広大な未来型邸宅のリビングルームには、朝の柔らかな人工陽光が降り注いでいた。壁一面を覆うホロスクリーンが、庭園の景色を映し出している。咲き乱れる光の花々は、風もないのにゆらゆらと揺れ、その色彩は現実よりも鮮やかだ。しかし葉梓萱の瞳は、その光景をただぼんやりと透過していた。
彼女は白く輝く超高分子ソファに横たわり、片手でワイングラスを弄んでいた。グラスの中の液体は、香りも味も温度も完璧に調整された年代物の赤ワインだが、口に含んでも心は少しも動かなかった。もう三時間も、こうして天井を見つめている。
「おはようございます、奥様。本日のスケジュールをお知らせします」
家全体に組み込まれた人工知性体の声が、優しく響いた。声質は彼女が最もリラックスできる音域にチューニングされている。
葉梓萱はため息をついた。「いいわ、キャンセルして。全部」
「かしこまりました。美容サロン、ランチ会、午後のアートギャラリー内覧会、すべて取り消しました。代わりに何かご要望は?」
「刺激」
彼女は吐き捨てるように言った。
「……失礼ながら、刺激とは具体的にどのようなものでしょうか? バーチャルアドベンチャーであれば、新作の——”
「違う」
梓萱は上半身を起こし、手にしていたグラスをテーブルに置いた。透明なクリスタルがかすかな音を立てる。
「全部、つくりものだわ。安全で、予定調和で、何もかも設計されすぎている」
巨大な邸宅は、最新の生態維持システムとセキュリティで守られた、一つの小さな王国だった。六つの寝室、三つのプール、ホログラフィックシネマ、重力可変ルーム。何でもそろっている。外出せずとも、あらゆる体験が仮想空間で味わえるようになっている。しかし彼女が本当に欲しているものは、そこにはないことを、骨の髄まで感じていた。
「ご主人様からメッセージが届いております。再生しますか?」
心臓が一瞬だけ跳ねた。葉梓萱はかすかにうなずく。
スクリーンの一部が切り替わり、顧霆の姿が映し出された。彼は高層オフィスからの映像だろう、背後の窓には雲海が広がっている。ネクタイをきっちりと締め、表情はいつものように涼しげで、どこか遠くを見ているようだった。
「今夜も遅くなる。夕食はいらない。先方の社長と会食だ。お前は好きにしていてくれ」
それだけだった。映像はぷつりと途切れる。彼女の夫は、言葉を交わす時間すら惜しむように、録画メッセージで用件だけを伝えてきた。
「……好きに、か」
梓萱は小さくつぶやき、再びソファに身を沈めた。結局、この豪邸の中で、彼女はただの美しい調度品なのだ。飾られ、守られ、そして必要とされない。顧霆が自分に向ける視線は、日に日に温度を失っている。結婚当初の熱はどこへ消えたのか。今では、たまに寝室で行為があっても、まるで決められたルーティンをこなすだけの作業だった。
彼女は閉じた瞼の裏で、かつて祖父から聞いた話を思い出していた。葉家の繁栄を支えてきた、もう一つの事業——人体家具工場。
この巨大な富の根源には、合法と違法の境界が曖昧な、秘密めいた産業が存在している。人体そのものを再加工し、家具として販売する。顧客は世界中の富裕層や、特殊な嗜好を持つ権力者たち。工場では、人間の意識と肉体に高度なバイオテクノロジーを施し、ソファやテーブル、さらには衛生器具に至るまで、あらゆる家具へと改造するのだという。
幼い頃、うっかり書類を見てしまい、父にきつく叱られた記憶がある。そのときは恐怖しかなかった。だが今、彼女の胸に去来したのは、別の感情だった。
(あそこには……本物があるのかもしれない)
安全も予定調和もない、剥き出しの現実が。誰かの人生を根底から変えてしまうような、圧倒的な力が渦巻いている場所。想像するだけで、背筋に冷たい何かが走った。それは恐怖でありながら、同時に飢えにも似た渇望だった。
彼女は静かに立ち上がり、寝室へと向かった。巨大なウォークインクローゼットの奥には、パーティードレスや宝石とは別に、動きやすい機能性スーツが数着隠されている。万が一のための護身用具も揃えてある。どこへでも行ける自由と、それを行使する度胸だけが、彼女の唯一の秘密だった。
梓萱は壁に手を触れ、生体認証で隠し端末を起動させた。家のメインシステムからは完全に独立した、個人用の通信装置だ。素早く工場の所在地と、最低限の内部マップを呼び出す。データは古いが、セキュリティの配置まではなんとか読み取れた。
「潜入、ね」
口に出してみると、ひどく馬鹿げた響きだった。世界有数の財閥の令嬢が、自分の家の持ち物に忍び込む。だが、その馬鹿げた計画こそが、久しぶりに彼女の心を熱くさせた。
「危険です。お勧めできません」
端末が警告を発する。梓萱は笑みを浮かべ、電源を切った。危険なのはわかっている。それでいい。偽物の刺激より、身を焼くような危険のほうが、ずっとマシだ。
スーツに着替えながら、彼女はもう一度だけ、夫のメッセージを反芻した。好きにしていてくれ、と言われたのだ。それならば、私は私の好きにさせてもらう。
深夜、邸宅の静寂が深まる時間を見計らい、葉梓萱は自室のバルコニーから無音飛行ユニットで飛び立った。眼下に広がる光の海が、次第に小さくなっていく。冷たい夜風が頬を打ち、心臓が力強く脈打っていた。退屈な豪門生活の檻から、自らの足で踏み出す、初めての脱出行。
行き先は、市街地から遥か離れた地下工場。そこでは、今日も“素材”が家具へと姿を変えている。彼女はまだ知らない。その扉の奥で、自分自身が人体便器へと改造される運命が、静かに待ち受けていることを。
だが、今はただ、その予感すらも甘美なスリルとして、彼女の唇を弧に歪ませていた。