第5章 親友の参加
あの夜、私は独房の隅で丸まっていた。全身の痛みが波のように押し寄せる。新しい傷、古い傷、それらが混ざり合って私の体を覆っていた。もう何日経ったのかも分からない。ただ、与えられる食事を食べ、与えられる命令に従う。それだけの日々が続いていた。
扉が開く音がした。私は反射的に体を縮めた。また新しい「仕事」が来るのだろうか。
「蘇婉?」
その声に、私ははっと顔を上げた。聞き覚えのある声だった。いや、そんなはずはない。ここに来るはずがない。
「趙……薇薇?」
薄暗い光の中で、彼女の姿が見えた。私の親友、趙薇薇。彼女は高級そうなワンピースを着て、真珠のネックレスを揺らしていた。彼女の美しい顔に浮かぶ表情は――複雑だった。驚きと、哀れみと、そして何か別の感情が混ざっているように見えた。
「まさか……本当にあなただったのね」
彼女はゆっくりと近づいてきた。私は無意識に後退しようとしたが、壁に阻まれた。
「薇薇……なぜ、ここに?」
声が震えていた。恥ずかしさで死にそうだった。彼女にこんな姿を見られるなんて。かつて私が指導し、助けていた後輩であり親友に、こんな惨めな姿を。
彼女の目が、私の全身を舐めるように見つめた。裸に毛布を巻いただけの私の姿。体中の傷跡。首の鎖。彼女の目が悲しげに曇った。
「脚本を書き直すために呼ばれたの。夏夢琪さんから直接依頼があったわ」
脚本を書き直す? 私の作品を?
「あなたの代わりに、新たな脚本家として私が参加することになったの」
その言葉が、雷のように私の頭を打った。私の親友が。私の後輩が。私の代わりに。
「そう……なんだ」
なぜか、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、安堵に近い感情があった。少なくとも、私の作品は彼女に託される。彼女なら、私の意図を理解してくれるはずだ。
「ねえ、蘇婉。あなた……ちゃんと食べてるの?」
彼女はしゃがみ込み、私の頬に手を触れた。その手は温かかった。久しぶりに感じる温もりだった。
「食べてるわ。最低限は」
「ひどいわね。こんなに痩せて……」
彼女の目が潤んでいた。本心から私を心配しているように見えた。私は誤解していたかもしれないと思った。彼女は本当に私を助けに来たのかもしれない。
「ありがとう、薇薇。でも、もういいの。これが私の運命だから」
私は無理に笑った。彼女の心配そうな表情を見ていると、逆に自分が救われるような気がした。
「そんなこと言わないで。私が何とかするから」
彼女は強く私の手を握った。その手の温もりが、心の奥深くに届いた気がした。
数日後、状況は変わった。
趙薇薇は定期的に私の独房を訪れるようになった。最初は心配と励ましだけだった。食べ物を持ってきたり、薬を持ってきたりしてくれた。彼女はいつも優しかった。
「薇薇……ありがとう」
「そんなこと言わないで。私たち、親友でしょ」
彼女の笑顔に、私はどれだけ救われたか知れない。この地獄のような撮影所で、たった一人の味方。それがどれほど心強かったか。
しかし、変わったのはそれだけではなかった。
ある日、夏夢琪が私の前に現れた。彼女は高級そうなドレスを着て、優雅に椅子に座っていた。
「蘇婉、お知らせがあるの。あなたが知っている趙薇薇を、私たちのプロジェクトに正式に迎え入れることにしたわ」
私は顔を上げた。プロジェクト? 何のことだろう?
「本作の脚本の大幅なリライトを彼女に依頼したの。それから――」
彼女は微笑んだ。その笑顔には、何か危険なものを感じた。
「今回の撮影の特殊演出として、新しい役割を彼女に与えることにしたの」
「新しい役割?」
夏夢琪は手を叩いた。すると、趙薇薇が部屋に入ってきた。彼女は私とは違い、美しい服を着て、化粧もきちんとしていた。
「薇薇……?」
「蘇婉」
彼女は近づいてきた。その顔には、先日まで見せていた優しさの代わりに、何か冷たいものがあった。
「彼女には、あなたの『トレーニング』を一部任せることにしたの。プロとしての視点から、より自然な演出ができると思うから」
夏夢琪は平然と言った。トレーニング? その言葉の意味が、私の脳裏をよぎる。まさか……
「嫌よ! 薇薇にそんなことをさせるなんて!」
「嫌?」
夏夢琪は冷たく笑った。
「あなたに選択権があると思っているの?」 彼女は立ち上がり、私の前に立った。
「今のあなたは、撮影所の公共奴隷よ。プロジェクトの都合に合わせて、好きに使われるのが当然でしょ」
「でも、薇薇は私の親友で……」
「親友だからこそよ」
趙薇薇が口を開いた。その声には、温かさのかけらもなかった。
「親友だからこそ、一番あなたのことを理解している。一番あなたの反応が予測できる。一番リアルな演技を引き出せるの」
「薇薇……どうして……」
私の声は震えていた。裏切られた絶望が、ゆっくりと全身を蝕んでいく。
「どうして? ずっと思ってたのよ。なぜあなたがトップに立つのかって」
彼女の目が冷たく光った。
「あなたよりも私の方が才能があるのに。あなたよりも私の方が美しいのに。なぜいつもあなたが評価されるの?」
その言葉が、私の心を深くえぐった。そうだったのか。彼女はずっと、私を妬んでいたのだ。私に助けられたふりをして、ずっと復讐の機会をうかがっていたのだ。
「でも、今は違う。今度は私の番よ」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、美しかった。けれど、その瞳の奥には、邪悪な光が宿っていた。
「さあ、これからよろしくね『私の親友』」
その日から、私の地獄はより深くなった。
趙薇薇は、驚くほどの熱意を持って私の「トレーニング」を監督した。彼女は脚本家としての知識をフルに活用し、私に最も深い屈辱を与える方法を次々と考案した。
「こういう時は、もっと体を震わせた方がいいわよ。観客が喜ぶから」
「声はもっと大きく。苦痛を感じていることをはっきり表現して」
「オッケー。今の表情は完璧だわ。恐怖と絶望の混じった顔がよくできてる」
彼女はカメラの前で私を指導した。かつて私が彼女に演技指導をしたように。ただし、その内容はまったく逆だった。私は彼女の指導に従い、傷つき、辱められ、観客の欲望を満たす存在へと変えられていった。
「どうしたの、蘇婉? そんな顔をして。私の指導が気に入らない?」
彼女はいつも優しく微笑んだ。その姿は、かつて私が知っていた趙薇薇そのものだった。しかし、その瞳は違っていた。冷たく、計算高く、私の苦痛を楽しんでいる目。
「いいえ……そんなことありません……」
私は力なく首を振った。抵抗する力はもう残っていなかった。
「そう。それでいいのよ。あなたは今、私の作品の一部なんだから」
彼女は私の髪を撫でた。その手つきは優しかった。まるで、自分のペットを可愛がるように。
「さあ、次のシーンを始めましょう。今日のメインは、あなたが犬のように這いながら、私に許しを請うシーンよ」
私は無言でうつ伏せになった。もう反論する気力もなかった。ただ、与えられた役割をこなすだけ。それが、私に残された唯一の選択だった。
「もっと深くお辞儀して。もっと哀れっぽくお願いして」
彼女の声が、鞭のように私を打つ。私は彼女の言う通りに体を動かす。自分の意志ではなくなった体が、機械的に動く。
「素晴らしいわ。完璧なリアクションね」
彼女の拍手が響く。その音が、私の自尊心の最後の欠片を粉々に砕いていく。
その日の夜、私は独房で一人、傷を抱えて横たわっていた。新しくできた傷口は血を滲ませ、痛みが全身を駆け巡る。
「なぜ……なぜこんなことに……」
私は天井を見上げた。かつての自分は、こんな場所で泣いているとは夢にも思わなかった。輝かしいスクリーンの裏側の、この暗い世界で。
「ねえ、蘇婉。聞こえる?」
突然、趙薇薇の声が響いた。天井のスピーカーからだった。監視カメラのシステムを通して、彼女は私の様子を上から見ていた。
「今夜は特別に、あなたの好きなように過ごしていいわよ。ただし、しっかり反省して。明日はもっと大事な撮影があるから」
その言葉が、まるで死刑宣告のように響いた。もっと大事な撮影。それは、もっと深い屈辱を意味していた。
「薇薇……あなたを許さない……」
私は歯を食いしばった。その声は、スピーカーに届くはずだった。
「許さない? あらあら、まだそんなことを言ってるのね」
彼女の笑い声がスピーカーから流れてきた。それは優しく、そして冷たかった。
「あなた、状況を理解してないみたいね。今のあなたに許すも何もないのよ。あなたは私の作品であり、素材であり、所有物。それ以上でもそれ以下でもないの」
「そんな……」
「さあ、もう休みなさい。明日も早いんだから」
スピーカーから音が消えた。私は暗闇の中に一人取り残された。
その夜、私は眠れなかった。ただ、天井を見つめながら、自分の転落を反芻し続けた。脚本家から奴隷へ。尊敬される存在から、軽蔑される存在へ。すべてを失った。友人さえも、私を踏み台にして上に立った。
翌朝、私は撮影所に連れて行かれた。そこには、新しい装置がいくつか並んでいた。脚枷、手枷、そして首枷。それらはすべて金属製で、冷たく光っていた。
「今日から新しい段階よ」
趙薇薇が説明した。
「あなたは完全に公共奴隷になった。誰でもあなたを使って構わない。誰でもあなたを辱められる。誰でもあなたを所有できる」
彼女は私の首枷をはめた。金属の冷たさが肌に染みる。
「これがあなたの新しい身分よ」
彼女は微笑んだ。その美しい顔に浮かぶ笑顔は、天使のようでありながら、悪魔のようでもあった。
「親友として、一番あなたにふさわしい役割を考えてあげたの。感謝してる?」
私は答えなかった。もう何を言っても無駄だと知っていたからだ。ただ、彼女の目を見つめた。その瞳の中に、かつて優しかった趙薇薇の面影を探して。しかし、そこには何もなかった。ただ、権力に酔いしれた冷酷な脚本家の姿だけがあった。
「カメラ準備オッケーよ」
「始めてください」
監督の声が響く。撮影が始まった。私は、ただ機械的に与えられた指示に従う。自分の意志を捨て、ただの人形として振る舞う。
「カット! 素晴らしい!」
監督の声が嬉しそうに響く。周りのスタッフも、満足げな顔をしている。彼らは、私の屈辱を作品として消費している。そのことに、誰も疑問を抱かない。
撮影が終わり、私は独房に戻された。脚枷と首枷が外され、代わりに新しい鎖がつけられた。それは、私をこの撮影所につなぎ止めるためのものだった。
「お疲れさま、蘇婉」
趙薇薇が独房に現れた。彼女は私の隣に座り、優しく髪を撫でた。
「今日のあなた、本当に素晴らしかったわ。私の脚本を完璧に表現してくれた」
「……ありがとう」
私は無意識にそう言っていた。その言葉が、自分の口から出たことに驚いた。しかし、それ以上に驚いたのは、その言葉に全く違和感がなかったことだった。
「そう。それでいいのよ」
彼女は微笑んだ。その笑顔が、なぜか温かく感じられた。狂気に蝕まれた私の感覚は、もはや正常な判断ができなくなっていた。
「あなたはまた一つ、成長したわね」
彼女は私の頬を撫でながら言った。
「あなたの存在が、この作品をもっと深く、もっとリアルにする。あなたの苦痛が、観客の快楽になる。あなたの堕落が、私の成功の糧になるの」
その言葉が、脳裏にこびりついた。私の苦痛が、誰かの快楽になる。私の堕落が、誰かの成功になる。それが、私の存在意義なのか。
「ところで、陸霆さんから連絡があったわ」
その名前を聞いて、私ははっとした。陸霆。私の夫。かつては愛し合い、今は離婚した男。
「彼、あなたの新しい役割を知って、とても興味を持っているみたい。もしかしたら、近いうちにここを訪れるかもしれないわよ」
「陸霆が? なぜ……」
「なぜって、あなたの新しい姿を見たいからよ。あなた、忘れたの? 彼はあなたを捨てたのよ。でも、あなたがこんなに落ちぶれた姿を見せれば、彼もきっと面白がるわよね」
その言葉に、私は何も言えなかった。夫にまで、こんな姿を見せなければならないのか。その絶望が、私をさらに深い闇に突き落とした。
「さあ、もう休みなさい。明日も撮影があるから」
彼女は立ち上がり、独房を出ていこうとした。その背中に向かって、私は思わず声をかけた。
「薇薇……なぜ、こんなことをするの?」
彼女は振り返った。その顔には、かすかな悲しみが浮かんでいた。
「なぜって……教えてあげようか? あなたが一番好きだった脚本を台無しにされた時の気持ちを、私は忘れたことがない。あなたが私のアイデアを盗んだ時の悔しさも、あなたが私の恋人を奪った時の悲しみも」
「そんな……私はそんなこと……」
「もういい。今さら言い訳を聞きたくないわ」
彼女は一瞬だけ、本当に悲しそうな表情を見せた。
「私はあなたに感謝していた。尊敬していた。でも、それ以上に、妬んでいた。嫉妬していた。だから、今こうしてあなたを見下ろせる立場に立てて、本当に嬉しいの」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、あまりにも美しく、あまりにも残酷だった。
「さようなら、蘇婉。明日も、あなたの素晴らしい演技を楽しみにしているわ」
扉が閉まった。私は一人、暗闇の中に残された。
その夜、私は夢を見た。かつて私が脚本を書き、誰もが賞賛した映画のシーン。華やかな衣装を着て、スポットライトを浴びる女優たち。そして、そのすべてを生み出した私。脚本家、蘇婉。
しかし、その夢はすぐに現実に引き裂かれた。私の体が、また新しい傷に疼き始める。鎖の音が、独房に響く。スピーカーから、明日の撮影の指示が流れてくる。
私は、かつての私ではない。完全に別の存在になってしまった。脚本家ではなく、ただの素材。人間ではなく、ただの道具。親友ではなく、ただの敵。
「薇薇……あなたに、すべてを奪われた……」
私は暗闇の中で呟いた。その声は、誰にも届かない。ただ、壁に吸い込まれていった。
翌日の撮影は、さらに過酷なものだった。趙薇薇は、私の限界を超える辱めのシーンを要求した。私は泣き叫び、体をよじり、地面を這った。しかし、彼女は決して満足しなかった。
「もっと! もっと苦しそうに! もっと哀れっぽく!」
「あなたの苦痛が足りない! もっと深く、もっと激しく!」
「さあ、もう一度! もっと! もっと!」
彼女の声が、鞭のように私を打つ。私は限界を超えて動き続けた。痛みで意識が飛びそうになる。そのたびに、新しい刺激で引き戻される。
そして、撮影が終わった時、私は完全に倒れ込んだ。息も絶え絶えに、地面に伏していた。
「素晴らしいわ。あなた、本当に良い仕事をした」
趙薇薇は私のそばにしゃがみ込み、優しく背中を撫でた。
「あなたの苦しむ顔は、本当に美しい。いつか、このシーンを映画にした時、観客はきっとあなたに魅了されるわ」
私は何も言えなかった。ただ、涙が静かに流れ落ちるだけだった。
「さあ、休憩をあげる。でも、忘れないで。あなたはもう、私のものよ。脚本家ではなく、ただの公共の奴隷。それだけが、あなたの身分であり、あなたの存在意義なの」
彼女は立ち上がり、スタッフに指示を出した。私は担架に乗せられ、独房に運ばれた。
独房の中で、私は天井を見つめながら考えた。趙薇薇は、確かに私の親友だった。彼女の成功を願い、彼女の才能を信じていた。しかし、そのすべてが裏返しだった。彼女が私に抱いていたのは、感謝ではなく、嫉妬だったのだ。
私は、自分の人生に何かを取り戻せるのだろうか? 脚本家としての地位を。人間としての尊厳を。自由を。
しかし、その答えは、すでに決まっていた。私は、永遠にこの撮影所の奴隷であり続ける。趙薇薇の創り出す作品の一部として、永遠に辱められ続ける。
それが、私の運命だった。
私は目を閉じた。痛みが全身を覆う。しかし、不思議と、その痛みが心地よく感じられた。もう抵抗しない。これが私の人生だ。これが私の役割だ。そう受け入れることで、初めて安らぎを得られる気がした。
「ありがとう、薇薇……あなたのおかげで、私は自分が何者なのか、やっと分かった……」
暗闇の中で、私はそっと呟いた。
その言葉は、誰にも届かない。しかし、それでよかった。
私は、ただの素材だ。ただの道具だ。ただの公共奴隷だ。
そして、それでいいのだ。
そう決めた時、心の深い部分で何かが壊れる音がした。それが、私の中の最後の人間性の崩壊だったのか、それとも新たな始まりの合図だったのかは、私には分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことは、私はもう二度と、かつての蘇婉には戻れないということだった。
私の身分は、完全に撮影所の公共奴隷と化した。脚本家としての過去は、遠い記憶の彼方に消えた。親友だった趙薇薇は、私の主人となった。夫だった陸霆は、別の誰かのものになった。
すべてを失った。しかし、その代わりに、私は新しい何かを得たのかもしれない。それは、苦痛に慣れた感覚であり、屈辱を受け入れる強さであり、そして、絶望の中にあるわずかな安らぎだった。
「さようなら、かつての私……」
私は目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
夢の中で、私は再び脚本を書いていた。しかし、その内容は、私自身の物語だった。私の転落、私の堕落、私の終焉。それを、一人の脚本家として、客観的に描いていた。
そして、その物語の結末は、永遠に続く苦痛と服従。それこそが、私にふさわしいハッピーエンドだった。
「終わり」
私はそう呟き、ペンを置いた。
そして、すべての光が消えた。