いつものように、帝都の片隅にあるそのフィットネスクラブは、朝の静けさに包まれていた。鏡張りの壁が、まだ人のまばらなフロアを冷たく映し出す。小云はカウンターに肘をつきながら、スマートフォンを耳に当てていた。受話口からは、わずかにくぐもった男の声――老師傅と呼ばれる、プラスティネーション会社のベテラン技師の声がする。
「……承知いたしました。全身のプラスティネーション処理ですね。ただ、通常は解剖と保存の工程で専門の執行者が立ち会うのですが、今回のご依頼では、処刑は『身内が担当する』と。よろしいのですか?」
「ええ」小云の口調は、どこまでも穏やかだった。まるで天気の話でもするかのように。「その方が都合がいいんです。彼が全てを終わらせてくれる。頭部と胴体は別々の処理にしてください。それから、事前の清掃作業も、できる限り丁寧にお願いします。血液や体液が完全に抜けるまで、時間をかけてもかまいませんから」
電話の向こうで、老師傅が息を呑む気配がした。彼はこれまで数多くの遺体を加工してきたが、自らをモデルとして差し出す依頼者は初めてだった。しかも、その声はひどく若く、どこか耳に残る甘やかな響きを帯びている。一度聞いたら忘れられない声だった。老師傅は相手の顔を想像しようとしたが、どうしても輪郭が浮かばない。
「モデルのご本人と、お会いすることは可能でしょうか。最終的な仕上がりのイメージを共有したいのです」
「それには及びません。寸法やポーズの指示は、後ほどメールで送ります。明後日には、ちゃんと現物がそちらに届く手はずですから」
小云はそれだけ言うと、一方的に通話を切った。彼女の細い指が画面をスワイプし、着信履歴を消去する。カウンターに立てかけてあった小さな手鏡に、自分の顔が映る。瞳の奥には、澄みきった光があった。
フィットネスクラブの空気が、かすかに動いた。入り口の方から、聞き覚えのある足音が近づいてくる。阿吉だった。彼はいつものようにタンクトップ姿で、鍛え上げた胸筋を誇示しながら、小云ににじり寄った。
「よお、今の電話、何だか物騒な単語が聞こえたけど。またモデルの依頼か?」
阿吉は好奇心を隠そうともせず、値踏みするような目つきで小云の全身をなめ回す。彼はこのクラブの常連で、ボディビルとヌードモデルの撮影に熱中していた。小云の肉体に、ずっと秘かな欲望を抱いているが、それはあくまで表層的なものだ。彼女が纏う内面の冷ややかな情熱には、まったく気づいていない。
「ええ」小云はゆっくりと頷き、口元にうっすらと微笑みを浮かべた。「あなたも楽しみにしてくれていいわよ。遅くとも明後日には、すばらしい作品を納品できるから。きっと、このクラブの起死回生の一手になるわ」
「そりゃあいい。どんな女だ? やっぱり、お前みたいに完璧な身体なのか?」
「私より、ずっとね」
短く答えると、小云はそれ以上話を続けず、スタッフルームの奥へと消えた。阿吉は肩をすくめ、何かつまらなそうにトレーニングマシンへ向かう。小蒙という若いスタッフが、拭き掃除をしながらその場面をぼんやりと見ていたが、彼にはただの日常の一こまに過ぎなかった。
小云は更衣室の重い扉を閉め、鍵をかけた。防音加工された室内は、外の喧騒を完全に遮断し、ひんやりとした静寂が満ちている。ロッカーに寄りかかりながら、彼女は一枚ずつ衣服を脱ぎ捨てた。タイトなウェアがするすると滑り落ち、淡い照明の下に、彫刻のような肩のライン、くびれた腰、しなやかな太腿が露わになる。最後に下着を脱ぐと、彼女は全身が映る姿見の前に立ち、まっすぐに自分を見つめた。
鏡の中の肉体は、生きた芸術品だった。筋肉は過度につきすぎず、皮下脂肪は紙のように薄く、骨格の美しさが透けて見える。胸の膨らみは重力に逆らうように上向き、腹部にはうっすらと影が落ちる縦の線が刻まれている。彼女は右手を持ち上げ、ゆっくりと下腹へと滑らせた。毛の一本もない滑らかな恥丘に指が触れると、そこはひんやりと湿っていた。指先でなぞるたびに、淡い電流が背筋を駆け上がる。
「これでいいのよ」
彼女は声に出さずに呟く。裸体モデルとしてプラスティネーション処理される自分の姿を、何度も想像してきた。防腐処理を施された皮膚は、シリコンポリマーに置き換わり、永遠にこの完璧な曲線を保つ。頭部は切り離され、別のケースに収められるが、視線は永遠に遠くを見つめ、謎めいた微笑みを浮かべるだろう。人々はその標本を眺め、美に圧倒される。そして、このフィットネスクラブは、かつての繁栄を取り戻す。
小云の心の声が、過去を静かに呼び覚ます。ちょうど一年前、帝都に奇妙な流行が訪れた。プラスティネーションという、生物標本を樹脂で保存する技術が、いつしか人体の美を競う狂騒へと変貌していたのだ。死体を芸術品に仕立て上げ、展示会を開く会社が続々と現れた。なかでも、美女の全裸標本は飛ぶように売れ、そのモデルを提供したジムやクラブは、会員数を倍増させていった。一方、ここ「琳瑯フィットネス」は旧態依然とした営業を続け、客足はみるみる遠のいていった。
小云はこのクラブを、大軍と二人で守ってきた。大軍は彼女の恋人であり、トレーナーであり、ある意味では死刑執行人としての役割をも、密かに引き受けることを承諾している。彼は小云を深く愛し、何度も思いとどまらせようとした。しかし、彼女の中には、自己犠牲への病的なまでの執着があった。永遠の美を手に入れること。そのためなら、愛する者の手で生命を終わらせることさえ、甘美な儀式に思えた。
「大軍には、悪いことをするわ」
鏡の中の自分に語りかけるように、彼女はそっと唇を開いた。大軍の苦しむ顔が脳裏をよぎるが、それさえも、完成する作品の一部のように感じられる。彼女は深く息を吸い込み、更衣室の空気を肺いっぱいに満たすと、静かに目を閉じた。
これで全てが決まったのだ。明後日、彼女の身体は処刑室へと運ばれ、大軍の手で終止符を打たれる。その後、老師傅の工房へと送られ、頭部と胴体の別々の標本として、永遠に琳瑯フィットネスに飾られることになる。小云はすでに、自分の不在を埋める段取りも整えていた。誰も、本当の真相を知る者はいない。阿吉も、小蒙も、何も知らぬまま、美しい裸体の標本をただ眺めるだけだ。
彼女はもう一度、恥丘をそっと撫で上げ、胸の先端を指でつまんだ。その刺激に、小さく身体が震える。生の感覚が、かえって死の静けさへの憧れを強くするのだった。やがて彼女はゆっくりとまぶたを開け、脱いだ衣服をロッカーに仕舞うと、落ち着いた手つきで新しいウェアに着替え始めた。
更衣室の外では、いつもと変わらぬクラブの喧騒が戻りつつあった。重りが落ちる金属音、トレッドミルの駆動音、そして阿吉のけたたましい笑い声。小云はそのすべてを包み込むように、微笑をたたえたまま、静かに扉を押し開けた。