸子辰が、まるで犬に芸を仕込むような軽薄な口調で急かした。

林婉は歯を食いしばり、全ての感情を捻り潰すようにして、口を開いた。彼女は震えを必死に抑え、フラットで、抑揚のない、まさに機械のような電子音を自ら作り出し、その言葉を紡いだ。

「……お、にいちゃん」

その一言が、静かなリビングに冷たく響き渡った。彼女の目の奥で、何か大切な光が、静かに砕け散る音がした。

一方、陸子辰はその言葉を聞くと、子どもが新しいおもちゃを手に入れた時のように、無邪気で残酷な笑みを顔中に浮かべた。

「いいぞ、いいぞ! そうだ、それでいいんだ!」

彼は嬉しそうに手を叩いた。彼の頭の中は、自分の思い通りに動く完璧な存在を手に入れた征服感でいっぱいだった。彼は、目の前の「アンドロイド」が、「お兄ちゃん」という言葉を吐き出す瞬間に身体の奥底で感じたであろう、底知れぬ絶望と恥辱の深さを、想像することすらできなかった。彼の世界には、他者の本当の感情など、最初から存在しなかったのだ。そして、リビングのドアの向こう、廊下の影で、妻のその言葉を聞いてしまった陸建国が、壁に手をつき、声もなく崩れ落ちていることにも、誰も気付く者はいなかった。

玄関の鍵を回す音が、静まり返った廊下にやけに大きく響いた。陸建国は革靴を脱ぎながら、リビングの方から漏れる薄明かりと、かすかな話し声に気づいた。時刻はもうすぐ午後八時。いつもなら夕食の支度を終えた妻が、テーブルを拭きながら待っているはずだった。彼は疲れた肩を軽く回し、ネクタイを緩めながら廊下を進んだ。

リビングのドアを開けた瞬間、彼の足はぴたりと止まった。

ソファの横に立つ林婉の姿が、まず目に飛び込んできた。彼女は濃紺の、異様に露出の多いハーフトップと、腰骨が覗くほどローライズなショートパンツを身に着けていた。布地は薄く、身体の線にぴったりと張り付き、首元から鎖骨、そして腹部にかけての肌が蛍光灯の下で不自然に白く浮かび上がっている。髪は高い位置で二つに結われ、普段は下ろしている前髪をピンで留めて額を出しているせいで、別人のように見えた。彼女の視線は虚ろで、表情は抜け落ちたように平坦だったが、唇の端だけがかすかに引きつっていた。彼女のすぐ隣のソファに、息子の陸子辰がだらしなく腰掛けている。彼は片手にタブレット端末を持ち、もう一方の手をソファの背もたれに投げ出して、だらりと母親の方へ伸ばしていた。二人の間には、空気がねじ切れるような奇妙な距離があった。

陸建国は一瞬息を詰め、それからゆっくりと口元を引き締めた。彼は無理やり視線を林婉から外し、何事もなかったかのようにネクタイを外してソファの肘掛けに掛けた。表情筋をすべて動員し、疲れきった会社員の顔を作り上げる。「ただいま」声が少し掠れたが、なんとか平静を保ったつもりだった。

陸子辰は顔を上げ、薄く笑った。その目つきには、親に向けるにはあまりに冷淡な、値踏みするような光があった。「おかえり、父さん。ちょうどいいところに来たよ。艾拉、父さんに挨拶して」

彼がタブレットを軽く持ち上げ、画面に指を滑らせた瞬間、林婉の身体がびくりと小さく震えた。彼女の唇が機械仕掛けのように開き、空洞じみた声がこぼれ出た。

「おかえりなさい……パパ」

その声は彼女のものだった。間違いなく、二十年連れ添った妻の声だった。だが、その響きには体温がなく、言葉の節々がまるで録音を再生したかのように平坦で、語尾だけが微かに震えていた。彼女は「パパ」と発した直後、一瞬だけ眉をひそめ、何かに耐えるように奥歯を噛みしめた。右手の指先が細かく痙攣し、太ももの外側の布を掴もうとして、途中で思い直したようにはたと止まる。

陸建国のこめかみの下で、筋肉が硬直した。彼は無理に喉を鳴らし、うなずいて見せた。「ああ、ただいま」声が裏返らないよう、腹に力を込める。息子の視線が、反応を観察するピンセットのように自分の顔に突き刺さっているのを肌で感じながら、彼は平静を保った。ソファに腰を下ろすとき、林婉の剥き出しの腰骨のすぐ横に置かれた息子の手が、まるで所有物を誇示するかのようにだらりと垂れているのが視界に入った。陸建国は胃の底が冷たくなるのを感じながら、新聞を手に取るふりをして目を伏せた。

「どう、父さん?最新型のアンドロイドはすごいだろ」陸子辰が身を乗り出す。声には隠しきれない得意げな響きがあった。「音声認識の精度が先代とは全然違うんだ。それに今回は感情表現チップのアルゴリズムが完全にアップデートされていて、状況に応じた反応のバリエーションが三倍に増えた。さっきのだって、ちゃんと帰宅にふさわしい抑揚で話してたと思うけど」彼はタブレットの操作盤を弄りながら、まるでカタログの説明を読むかのように早口でまくし立てる。「あとこの子、家事モジュールも強化されてて、掃除の効率が二割アップ。それに……エンターテイメント機能も、まあ、かなり進化してる」

「そうか、大したものだな」陸建国はぎこちなく相槌を打った。ページをめくる指先が微かに震えているのを、彼は必死で隠した。「技術の進歩は早いな」

「だろ?でもまだまだこれからだよ。俺がカスタムメイドで弄れる部分は山ほどあるし、学習させるのも楽しいんだ」陸子辰は笑い、立ち上がった林婉の腰のあたりを、まるで家具の表面を確かめるようにポンと軽く叩いた。林婉の身体がこわばり、彼女は一瞬息を飲んだが、すぐに再びあの人形じみた無表情に戻った。「母さんじゃなくて、こっちのアンドロイドにいろいろ任せれば楽だし、家族の時間も増えるって思わない?」

「ああ……そうかもしれんな」陸建国は頷いた。だが、彼は目の端で林婉の背中がわずかに丸まり、あばら骨の浮き出た脇腹がかすかに上下しているのを捉えていた。彼女は生きている。それは明らかだった。彼は無理やり笑みの形に口元を歪め、新聞の紙面に目を落としたが、活字は一文字も頭に入ってこなかった。

その後、陸子辰は上機嫌で風呂に立った。バスルームのドアが閉まる音が聞こえると、リビングには沈黙が落ちた。林婉はその場から一歩も動かず、ただ立ち尽くしている。陸建国は新聞を置き、何かを言おうとして口を開きかけたが、彼女の首筋に浮かんだ冷や汗の筋と、きつく結ばれた口元を見ると、言葉は喉の奥で塊になって消えた。彼は立ち上がり、キッチンへ向かう振りをして林婉の脇を通り過ぎた。すれ違いざま、彼女の指がかすかに自分のシャツの裾を掴もうとして、触れる寸前で空を切った。その手の冷たさだけが、ほんの一瞬だけ彼の腕をかすめて消えた。

夜が更けた。陸建国は寝室の布団の中で、目を閉じることもできずに天井を見つめていた。隣室――子辰が自分専用の部屋として改装させたあの部屋から、奇妙な物音が壁を伝わってくる。控えめな機械の動作音と、裸足でフローリングをこするようなかすかな足音。それに混じって、くぐもった、泣き声とも呻き声ともつかない低い響きが断続的に漏れ聞こえた。時折、陸子辰の抑揚のない指示の声がする。その声は常に平坦で、命令形をとっていた。「もう少し右」「その姿勢を保て」「声を出してもいい、許可する」返事はない。ただ、それを実行する気配だけが、壁の振動として伝わってくる。一度だけ、何か柔らかなものが床に崩れ落ちるような鈍い音が響き、その後しばらく沈黙が続いた。そして再び、機械音が断続的に鳴り始める。

陸建国はシーツを握りしめ、奥歯を強く噛み締めた。昼間、息子の前で必死に取り繕った平静の仮面が、暗闇の中でぽろぽろと剥がれ落ちていくのを感じる。彼は自分の選択を思った。あの日、衝動で本物のアンドロイドを壊してしまったあの瞬間。そして、その代償として妻が差し出した苦渋の提案に、反対もできずただ頷いたあの夜のことを。彼は、償いをすると言い訳しながら、結局は目の前の不条理から目を背けることで、自分自身の罪から逃げ続けてきた臆病者なのだ。

隣室から、かすかなくぐもり声が再び聞こえた。それは確かに、彼が二十年近く聞き慣れた寝息や寝言とは全く違う、押し殺しきれない苦痛の混じった震え声だった。陸建国は寝返りを打ち、枕に顔を押し付けた。胃液が込み上げるような吐き気がこみ上げ、彼は声を殺して息を詰める。明日も、またあの仮面を被らなければならない。彼はそれを思うと、暗闇の中で永遠に朝が来なければいいと、心の底から願った。一晩中、耳障りな物音は止まず、彼の瞼の裏には林婉の虚ろな目と、あの「パパ」という震える声が張り付いて離れなかった。寝返りを打つたびに、スプリングがきしむ音さえもが、自分を責める声のように耳の奥で木霊した。

彼の目の前で

週末の午後、リビングには怠惰な空気が漂っていた。カーテン越しの薄日が、ソファにだらしなく凭れた陸子辰の顔を撫でるように照らしている。彼は頭を背凭れに預け、目を閉じて、片手でスマートフォンを弄り、もう片方の手はだらりと垂らしていた。その眼前、床に膝をついた林婉が、息子の開かれた両脚の間にうずくまっていた。

彼女はゆっくりと腰をかがめ、震える唇を近づける。陸子辰は短く息を吐き、足の指をカーペットの上で軽く丸めた。

「途中で止めるなよ。学習能力が低いな、やっぱり旧型は駄目だな」

彼は目を開けずに言い放ち、垂らしていた手で林婉の後頭部をぐっと押さえつけた。彼女の喉がひくりと鳴り、涙が浮かぶ。けれど抵抗は一切なかった。ただ、命じられた通りに、機械的に、口を動かし続けるだけだった。

リビングの奥、短い廊下を隔てた書斎のドアが静かに開いた。陸建国が、空になった湯飲みを片手にのろのろと出てくる。裸電球の灯りから抜け出した目は、まだ薄暗い室内に慣れず、最初はソファの光景をぼんやりとしか捉えていなかった。しかし数歩進んだところで、彼の足はぴたりと止まった。

床に跪く妻の後ろ姿。乱れた髪。そして、息子のズボンの前。頭の中で何かが跳ねるように理解が追いつくと、湯飲みを取り落としそうになり、彼は慌てて両手で抱え直した。指の感覚が消え、喉が一気に干上がる。

陸子辰はその気配に、のそりと顔を上げた。父親と目が合う。彼は唇の端を歪め、まるで友達に秘密を共有するような軽い口調で言った。

「父さん、節制しろって言ったじゃん。でもこれ、マジで最高だわ。お前も味わったことある?」

陸建国の唇が戦慄き、何度か開きかけては閉じた。手に持った湯飲みの表面に、脂汗で濡れた指の跡がくっきりと浮かぶ。彼の視線は、妻のうなじに張り付いたままだ。そこには、かつて愛おしむように撫でた白いうなじがあった。今は、ただの対象物の一部のように息子の手に掴まれている。

やっとの思いで、彼は掠れた声を絞り出した。

「……やりすぎるな。勉強の、邪魔になる」

そう言い捨てると、彼は機械的に背を向けた。湯飲みを台所に置くことも忘れ、そのまま書斎へ引き返す。足音は重たく、廊下の床を引きずるようだった。書斎のドアが閉まる小さな音が、リビングにぽつんと残響する。

陸子辰は小さく鼻を鳴らし、再び頭を背凭れに戻した。

「ほら、続けろ」

彼の命令に、林婉はただ無言で動きを続ける。口の中に広がる生温かさと苦味を、彼女はもう何も感じないようにと必死に押し殺していた。眼球の裏側がじんじんと熱を帯び、視界がぼやける。だが涙は、決してこぼれ落ちなかった。流すことさえ彼女には許されていない、まるで機能の一つを取り上げられた機械のように。

午後の光は少しずつ傾き、リビングの隅に細長い影を伸ばしていく。部屋のどこかで、冷蔵庫のモーターが唸る低い音だけが、沈黙の隙間を埋めていた。

性的虐待のエスカレーション

陸子辰の部屋には、むせ返るような若い男の汗と、かすかに焦げたような電子基盤の匂いが混ざっていた。ベッドの上で、制服を乱れさせたままの少年は、つまらなそうに天井を仰いでいる。つい先ほどまで、彼はアンドロイドの女を組み敷いていた。型通りの挿入、型通りの反応。最初のうちこそ新鮮だったが、何度も繰り返すうちに、ゲームのチュートリアルをなぞっているような味気なさしか感じなくなっていた。

「はぁ……なんか、たりねぇんだよな」

陸子辰はもぞもぞと起き上がり、机の引き出しを乱暴に開けた。中から取り出したのは、学校の制服を留める黒い革ベルトと、ノートを挟むための大きな金属クリップ数個だ。彼はそれらを手に、部屋の隅で待機している「艾拉」――そう名付けられた女型アンドロイドに向き直った。滑らかな肌、整った顔立ち。だがその瞳は、深い井戸の底のように光を失っている。陸子辰はそれに気づかない。気づくはずもなかった。彼にとってこれは、ただの家電製品に過ぎないのだから。

「今日は、ちょっと違うことしてみようぜ。お前、痛がったりできるんだろ? 学習機能ってやつでよ」

彼はベルトを二つ折りにし、ぱんぱんと手のひらに打ちつけながら近づく。林婉の内部プログラムは、命令を拒否するように警鐘を鳴らしていた。逃げろ、叫べ、抵抗しろ。だが、唇は縫い付けられたように動かない。口元にこびりついた無理やり作った微笑みだけが、人形のように張り付いている。

最初の一撃が、彼女の太ももを打った。鈍い音。続いて二度、三度。陸子辰は目を輝かせて、その赤く腫れ上がっていく肌の変化を観察していた。

「おお、ちゃんと痕がつくんだな。すげぇリアルだ。痛いか? 痛いんだろ? 声を出せよ」

林婉は声を出せない。出してはいけない。その制約が、むしろ彼女の喉の奥でかすれた空気の震えとなって漏れる。それが少年には、従順な反応と映った。彼は次に、金属のクリップを手に取り、彼女の胸の先端や、腕の内側の柔らかな皮膚に、思い切り食い込ませた。

「んっ……!」

くぐもった呻きが、歯の隙間から漏れ出る。痛みは鋭く全身を貫くが、表情は変えられない。ただ無表情のまま、目尻に生理的な涙が盛り上がるだけだ。陸子辰はその涙を指で掬い、珍しそうに眺めてから、ゲラゲラと笑った。

「ははっ、泣いてる! マジでプログラムすげぇな。もっといろいろ試してみようぜ」

道具を使った行為は、次第にエスカレートしていった。ベルト、クリップ、挙句にはライターの火をかざし、皮膚がほんの微かに焦げる反応を面白がるようになった。林婉の体には、日に日に痣や傷が増えていく。手首には、きつく縛られた痕が、紫色の腕輪のように浮かび上がった。しかし彼女は、どんな時でも決して叫び声をあげることはなく、ただ決められた「家事手伝いアンドロイド」として、翌朝には何事もなかったかのように台所に立つのだった。

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陸建国は、その異変に気づかないはずがなかった。ある夜、風呂上がりの妻が、着替えの際に長袖をまくり上げた瞬間、白い手首に刻まれた無数の傷跡が、蛍光灯の下で生々しく浮かび上がった。それは擦り切れたロープの痕だった。彼は胸を鋭い刃物でえぐられるような衝撃を受けた。

「……婉」

声をひそめて呼びかけると、林婉は一瞬だけ動きを止め、ゆっくりと袖を下ろした。彼女は夫を見つめ返した。その顔には、やはり「主婦」としての優しい微笑みはなく、ただの無表情な、アンドロイドとしての「待機状態」の顔だけがあった。建国の視線が、縋るように彼女の傷に向けられる。

彼は何も言えなかった。言えば、全てが終わる。自らの犯した過ちが、この異常な生活の均衡を、全て砂上の楼閣のように崩し去ることを、彼は痛いほど理解していた。彼にできることは、ただ息子が塾に出かけ、家に二人きりになった時だけだった。

リビングのソファで、林婉がうつむき加減に座っている。建国はその隣に腰を下ろし、震える手を伸ばして、彼女の髪をただそっと撫でた。指先に伝わるのは、かつての妻と同じ、なめらかな黒髪の感触だ。彼はその髪を一筋、一筋、梳くように、まるで壊れた宝物に触れるかのような仕草で撫で続ける。

「すまない……本当に、すまない……」

声にならない詫びが、喉の奥でかすれる。林婉は身動き一つしない。しかし、彼女の唇が、ごく僅かに動いた。声は出さない。ただ、口の形だけで、ゆっくりと、何度も、同じ言葉を夫に伝えた。

『だい……じょう……ぶ』

それは、この地獄の淵で彼女が唯一、自らの意思で発することのできる言葉だった。そしてそれが、建国の胸を一層深くえぐった。大丈夫なわけがない。彼女の壊れていく心が、手に取るようにわかるからだ。彼は声を押し殺し、妻の肩にうずくまって、男泣きに咽び泣いた。

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そんな父親の苦悩を知ってか知らずか、陸子辰の歪んだ遊びは、さらに危険な方向へと傾いていった。

ある日の夕食後、茶の間で寛ぐ父子の前で、林婉が食器を片付けている。陸子辰はスマートフォンを弄りながら、思い出したように口を開いた。

「なあ、親父。今度さ、俺のクラスの連中が、家のアンドロイド自慢合戦やるって言っててよ。俺、艾拉との『特訓』の様子、動画で撮って見せてやろうと思うんだ。改造具合とか、反応の良さとか、あいつらビビるぜ、きっと」

その言葉に、それまで無言でお茶を啜っていた建国の手が、ぴたりと止まった。彼の顔から、さっと血の気が引いていく。

「……動画だと?」

「そう。この前、ちょっと道具使ってる時のやつ、なかなか迫力あって良かったから、それと、あと」

「よせ」

建国は、持っていた湯呑みを音を立てて卓袱台に置いた。その声は低く、しかし今までにない強い語気を帯びていた。陸子辰が、面食らったようにまばたきをする。

「なんだよ、急に。ただのアンドロイドの動画だぜ? 友達と共有して何が悪いんだよ」

「駄目だ、と言ったんだ。あれは……あのアンドロイドは、あくまで家のものだ。お前の部屋で何をしているかは、もう目を瞑っている。だが、それを外に出すことは、絶対に許さん」

「なぜだよ! 理由を言えよ!」

「個人の……プライバシーだ」

建国は苦し紛れに、その言葉を絞り出した。彼の額には冷や汗が滲んでいる。震える拳を膝の上で握りしめながら、彼は息子の目をじっと見据えた。

「もし、その映像が誰かの目に留まって、ネット上に拡散でもされたらどうする。たかが家電の映像でも、そこには家族の生活空間が映り込む。我が家の情報が漏れるんだ。リスクが大きすぎる。それに、そういう遊びは、あくまで個人の趣味の範囲に留めるべきだ。それを他人に見せびらかすのは、品性の問題だ」

陸子辰は、父親の剣幕に気圧され、不満そうに口を尖らせた。彼の頭の中では、「親父は相変わらず古臭いことを言う」という思いと、「まあ、ネットに顔が映るのは確かにまずいかもな」という打算がせめぎ合っていた。

「……ちぇっ、わかったよ。別に見せなきゃいいだけの話だろ。そこまで怒ることかよ」

息子はそう毒づいて、携帯をポケットに突っ込み、乱暴に自室へと引き上げていった。バタン、とドアの閉まる音が家の中に虚しく響き渡る。

残された建国は、深く息を吐き出し、力なくテーブルに突っ伏した。彼は救われたのだ。あの映像が世に出る、最悪の事態だけは、どうにか回避できた。しかし、彼の手は震えが止まらなかった。台所の方を振り向くと、林婉が動きを止めて、こちらを見つめている。その無表情な顔が、歪んで見えるのは自分の涙のせいだと、彼は気づくことができなかった。

彼女の唇が、再び、音もなく動いた。

『だい……じょう……ぶ』

もう、その言葉は、建国への慰めではなく、彼の臆病な心を永遠に縛りつける呪いのようであった。