帝都プラスティネーションの謎

站点:NovelAI.one内容:前8章在线试读ID:f8675174更新:2026-07-28 15:55
いつものように、帝都の片隅にあるそのフィットネスクラブは、朝の静けさに包まれていた。鏡張りの壁が、まだ人のまばらなフロアを冷たく映し出す。小云はカウンターに肘をつきながら、スマートフォンを耳に当てていた。受話口からは、わずかにくぐもった男の声――老師傅と呼ばれる、プラスティネーション会社のベテラン技師の声がする。 「…
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電話での取り決め

いつものように、帝都の片隅にあるそのフィットネスクラブは、朝の静けさに包まれていた。鏡張りの壁が、まだ人のまばらなフロアを冷たく映し出す。小云はカウンターに肘をつきながら、スマートフォンを耳に当てていた。受話口からは、わずかにくぐもった男の声――老師傅と呼ばれる、プラスティネーション会社のベテラン技師の声がする。

「……承知いたしました。全身のプラスティネーション処理ですね。ただ、通常は解剖と保存の工程で専門の執行者が立ち会うのですが、今回のご依頼では、処刑は『身内が担当する』と。よろしいのですか?」

「ええ」小云の口調は、どこまでも穏やかだった。まるで天気の話でもするかのように。「その方が都合がいいんです。彼が全てを終わらせてくれる。頭部と胴体は別々の処理にしてください。それから、事前の清掃作業も、できる限り丁寧にお願いします。血液や体液が完全に抜けるまで、時間をかけてもかまいませんから」

電話の向こうで、老師傅が息を呑む気配がした。彼はこれまで数多くの遺体を加工してきたが、自らをモデルとして差し出す依頼者は初めてだった。しかも、その声はひどく若く、どこか耳に残る甘やかな響きを帯びている。一度聞いたら忘れられない声だった。老師傅は相手の顔を想像しようとしたが、どうしても輪郭が浮かばない。

「モデルのご本人と、お会いすることは可能でしょうか。最終的な仕上がりのイメージを共有したいのです」

「それには及びません。寸法やポーズの指示は、後ほどメールで送ります。明後日には、ちゃんと現物がそちらに届く手はずですから」

小云はそれだけ言うと、一方的に通話を切った。彼女の細い指が画面をスワイプし、着信履歴を消去する。カウンターに立てかけてあった小さな手鏡に、自分の顔が映る。瞳の奥には、澄みきった光があった。

フィットネスクラブの空気が、かすかに動いた。入り口の方から、聞き覚えのある足音が近づいてくる。阿吉だった。彼はいつものようにタンクトップ姿で、鍛え上げた胸筋を誇示しながら、小云ににじり寄った。

「よお、今の電話、何だか物騒な単語が聞こえたけど。またモデルの依頼か?」

阿吉は好奇心を隠そうともせず、値踏みするような目つきで小云の全身をなめ回す。彼はこのクラブの常連で、ボディビルとヌードモデルの撮影に熱中していた。小云の肉体に、ずっと秘かな欲望を抱いているが、それはあくまで表層的なものだ。彼女が纏う内面の冷ややかな情熱には、まったく気づいていない。

「ええ」小云はゆっくりと頷き、口元にうっすらと微笑みを浮かべた。「あなたも楽しみにしてくれていいわよ。遅くとも明後日には、すばらしい作品を納品できるから。きっと、このクラブの起死回生の一手になるわ」

「そりゃあいい。どんな女だ? やっぱり、お前みたいに完璧な身体なのか?」

「私より、ずっとね」

短く答えると、小云はそれ以上話を続けず、スタッフルームの奥へと消えた。阿吉は肩をすくめ、何かつまらなそうにトレーニングマシンへ向かう。小蒙という若いスタッフが、拭き掃除をしながらその場面をぼんやりと見ていたが、彼にはただの日常の一こまに過ぎなかった。

小云は更衣室の重い扉を閉め、鍵をかけた。防音加工された室内は、外の喧騒を完全に遮断し、ひんやりとした静寂が満ちている。ロッカーに寄りかかりながら、彼女は一枚ずつ衣服を脱ぎ捨てた。タイトなウェアがするすると滑り落ち、淡い照明の下に、彫刻のような肩のライン、くびれた腰、しなやかな太腿が露わになる。最後に下着を脱ぐと、彼女は全身が映る姿見の前に立ち、まっすぐに自分を見つめた。

鏡の中の肉体は、生きた芸術品だった。筋肉は過度につきすぎず、皮下脂肪は紙のように薄く、骨格の美しさが透けて見える。胸の膨らみは重力に逆らうように上向き、腹部にはうっすらと影が落ちる縦の線が刻まれている。彼女は右手を持ち上げ、ゆっくりと下腹へと滑らせた。毛の一本もない滑らかな恥丘に指が触れると、そこはひんやりと湿っていた。指先でなぞるたびに、淡い電流が背筋を駆け上がる。

「これでいいのよ」

彼女は声に出さずに呟く。裸体モデルとしてプラスティネーション処理される自分の姿を、何度も想像してきた。防腐処理を施された皮膚は、シリコンポリマーに置き換わり、永遠にこの完璧な曲線を保つ。頭部は切り離され、別のケースに収められるが、視線は永遠に遠くを見つめ、謎めいた微笑みを浮かべるだろう。人々はその標本を眺め、美に圧倒される。そして、このフィットネスクラブは、かつての繁栄を取り戻す。

小云の心の声が、過去を静かに呼び覚ます。ちょうど一年前、帝都に奇妙な流行が訪れた。プラスティネーションという、生物標本を樹脂で保存する技術が、いつしか人体の美を競う狂騒へと変貌していたのだ。死体を芸術品に仕立て上げ、展示会を開く会社が続々と現れた。なかでも、美女の全裸標本は飛ぶように売れ、そのモデルを提供したジムやクラブは、会員数を倍増させていった。一方、ここ「琳瑯フィットネス」は旧態依然とした営業を続け、客足はみるみる遠のいていった。

小云はこのクラブを、大軍と二人で守ってきた。大軍は彼女の恋人であり、トレーナーであり、ある意味では死刑執行人としての役割をも、密かに引き受けることを承諾している。彼は小云を深く愛し、何度も思いとどまらせようとした。しかし、彼女の中には、自己犠牲への病的なまでの執着があった。永遠の美を手に入れること。そのためなら、愛する者の手で生命を終わらせることさえ、甘美な儀式に思えた。

「大軍には、悪いことをするわ」

鏡の中の自分に語りかけるように、彼女はそっと唇を開いた。大軍の苦しむ顔が脳裏をよぎるが、それさえも、完成する作品の一部のように感じられる。彼女は深く息を吸い込み、更衣室の空気を肺いっぱいに満たすと、静かに目を閉じた。

これで全てが決まったのだ。明後日、彼女の身体は処刑室へと運ばれ、大軍の手で終止符を打たれる。その後、老師傅の工房へと送られ、頭部と胴体の別々の標本として、永遠に琳瑯フィットネスに飾られることになる。小云はすでに、自分の不在を埋める段取りも整えていた。誰も、本当の真相を知る者はいない。阿吉も、小蒙も、何も知らぬまま、美しい裸体の標本をただ眺めるだけだ。

彼女はもう一度、恥丘をそっと撫で上げ、胸の先端を指でつまんだ。その刺激に、小さく身体が震える。生の感覚が、かえって死の静けさへの憧れを強くするのだった。やがて彼女はゆっくりとまぶたを開け、脱いだ衣服をロッカーに仕舞うと、落ち着いた手つきで新しいウェアに着替え始めた。

更衣室の外では、いつもと変わらぬクラブの喧騒が戻りつつあった。重りが落ちる金属音、トレッドミルの駆動音、そして阿吉のけたたましい笑い声。小云はそのすべてを包み込むように、微笑をたたえたまま、静かに扉を押し開けた。

地下室の約束

ジムの喧騒が遠くに消え、小雲が押した更衣室の奥にある小さな鉄扉は、まるで別世界への入り口のようだった。蝶番の軋む音もなく、重々しく壁の中へと滑り込む。ひんやりとした空気がすぐさま肌を撫で、微かに黴と古い木、そして鉄錆のような匂いが混ざり合っていた。薄暗い階段を一段ずつ降りるたびに、上方の照明が作る彼女の影が、コンクリートの壁を這いながら長く伸びていく。階段の終わりに広がる地下室は、想像していたより広かった。裸電球がひとつだけ天井から吊り下がり、オレンジがかった弱々しい光を投げかけている。中央には、分厚い木製の台座――おそらく樹齢何百年もの欅材で作られた、黒ずみ、ところどころ染みのついた斬首台が置かれていた。そのすぐ傍らには、半月斧が柄を立てかけるようにして立てられ、刃の弧は光を鈍く反射している。

そして、大軍がいた。全裸で、台座のそばに立ち、まるで儀式の一部であるかのように微動だにしない。鍛え上げられた筋肉の隆起が陰影を帯び、その肉体はギリシャ彫刻のように完璧でありながら、生々しい熱を隠していた。彼の瞳は、近づく小雲を捉えると、痛みと愛情が複雑に絡み合った光を宿す。小雲は、自分の胸の高鳴りを悟られまいと、ゆっくりと彼の前に進み出た。

「今日のお前は、ひときわ美しい」大軍の声は低く、地下室の静寂を震わせた。

小雲は嫣然と微笑み、首をかしげる。「そう? 大軍こそ、まるで処刑人そのものだわ」彼女はわざと軽やかな口調で言い、自分の素足が冷たいコンクリートに触れる感触を楽しむかのように、一歩また一歩と距離を詰めた。彼の胸の前に立つと、手を伸ばし、彼の鎖骨のあたりを指先でそっと撫でる。大軍の喉が、言葉を呑み込むように動いた。二人は見つめ合ったまま、ほんの数秒、無言の戯れを交わす。彼の手が彼女の腰に触れそうになり、また引っ込められた。小雲はその逡巡を愛おしく思いながらも、すぐに手を引いた。

大軍は、隣の斧に視線を移し、その柄を手に取った。古びた木は使い込まれて手に馴染み、刃こぼれひとつなく磨き上げられている。「この斧と台座は、祖父の代から受け継いできたものだ。清朝末期、革命の混乱期、そして戦争の時代を経て、これまで十数人の女をここで終わらせてきた。いずれも、自ら望んだ者たちばかりだった」彼の声は淡々としていたが、小雲にはその裏にある震えが聞こえた気がした。「刃こぼれひとつない。いつも、一太刀で終わらせてきた」

小雲の胸の内で、何かがぞくりと波打った。恐怖ではない。むしろ歓喜に近い、暗い昂揚だった。十数人の女――彼女たちもまた、永遠の美を追い求めたのだろうか、それとも別の理由でこの台座に首を預けたのか。そう考えると、自分の選択が特別なものではなく、連綿と続く系譜の一部であるように思えて、妙な安堵と嫉妬が同時に湧き上がる。だが彼女は平然を装い、睫毛ひとつ動かさずに「そう、立派な斧ね」とだけ答えた。

「怖くはないのか」大軍が問う。その声は、彼自身が一番聞きたい問いかけでもあった。

小雲は、まるで日常の会話をするかのように微笑んだ。「怖いわけがないでしょう。それよりも、大軍、時間がないの。プラスティネーション会社には、ちょうど二十分後に遺体を引き取りに来るように、もう連絡を入れてある。先生傅は時間に正確な人だから、遅れるわけにはいかないわ」

大軍の顔色が、裸電球の下で一瞬、歪んだ。握る斧の柄に力がこもり、指の関節が白くなる。「待ってくれ、小雲。まだ……心の整理が……」彼は一歩彼女に近づき、空いたほうの手で彼女の頬に触れようとした。「せめて、最期の慰めの時間くらいは」

小雲はその手を、優しく、しかし断固として押し返す。彼女の指は冷たく、細い。「いいえ、大軍。『処刑前の慰め』なんて、必要ない。そんなことをしたら、せっかくの決意が鈍ってしまう。それに、肉体が変化してしまうと、プラスティネーションの質に影響が出るかもしれないでしょう? 私は、完璧な標本になりたいの。あなたの手で切り取られた、その一瞬の美しさのまま、永遠に保たれるの」彼女の瞳は爛々と輝き、病的なまでの情熱がそこには宿っていた。「お願い、大軍。私のために、早く。これが、私からの最後の約束だから」

大軍は、彼女の言葉に殴られたように立ちすくんだ。彼女の決意は、装甲のように固く、もはや何の言葉も通さない。彼は深く息を吸い込むと、地下室の淀んだ空気が肺を満たすのを感じた。苦く、重い、責任の味がした。彼は無言でうなずき、斧を右手に持ち替える。小雲はそれを見届けると、静かに台座の前に歩み寄り、膝をついた。さらりと髪をかき上げ、うつ伏せになるようにして、白い喉を台座のくぼみに預ける。木材のひんやりとした感触が、彼女の頬と首筋に伝わった。

彼女は目を閉じ、微かに笑みを浮かべながら言った。「大軍、愛しているわ。あなたの手で永遠にして」

大軍は、斧を両手で高く掲げた。天井の裸電球が刃に映り込み、一筋の光が地下室を走る。彼の瞳から、ひとすじの涙が伝い落ちたが、声はもはや震えなかった。「ああ、俺も愛している。永遠にな」

半月斧が、空気を裂いて振り下ろされる。地下室のすべての音が、その一瞬に吸い込まれた。

斬首を待つ

帝都の夜は、いつもよりずっと静かだった。路地の奥にぽつんと佇む古びた工房の中だけ、息を潜めた熱がうごめいている。灯りは蝋燭一本。揺らめく橙色の光が、木製の台座と、そこに跪く裸の女の肌を、油絵のように浮かび上がらせていた。

小雲の首は、台座の先端に彫られた三日月型の切り込みに、まるで誂えたかのように収まっている。木肌はざらつき、無数の微細な棘が剥き出しの項をちくちくと刺した。顎を傾斜面に押し当てると、頚椎がかすかに軋み、喉仏がぐっとせり上がる。息を吸うたび、気管が細く鳴った。痛みはあったが、それは彼女にとって、むしろ待ち焦がれた感覚だった。痛みがあるからこそ、今ここに生きている。そしてこれから、永遠に変わらぬ美へと変わる。

背後で、重たい足音が床を踏みしめる。大軍だ。彼は無言で、壁に立てかけてあった長柄の斧を手に取った。刃渡り三十センチ、冷たい鋼の輝きが蝋燭の灯を吸い込んで、一瞬だけ青白く光る。彼は斧を両手で握りしめ、ゆっくりと頭上へ振り上げた。筋肉の鎧に覆われた広い背中が、呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返す。一度、二度、素振りをするように刃の位置を確かめ、最後に、刃の平たい側面を、小雲の頸動脈が走る首筋に、ぴたりと当てた。

ひんやりとした感触が、熱くなった皮膚を刺した。小雲の全身に、電流にも似た戦慄が走る。震えは恐怖からか、それとも別の何かからか。彼女は唇を噛みしめ、つむったまぶたの裏にちらつく白い光を見つめながら、腹の底からせり上がってくる笑い声を必死に押し殺した。

そう、これこそが私の望んだ瞬間だ。

大軍は動かなかった。斧の重みが、じわりと首にのしかかる。血管の拍動が刃に伝わり、かすかな振動が手のひらに返ってくるのを、彼は感じている。このまま一気に振り下ろせば、彼女の苦しみは一瞬で終わる。だが、手が動かない。彼の心の中では、無数の葛藤が渦を巻いていた。

小雲の身体が、もぞりと動いた。腰が浮き、丸みを帯びた臀部が持ち上がる。蜜蝋を塗ったような肌が、蝋燭の光を受けて、なまめかしい曲線を描く。その下では、鍛え抜かれた太ももが床の冷たい石に跪き、内股の筋肉が細かく痙攣していた。背骨は深く彎曲し、肩甲骨が背中で翼のように浮き出る。まるで、見えない何かに祈りを捧げる巫女の姿だった。

彼女の意識は、もはや半分ほど、この肉体から遊離しつつあった。首への圧迫感と、棘の痛みだけが、かろうじて現世との繋がりを保っている。下半身は、緊張と興奮のあまり、熱を帯びて湿り気を帯び始めていた。自分でも制御できない生理反応が、彼女の奥底に隠された狂気を、雄弁に物語っている。

沈黙が、永遠にも等しい十数秒間を支配した。斧の刃は、依然として首筋に触れたままだ。

小雲はついに焦れた。彼女は顎を台座にぐっと押しつけ、喉を震わせて声を絞り出した。それは、かすれながらも、驚くほど透き通った声だった。

「早く……やってよ、大軍」

その声は、いつもの明朗さの影に、獲物を待つ獣のような切迫を秘めていた。

「あなたの手で、私を終わらせて。これが、私が選んだ永遠なんだから」

一瞬息を呑み、彼女はさらに言葉を継いだ。内なる恐怖と興奮が、粘液のように混ざり合い、声を震わせる。

「怖い……でも、もっと、もっとあなたの刃を感じたい。お願い、早く……私を、あなただけの最高傑作にして」

大軍の手に力がこもる。彼は何も言わず、ただ、深く、静かに息を吐き出した。刃が、皮膚からわずかに離れた。それは、最後の振りかぶりの予兆だった。小雲は唇の端を持ち上げ、背中越しに彼の存在を全身で感じながら、いよいよ訪れる斬首の瞬間を、全身全霊で待ち受けた。

刃が落ちる

大軍は震える手で斧を高く掲げた。冷たい金属の重みが、彼の肩に、心に、骨の髄まで沈み込んでいく。蛍光灯の白い光が、磨き抜かれた刃先を冷酷に煌めかせた。部屋にはプラスティネーションのためのホルマリン溶液の微かな刺激臭が漂い、無機質なコンクリートの壁が二人の息遣いだけを吸い込んでいた。

小云は裸のまま、木製の台座にうつ伏せていた。首の下には、深く刻まれた血受けの溝。彼女の長い黒髪が解かれ、濡れたように床へ垂れている。背中は陶器のように滑らかで、かすかに肩甲骨が浮き出ていた。彼女は目を閉じ、口元に薄い微笑みさえ浮かべている。その表情は、これから訪れる永遠への陶酔に満ちていた。

「云…やっぱり…」

大軍の喉から絞り出された声は、まるで他人のもののように掠れていた。彼の両目は充血し、涙が乾いた痕を残している。全身の筋肉は恐怖と葛藤で硬直し、それでも斧を下ろすことができない。彼は小云を愛している。彼女が自ら望んだこの狂気の儀式を、彼の手で完遂しなければならないことに、魂が悲鳴を上げていた。

小云は微かに首を動かし、頬を冷たい木に擦りつけるようにして、かすかな声を漏らした。

「大軍、急いで。時間がないわ。先生傅が待っている」

その声は、かつて彼女がフィットネスクラブでトレーニング後に聞かせていたあの快活な調子とはまるで違っていた。もはや人間の体温を失い、ただ目的だけが鋭く尖っている。大軍は彼女の白い項を見つめた。細い産毛が蛍光灯に透けて、命の最後の輝きを放っている。彼の手の中で、斧の柄が嫌な汗を吸っていた。

小云の意識は、急に遠のいていく。脳裏に、断片的な映像が走馬灯のように駆け抜けた。ジムの鏡張りの壁。彼女がヌードモデルとしてポーズをとり、阿吉が貪るような視線を向けてくる。あの男の身体への欲望は露骨で、彼女はそれを内心で嘲笑していた。それでも、彼の視線は小云の肉体の価値を、俗世における最後の証明として彼女に与えていたのかもしれない。馬鹿げている。本当に、何もかもが馬鹿げている。彼女は心の中でそう呟いた。だが、もう後戻りはできない。永遠の美を手に入れるために、この生温い生を断ち切らなければ。小蒙の無邪気な「小云さん、次のセッションの予定は?」という声が、どこか遠くでこだまする。何も知らない純真な傍観者。先生傅の、電話越しに聞いたあの静かで職人的な声音。彼もまた、彼女の声に魅了されながら、今は加工するべき被写体として待っている。全てが、滑稽で、完璧な脚本のように感じられた。

大軍は歯を食いしばり、一歩踏み出した。彼の足音が、静寂を破る。小云の首筋に狙いを定め、渾身の力を両腕に込める。彼女の肌は、この瞬間のために彼が何度も愛撫した場所。あの滑らかさ、温もり、鼓動。今、それを二度と感じられない場所へと変えなければならない。彼の視界が涙で歪んだ。それでも、彼は彼女の決断を尊重すると誓ったのだ。彼女の究極の自己犠牲を、愛の形として受け入れると。

次の瞬間、空気を切り裂く鈍い音が部屋中に響き渡った。

――ドスッ。

それは、肉と骨を断つ無慈悲な衝撃音だった。斧の刃が、豆腐を切るように小云の白い首を容易く切り裂く。鋭利な鋼は頸椎の隙間を正確に捉え、抵抗らしい抵抗もなく通過し、そのまま深々と木の台座の溝へと食い込んだ。鮮血が勢いよく噴き出し、白い壁に赤い抽象画を描く。小云の身体が一瞬ビクンと跳ね上がり、それから全てが緩慢な時間の流れの中に放り出された。

彼女の頭部は、まるで重い果実が枝を離れるように、ゆっくりと台座から転がり落ちた。黒髪が血の海に広がり、顔は安らかな微笑を保ったまま、床の上を半回転して止まる。閉じられた瞼の下で、眼球が最後の痙攣を起こし、その後完全に静止した。

首のない身体は、しばらくその場に直立していた。まるで、失われた頭を探し求めるかのように、両腕がぎこちなく空中をさまよう。指先は空しく頭部のあった位置を掴もうとし、何度も虚空で開閉を繰り返す。それは、肉体に宿っていた生命の残骸が、必死に統制を保とうとする不気味な踊りだった。首の断面からは、心臓のポンプ作用でまだ血液が律動的に噴き出し、シュッ、シュッという微かな音を立てている。数秒の後、膝ががくんと折れ、身体は前のめりに倒れた。床に打ち付けられた衝撃で、傷口からさらに血が溢れ、四肢がカエルのように痙攣する。筋肉の反射が、死後もなお、彼女の鍛え上げられた大腿筋や上腕二頭筋を不随意に収縮させた。指の先が床を引っ掻き、細い傷跡を残す。やがて、それも弱まり、ついに全身がぐったりと動かなくなった。

大軍は斧の柄を離した。金属部分は台座に食い込んだまま、微動だにしない。彼はその場に膝をつき、震える両手で小云の血に濡れた切断面に触れた。ぬるりとした温かい血が指の間を伝う。彼の顔は涙と汗と返り血でぐしゃぐしゃだった。無言のまま、彼は崩れ落ち、彼女の身体にすがりついた。残された胸部はまだかすかに温かく、その白い肌には無数の赤い斑点が散っている。

彼はしゃくり上げながら、ゆっくりと身を屈めた。そして、震える唇で、小云の胸の先の紅い部分をそっと咥えた。それはただの肉の突起ではなく、彼が愛した女の、最も繊細な官能の象徴だった。舌の上に、鉄錆びた血の味と、石鹸の残り香が混ざる。彼は目を閉じ、まるで幼子が母親の乳房に吸い付くように、あるいは恋人への最後の別れのように、静かにそこに口づけた。涙が頬をつたい、彼女の冷えゆく肌の上に落ちて血と混じり合う。彼の心の中で、巨大な罪悪感と喪失感が渦を巻き、それでもなお、彼はその場所から離れられなかった。

部屋の隅で、換気扇だけが低くうなりを上げ、血の匂いを外へと吸い出していく。どこか遠くの作業場からは、先生傅が手にするメスの金属音が、規則正しく響いているようだった。葬送の鐘の音のように。

原料の引き渡し

更衣室の重い扉が、ゆっくりと開かれた。湿った空気とともに、むき出しの蛍光灯の光が廊下へと漏れ出す。まず現れたのは、大軍のたくましい腕だった。その両腕には、細くしなやかな裸の女体が横たえられ、まるで壊れ物でも扱うかのように、慎重に抱えられている。だが、その女体の首から上は、綺麗に失われていた。切断面は驚くほど平滑で、一滴の血も滴ってはいない。まるで精巧な蝋人形のようだった。

ジムのフロアにいた数人の客とスタッフが、一斉に息を呑んだ。静寂が広がる中、大軍の重いブーツだけが、無機質な床を踏みしめる音を響かせる。

小雲の裸体は、生前と変わらぬ滑らかな曲線を描き、薄暗い照明の下で陶器のように白く輝いていた。だが、大軍が一歩進むたびに、その太腿の付け根から、とろりとした白濁の液体が筋を引き、床に点々と跡を残していく。誰の目にも、それが何を意味するかは明らかだった。

「おいおい……」

壁にもたれかかってプロテインシェイカーを振っていた阿吉が、口笛を吹いた。彼の目は、死体の胸の膨らみと、だらりと開いた脚の間を舐めるように這い回る。

「こりゃあ、とんだ掘り出し物だな。いい素材じゃねえか。生前にひと目、裸を見ておきたかったぜ」

阿吉の軽薄な言葉に、数人の男たちが低く笑う。だが、大軍の無表情な横顔を見て、すぐに笑いを引っ込めた。大軍はまるで石像のように、一切の感情を見せず、ただ前だけを見つめていた。

その時、カウンターの奥から小蒙が慌てて飛び出してきた。彼は死体の首がないことに一瞬ぎょっとしたが、すぐに安堵の息を漏らした。

「あ、これでヌードモデルの手配がついたんですね! よかった、今日中に引き渡さないとプラスティネーション会社にキャンセル料取られるところだったんですよ。でも……お客様の死体、ですよね? ご遺族の許可は……」

小蒙は言葉を濁しながら、大軍の顔を窺った。しかし大軍は答えず、ただジムの入り口へと足を向ける。その背中には、言い知れぬ威圧感があった。

ガラスの自動ドアが開き、外の冷たい空気が流れ込む。ちょうどその時、黒塗りのバンが静かに歩道に横付けされた。無駄のない動きで運転席から降りた中年の男は、深い皺の刻まれた顔をほころばせ、助手席から工具箱を抱えた若いスタッフを連れて歩み寄る。老師傅と呼ばれるその男の目は、獲物を見つけた鷹のように鋭く、大軍の腕の中の死体に釘付けになった。

「お待たせしました、こちらがご依頼の……おや」

老師傅は、大軍が差し出すように前に掲げた裸体を見て、目を輝かせた。彼は近づくと、まるで美術品を鑑定するかのように、そっと死体の肩に手を触れ、その冷たい肌の質感を確かめる。

「素晴らしい。皮下脂肪の付き方も、筋肉の張りも理想的な原料だ。生前に相当なトレーニングを積まれていたと見える。これは極上の標本になりますよ」

老師傅はうっとりとした口調で褒め称えると、ふと顔を上げた。

「ところで、予約を入れてくださった小云という女性はどちらに? 電話で話した声が、大変に可愛らしい方でね。ぜひ直接ご挨拶を、と思っていたのですが」

大軍の口元が、ほんの僅かに歪んだ。それは微笑みと呼ぶにはあまりにも寂しげで、どこか狂気じみたものだった。彼はゆっくりと、持っていた裸体を老師傅たちの足元へ、ぞんざいに、だがどこか儀式的な仕草で投げ出した。死体はほとんど音もなく、冷たいアスファルトの上に横たわる。

「小雲なら、ちょっと出かけている」

大軍は低く押し殺した声で言った。その目は、開いたまま宙を睨む小雲の白い首筋の断面に、優しく注がれている。

「引き渡しは、俺が代わりにやる。彼女は生前、これが一番の望みだと言っていた。自分のすべてを、永遠の芸術に変えてほしい、とね」

老師傅は、死体と大軍の顔を交互に見比べ、何かを悟ったように静かに瞬きをした。彼はそれ以上は詮索せず、ただ深く息を吐き出す。

「そうですか……それは残念だ。あの声の主に、一度でいいから会ってみたかった。きっと、美しい方だったのでしょうな」

老師傅はしゃがみ込み、死体の冷たい手をそっと持ち上げると、まるで祈るように自分の額に触れさせた。そして、すぐにプロフェッショナルの顔に戻り、後ろのスタッフに目配せをする。

「搬送の準備をしろ。表皮を傷つけるなよ」

若いスタッフが慌ててバンから銀色のストレッチャーを取り出す。ジムの入り口では、阿吉が黙ってその光景を眺めていた。彼の手の中で、飲みかけのシェイカーだけが、かすかに揺れている。小蒙は何とか笑顔を作ろうとしたが、引きつった頬の筋肉は、まるで言うことを聞かなかった。

街の喧騒が、遠くでぼんやりと響いている。大軍は、ストレッチャーに固定され、白いシーツをかけられていく小雲の姿を、一歩も動かずに見つめ続けていた。彼の瞳孔は、まるでこの世のすべての光を吸い込んでしまうかのように、暗く深く沈んでいた。

プラスティネーション加工

親方は、白いシーツに包まれた裸体を前に、短く指示を飛ばした。

「頸椎に負荷をかけるな。容器の固定は最優先だ」

弟子たちは無言でうなずき、慎重に遺体を持ち上げた。死後硬直の解けた肢体はしなやかで、まるで深い眠りに落ちているかのようだった。脂肪の少ない引き締まった腹部、長く伸びた脚、鎖骨の繊細なライン。誰の目から見ても、鍛え抜かれた美しい身体だった。ただ、その首から上には、本来あるべきものがなかった。

別の弟子が、透明な保存容器を両手で抱えて近づく。ホルマリン液の中で、小雲の頭部が静かに浮かんでいた。閉じられた瞼、わずかに開いた唇。生前のあの透き通るような声は、もうどこにもない。

「工房の準備は」

「完了しています。二号処理室です」

親方は容器の蓋をそっと撫で、微かに眉を動かした。この声には、どこか聞き覚えがある気がする。しかし、それがどこでだったかは思い出せない。何しろ彼の仕事は、声を失った身体と向き合うことなのだから。

工房の空気は、ホルマリンとアセトンの刺激臭で満ちていた。壁一面に並んだステンレスの作業台、天井から吊るされた無数のクランプとワイヤー。蛍光灯の冷たい光が、空間のすべてを容赦なく照らし出す。

「まずは計測からだ。全身の寸法を記録しろ」

作業着に身を包んだ職人たちが、手際よく遺体を台に横たえる。一人がデジタルノギスを手に取り、頭頂部から頸椎切断面までの長さを測定し始めた。別の者は、肩幅、胸囲、腰回り、大腿部の周径を次々と記録していく。指の一本一本、爪の形、皮膚の皺、古い傷跡。すべてがデータ化され、生前の姿を完璧に復元するための資料となる。

「右の第二指、中節骨に微細な変形あり。おそらく幼少期の骨折痕」

「左膝外側に三センチの瘢痕。深さは〇・五ミリ」

職人の声は淡々としており、そこには感情の欠片もなかった。彼らにとって、これは一個の作品であり、完璧に仕上げるべき対象でしかない。

計測が終わると、洗浄作業に入った。温水を張った洗浄槽に身体を沈め、特殊な酵素溶液で皮膚の表面を優しくマッサージする。汗腺に残った脂質、角質層の老廃物、すべてを取り除く。小雲の生前、彼女自身がジムの鏡の前で見つめ続けたその肌が、職人の手によって無機質に清められていく。

「表皮の状態は極めて良好。弾力性も保たれている。生前のケアが行き届いていた証拠だな」

若い職人がそう呟くと、親方は黙ってうなずいた。確かに美しい肌だ。だが、彼の目はすでに、この身体をどう加工すべきかという計算で動いていた。

防腐処理は、総頸動脈と大腿動脈から行われた。カニューレを挿入し、血液と体液をすべて排出する。代わりに注入されるのは、赤色に着色された特殊なシリコンポリマーだ。本来ならば、死体は青白く変色するが、小雲の身体は生前よりもなお健康的な血色を取り戻していく。

一人の職人が、注射器で細かい血管の末端までポリマーを押し込みながら言った。

「本当に、珍しい注文ですね。頭部を別処理、身体は垂直固定。しかも穿刺棒を通す位置が――」

「口にするな」

親方が鋭く遮った。

「依頼主の指定だ。我々はそれに従うだけだ」

職人は口をつぐみ、作業に戻った。

親方は手元の書類をめくる。依頼主は「小雲本人」と記されていた。生前契約によるプラスティネーション加工。頭部は別途、独立した展示標本とする。身体は骨格標本ではなく、軟組織を保持したまま、ある特異な姿勢で永久固定する。そしてそのために、陰部から頸椎切断面まで、専用の穿刺棒を通すこと――。

彼はもう一度、書類と遺体を見比べた。この身体の主は、なぜそんなことを望んだのか。理解しようとは思わない。ただ、依頼内容を完璧に実行するのみだ。

準備が整ったのは、それから四時間後のことだった。

「垂直固定の準備」

親方の声で、作業台が別室へと移動される。そこには、天井から床まで伸びる太い支柱を備えた専用の固定フレームがあった。職人たちは慎重に遺体を持ち上げ、脇の下と腰部を支持帯で仮固定する。両腕は自然に垂らし、脚は肩幅に開いた状態で、足裏を床に固定した。まるで、その場に立ち、何かを待っているかのような姿勢だった。

次に、冷凍庫から運ばれてきたのは、全長八十センチ、直径三センチのステンレス製穿刺棒である。表面は鏡面加工され、先端は滑らかに丸みを帯びていた。

親方は自ら手袋をはめ、穿刺棒を受け取った。

「角度、深度、いずれも許容誤差は〇・二ミリ以内だ」

彼は低い声で言い、職人たちの顔を見回した。

「これは作品の骨格となる。魂の入らぬ身体に、構造を与えるものだ。決して傷をつけるための道具ではない。わかっているな」

全員が無言でうなずく中、親方は遺体の正面に立った。彼の手の中で、棒の先端がゆっくりと所定の位置に触れる。冷たい金属と、ポリマーで温もりさえ感じさせる肌との対比が、蛍光灯の下で妙に生々しかった。

「始める」

親方の手が、正確に、ゆっくりと動き出す。抵抗は少なかった。事前に軟組織の水分を調整してあるため、金属はまるで長年そこに道があったかのように滑り込んでいく。骨盤内臓器の間を抜け、腰椎の前方を通り、横隔膜を貫き、心臓のあった空洞の脇をすり抜ける。食道と気管の間、かつて声帯の震えていたそのすぐ背後を、棒は無音で進んだ。そして、頸椎の切断面から、その先端が姿を現した。

「深度、誤差なし。角度、指定通り」

計測係の声が響く。親方は小さく息を吐き、棒の下端を床の固定穴に差し込んだ。

この瞬間、小雲の身体は一本の支柱によって垂直に支えられた構造物となった。

細部の仕上げは、さらに神経を使う作業だった。

親方は、棒が貫通した陰部周辺の皮膚を、特殊な接着剤と縫合で補強しながら、一人の職人に指示を飛ばす。

「大陰唇のシリコン注入は、層を三段階に分けろ。表皮、真皮、皮下組織で濃度を変える。生前の弾力を再現しなくてはならん。美術館に展示するわけではないんだ。これは、本人の生きた証だ」

彼の口調には、いつにない熱がこもっていた。もちろん、彼はプロフェッショナルとして、あくまで技術的な完璧さを追求しているにすぎない。だが、その言葉を耳にした職人たちは、親方がこの作品に特別な何かを感じ始めていることを薄々察していた。

「手指の固定角度、修正。人差し指が三度、内側に傾いている。生前の骨格データを確認しろ」

「左足、第四趾の爪。スカルプチャー処理の際に〇・一ミリ削りすぎだ。やり直し」

指示は細部に及び、作業は深夜まで続いた。誰もが限界まで集中力を研ぎ澄ませていたが、親方の目だけは、一度も鈍ることがなかった。

彼は遺体の正面に立ち、頭部のない身体を見上げる。穿刺棒に支えられ、垂直に立つその姿は、ある種の宗教的なオブジェを思わせた。けれども、親方の胸に去来したのは、芸術的な感動とは別の、もやもやとした感覚だった。

彼は、この身体が放つ空気に、どこかで触れたことがある気がしてならなかった。もちろん、この身体そのものではない。こんなにも徹底的に加工を施すのは、キャリアの中でも初めてのケースだ。そうではなく、もっと別の、ずっと以前の、仕事以外の場面で――。

彼はふと、保存容器に視線を移した。ホルマリン液の中で、小雲の顔が静かに彼を見つめ返している。その口元は、ほんの少しだけ、微笑んでいるかのようだった。

「親方、頭部の処理は明朝からですか」

若い職人の声で、親方は我に返った。

「ああ、そうだな。今日はここまでにしろ。最終の防腐チェックだけ済ませて、身体は湿度管理室へ」

職人たちが片付けを始める中、親方はもう一度だけ、遺体の指先に触れた。シリコンが行き渡り、生気こそ失われているが、それでもなお、その手は何かを掴もうとしているように見えた。

親方は無意識に、自分の声が届くかどうかもわからぬまま、呟いていた。

「あんた、どんな声で、どんな言葉を話していたんだ」

もちろん、返事はない。ただ、ホルマリンの液面が、空調の微かな振動で揺れただけだった。

彼は首を振り、作業着の襟を正すと、工房の照明を落とした。暗闇の中、垂直に立つ身体は、輪郭だけを浮かび上がらせて、そこに在り続けた。

作品完成

脱水槽から引き上げられた時、その肢体はもはや生前の色を完全に失っていた。アセトンが細胞内の水分と脂肪を徹底的に置換し、組織は驚くほど繊細な構造を保ったまま、蝋細工のような半透明の硬質へと変貌している。老师傅は薄手のゴム手袋をはめた両手で、標本を注意深く真空チャンバーへと移動させた。

「含浸は三週間。シリコンポリマーの粘度、これまでで一番低いものを使う」

助手にそう告げる声は、いつもと変わらぬ冷静さをたたえている。だが胸の奥底で、言葉にできぬ焦燥が渦巻いていた。この身体の主は誰なのか。なぜ頭部だけが別途処理され、密封保存という異例の措置が取られたのか。依頼書には「身元秘匿のため、頭部は永久非公開」とだけ記されている。

真空ポンプが低く唸りを上げ始めた。チャンバー内部の圧力が徐々に下がり、残留した空気が微細な気泡となってシリコン液面から浮かび上がる。老师傅は強化ガラス越しに、その光景を食い入るように見つめていた。まるで標本そのものが呼吸しているかのような錯覚。いや、これは錯覚ではない。シリコンが組織のすみずみまで浸透し、細胞レベルの空隙を埋め尽くしていく過程そのものが、新たな生の獲得にも等しかった。

三週間後、チャンバーから取り出された標本は、硬化炉で七十二時間の加熱処理を経て、ついに最終段階を迎えた。老师傅が白い布を取り去った瞬間、作業場の蛍光灯の光を受けて、その身体がほのかに透き通って輝く。

立ち姿のまま固定された女性の裸体像。首から上は存在しない。だが、それ以外のすべてがあまりにも完璧に保存されていた。鎖骨の繊細な曲線、肋骨の微妙な起伏、そして胸の膨らみは生前の柔らかさを思わせる丸みを帯び、乳首の小さな突起までもがそのままの形で固定されている。腹部の皮膚は平滑で、へそのくぼみまで自然な陰影を残している。さらに視線を下ろせば、股間部のデリケートな襞の一本一本まで、まるで今にも息づくかのような生々しさで再現されていた。

老师傅は無言で標本の周囲を一周した。背中側に回ると、肩甲骨の張り出しや脊柱の緩やかな湾曲、臀部から太腿後面にかけての筋肉の流れが、見事なまでに保持されている。プラスティネーション技術の粋を尽くした傑作だった。

だが。

ふと、あの声が聴こえた気がした。数ヶ月前、ジムの受付からかかってきた電話の向こうで、静かに、しかし確かな決意を込めて「モデルを希望します」と告げた女性の声。あの時、なぜもっと強く面会を求めなかったのか。声の主に一度でいいから会っておくべきだったのではないか。

「先生、頭部の保管容器の準備が整いました」

助手の声に、老师傅は現実に引き戻された。隣室では、別途プラスティネーション処理を終えた頭部が、特製の密封ケースに収められようとしている。誰にも見られることなく、永遠に闇の中へと封印される運命にある頭部。依頼者の固い意志が、そこには働いていた。

老师傅は最後に、標本の切断面に視線をやった。首の付け根で綺麗にカットされた断面には、気管や食道、血管、脊椎の精緻な断面構造が、まるで解剖図譜のように露出している。これもまた、一つの作品としての完成形だった。

「永遠を望んだのか」

思わず呟いた言葉は、作業場の静寂に吸い込まれて消えた。目の前にあるのは、生でも死でもない、全く新しい存在様式を獲得した人体だ。腐敗もせず、老いもせず、ただ在り続ける肉体。それが彼女の求めた美の極致だったのだろうか。

手を伸ばし、標本の肩にそっと触れる。硬質なシリコンポリマーの感触。体温も脈動もない。だが、そこには確かに、一人の人間が生きた証としての身体が存在していた。胸の奥に、埋めようのない喪失感が広がる。それは作品の完成に立ち会うたびに味わう種類の感情とは、明らかに異質なものだった。

作業着のポケットから、一枚のメモ用紙を取り出す。依頼書に添付されていた、手書きの短い文言。

「私の選択を、どうか美しいと思ってください」

老师傅はその文字をしばらく見つめた後、メモを慎重に折り畳んで白衣の内ポケットにしまった。そして作業台の上の標本に向かい、ほとんど無意識に、一礼した。

蛍光灯が静かに点滅する。無人の作業場に、首のない裸体立像だけが立ち続けている。胸元には、プラスティネーション技術によって永遠に固定された、生前そのままの肌のきめ細かさが、冷たく輝いていた。

裸模入館

午後三時を回ったばかりの帝都フィットネスクラブには、まだ会員の姿はまばらだった。フロア中央の換気口からはエアコンの微かな駆動音が絶え間なく響き、壁一面の鏡が空っぽのトレーニングマシンと積み重ねられたヨガマットを無数に映し出している。小蒙はカウンターの内側でだらりと携帯を弄りながら、たまに顔を上げては出入り口のガラス扉を一瞥していた。彼の視線は、ちょうど駐車場に停まった無地の白いバンに向けられた。

運転席のドアが開き、作業服姿の中年男が降り立つ。彼は手にしたクリップボードの書類を確かめると、荷台の方を向いて短く声をかけた。同時に荷台の観音扉が開かれ、もう一人の若い作業員と共に、巨大な長方形の木箱を慎重にプラットフォームの端まで引き出してくる。木箱は厚い工業用テープで厳重に封がされ、側面には「美術標本・取扱注意」と赤いスタンプが押されていた。二人は台車を使ってそれをゆっくりと地面に下ろすと、ガラガラと音を立てながらジムの入口へと押し始めた。

小蒙は携帯を置くと、慌ててカウンターから立ち上がり、自動ドアを解除した。作業服の中年男が一歩踏み入ると、真夏の熱気とわずかなホルマリンにも似た刺激臭が、クーラーの効いた室内に流れ込んでくる。

「プラスティネーション帝都からです。予定の品を届けに参りました。責任者の方にご確認いただきたいのですが」

男は平坦な口調で、手にした伝票を小蒙に向けた。

「あ、あの、ちょっとお待ちください。俺、呼んできます。社長は……ああ、いや、大軍さんを」

小蒙はどもりながら言い、踵を返して小走りに社長室の方へ消えた。

しばらくすると、奥の廊下から大軍が現れた。タンクトップの上に羽織った薄手のジャケットが、鍛え抜かれた肩と背中の輪郭を透かしている。彼は無表情のまま二人の作業員の前に立ち、木箱を無言で見下ろした。光を帯びた鋭い目が、ほんの一瞬だけ何かを堪えるように細められる。

「ここに置いてくれ」

大軍はジムの中央を指さした。そこには、天井から降りる二本のスポットライトが作り出す光の円の下、突き立つように一本の金属棒が据え付けられている。磨き上げられたステンレスの棒は高さが二メートルを超え、床面にしっかりとボルトで固定されていた。その輝きは前日まで存在しなかったもので、大軍自身が昨夜、一人で黙々と設置したものだった。

中年の作業員が頷き、相棒と共に木箱を光の円の中へと押し進める。彼らはバールを使って丁寧に蓋をこじ開けると、中に詰められた発泡緩衝材を一枚一枚取り除き始めた。ジム全体が水を打ったように静まりかえり、空調の低い唸りだけがその空間を支配する。やがて全ての梱包が取り払われた時、そこに横たわっているものの全貌が、白いスポットライトの下に晒された。

裸像である。

だが、それは石膏でも大理石でもない。化学的に水分と脂肪を合成樹脂に置換された本物の人体、すなわちプラスティネーション標本が、そこに無言で横たわっていた。皮膚はわずかに硬化し、ほのかな琥珀色を帯びながらも、その弾力を目の当たりに想起させる滑らかな輝きを保っている。首の断面は滑らかで、骨、筋肉、血管の層構造が解剖図のように克明に露出していたが、巧妙な仕上げによって、切断面そのものがひとつの完成された美術表現のようにも見えた。

二人の作業員は手慣れた連携で裸像を垂直に抱え上げ、金属棒に沿わせるように立てかける。床に隠されていたロック機構が噛み合う鈍い金属音が響き、裸像は確固として真っ直ぐに固定された。像はもはや横たわる物質ではなく、屹立する存在として、天井の照明に全身を照らし出されている。

それは紛れもなく若い女性の裸体だった。肩のラインから滑らかに下降する背骨の湾曲は優美そのもので、腰のくびれは芸術家のデッサンのように計算され尽くしている。臀部から太腿へと至る丸みを帯びた肉づきは、弾性を失った後もなお、重力に逆らうかのように豊かに盛り上がって見える。乳房は生前の張りを硬く閉じ込めたまま、頂点をわずかに上向かせ、スポットライトの白熱を二つの小さな影に変えていた。全身を覆う透明な保護樹脂が、微かな光沢の膜となって、死後の肉体に永遠の生命を与えているかのようだった。

大軍は直立したまま、その裸像を仰いだ。彼の視線は、像のなめらかな腹筋の割れ目をなぞり、肋骨の上品な浮き上がりを追い、そして最終的に、存在しないはずの首の空間で静止する。彼の右手が無意識のうちに握り拳を作り、指の関節が白く浮き出た。

「すげえ……なんだこれ」

最初に声を発したのは、いつの間にか背後に集まっていた会員の一人、阿吉だった。彼は大量の汗をタオルで拭きながら、裸像の周囲をゆっくりと回り始める。その目は極度の興奮と本能的な欲望に輝き、視線は像の胸部と股の間を這うように行き来している。

「おいおい、本物のプラスティネーションかよ。本物の、あれだろ。すげえ……これをジムに飾るなんて、どういうセンスだよ」

阿吉はそう言ってニヤリと笑い、無遠慮に手を伸ばして像の腿の外側に触れようとした。

「触るな」

大軍の声が低く響いた。それは怒鳴るような音量ではなかったが、凍りつくような威圧感を帯びていた。阿吉の手がびくりと止まる。

「施術済みの標本だが、皮脂の付着は厳禁だ。館内のルールに追加しておく。今後これに手を触れた会員は、即刻退会してもらう」

大軍はそう言うと、きびすを返して社長室の方へ歩き出した。彼の横顔には、阿吉にも小蒙にも決して読むことのできない、暗く沈んだ感情が貼り付いていた。

阿吉は大軍の背中をしばらく見送った後、肩をすくめると、改めて裸像に向き直った。

「わかったよ、見るだけだ。見るだけなら良いんだろ。しかし、信じらんないな、帝都で一番完璧な裸体像だぜ、こりゃ。どこの女だ?モデルは」

誰にともなくつぶやかれたその言葉に、周囲に集まった他の会員たちも、口々に感嘆の声をあげ始めた。筋肉質の男たちが、重量挙げのベルトを締めたまま、何人も像を取り囲む。彼らはボディビルの競技者たちで、人間の身体の造形美に関しては独自の審美眼を持っていた。その彼らが一様に称賛の目を向けている。

「この大腿四頭筋の分離、半端じゃないぞ。外側広筋の張り出しが見事だ」

「腹筋のシックスパックも完璧だ。しかも女性らしい華奢さを残しながら、このカットってのがね」

「何より乳房の形が美しい。筋肉と脂肪のバランスが黄金比だよ」

阿吉はそんな会話を聞きながら、像の正面に立ち、じっとその胸元を見つめていた。もし首があって顔があれば、彼はきっとその顔に向かって、軽薄な誘い文句の一つも口にしただろう。しかし、無い。首の切断面は樹脂で封じられ、そこには個人のアイデンティティも、感情も、意思も存在しなかった。ただ完璧な肉体だけが、沈黙のまま阿吉の視線を受け止めている。彼はそれがひどくぞくぞくするほど刺激的だ、と思った。同時に、胸のどこかに小さな棘が刺さったような違和感も覚えたが、その正体に気づこうとはしなかった。

その時、カウンターの電話が、場違いなほど明るい電子音で鳴り響いた。小蒙は慌ててカウンターに戻り、受話器を取る。

「はい、帝都フィットネスクラブです。……え?小雲さんですか?」

小蒙の声に、像を眺めていた数人の会員たちが、ほんの一瞬だけ反応した。阿吉も顔を上げる。小蒙は電話口の相手に何度か相槌を打った後、「少々お待ちください」と言って保留ボタンを押した。

「大軍さーん!小雲姐さんの連絡先を聞かれてるんですけど、出張中だって伝えていいですか?」

小蒙が社長室に向かって声を張り上げると、すぐにドアが開き、大軍が姿を現した。彼の顔色は紙のように白く、目の下には短い睡眠不足の痕がくっきりと浮かんでいる。

「出張だ。急な地方案件で、しばらく戻らない。誰からの電話だ?」

「えーと……プラスティネーション帝都ってとこの、ベテラン技師の方だそうです。何でも前に小雲姐さんと話をしたことがあって、声が忘れられないから直接会いたいって」

小蒙が無邪気にそう伝えると、大軍の眉がぴくりと動いた。彼は受話器を受け取り、保留を解除した。

「小雲は不在です。長期間の出張に入りました。二度とここには戻りませんので、連絡は控えてください」

大軍はそう端的に言い放つと、相手の返事を待たずに電話を切った。受話器を置く動作は荒く、プラスチックがカウンターに当たって乾いた音を立てる。

「大軍さん、本当に小雲姐さん、急に出張なんですか?昨日まであんなに元気だったのに」

小蒙が怪訝そうな顔で尋ねる。大軍は答えなかった。代わりに彼の目は、ジムの中央に立つ首のない標本に向けられていた。スポットライトの下で、裸像はあたかも生きているかのように、完璧な曲線を誇示し続けている。そのふくらはぎの滑らかな張り、腰の窪み、乳房の優美な弧……大軍はその全てを、指先の感覚として覚えていた。温かく柔らかだったそれらが、今は冷たく硬直している。自分がこの手で、首に鋼の刃を振り下ろしたのだ。あの瞬間、小雲の唇は微かに開き、声にならない言葉を紡いでいた。それは感謝だったのか、呪詛だったのか、今となっては確かめようもない。大軍は人差し指の付け根に、今朝も繰り返し磨いたというのに、まだ鉄の匂いが染みついているような錯覚に囚われた。

電話を切られた向こう側、プラスティネーション帝都の作業フロアでは、ベテラン技師の老师傅が、小さく息を吐いて受話器を置いた。彼の背後では、次の標本のための脱水槽が低く唸り、アセトンの冷たい化学臭が室内を満たしている。老师傅は聴診器を外すと、皺の深い手で目頭を揉んだ。

「声の持ち主に会えなかったか……。あの声で、どれほどの標本が救われるかと思ったんだが」

彼は独り言ち、壁に掛けられた工程表に目をやる。今日中に処理すべき新しいドナーはない。しかし明日には、また一体、全身のプラスティネーション依頼が届く予定だった。彼は白衣のポケットからメスを取り出し、光にかざして刃先を確認する。彼にとって肉体とは、完璧に処理されるべき素材であり、声や顔は、時にその作業を妨げる雑音に過ぎない。それでも、電話の向こうで聞いたあの震えるような美声だけは、別だった。老师傅は顔も知らないその女性が、標本になりたいと自ら申し出たことを思い出し、少しだけ、本当に少しだけ、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。

ジムでは阿吉が、名残惜しそうに裸像の最後の一瞥をくれた後、仲間たちと共にトレーニングエリアへ散っていった。小蒙はディスプレイ用の柵を持ち出し、大軍の指示に従って裸像の周囲に簡易な立ち入り禁止線を設置している。大軍は壁にもたれ、腕を組みながらその作業を眺めていたが、彼の瞳はもはや、この場のどこにも焦点を結んでいなかった。

裸像は、ただ無言で、光の中心に立っていた。筋肉の微細な繊維までもが、死を克服した証のように、永遠に若々しい肉体を主張している。その背中には、生前に大軍が何度も優しく触れた肩甲骨のささやかな翼が、静かに浮かび上がっていた。だがそれを知る者は、この館にはもう彼しかいない。大軍は深く息を吸い込むと、ヒリつくような防腐剤の残り香を肺いっぱいに満たし、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏には、笑顔の小雲が、彼の名を呼ぶ最後の瞬間だけが、焼き付いて離れない。