その夜も、蘇晴は一人家で夕食の後片付けを終え、リビングのソファに腰を下ろした。テーブルの上には、夫・林峰がうっかり置き忘れたスマートフォンが横向きに載っている。普段なら触れようとも思わないその端末が、なぜか今夜はやけに目につく。
彼女はためらいながらも手を伸ばし、指先でそっと画面を撫でた。ロック画面には新着メッセージの通知が二件。送信者は「陳浩」という見知らぬ名前。本文の一部が表示されている。「昨日は本当に良かったよ。また会いたい」という文字が、蘇晴の視界に飛び込んできた。
心臓が一瞬、大きく跳ねた。彼女は画面を注視し、もう一度その文字をなぞるように読む。まさか——。林峰は確かに昨夜、遅くまで仕事があると言って、帰宅したのは深夜だった。帰ってきた時の様子も少し落ち着かない様子で、シャツの襟元は少し乱れていた。蘇晴はその時は疲れているのだろうと気に留めなかったが、今思えば怪しい。
彼女の指は震えながら端末を持ち上げる。ロックは簡単な四桁の数字。結婚記念日を試すと、あっさりと画面が開いた。蘇晴はますます胸の動悸が激しくなるのを感じながら、メッセージアプリを開く。
陳浩とのトークルームはいくつものやり取りで埋め尽くされていた。「今日も会える?」「あの場所で待ってる」「君の体が忘れられない」——男からの送信。そして林峰の返信は「いいよ」「楽しみにしてる」「もっと見たい」という短い言葉だが、どれも蘇晴の知らない男の言葉遣いだ。
蘇晴の脳裏に、無数の疑問が渦巻く。林峰は浮気をしている。それも、かなり深い関係だ。彼女は唇を噛みしめ、スマホをテーブルに置いた。手のひらに冷や汗が滲んでいる。
玄関の鍵が開く音がした。林峰が帰ってきたのだ。蘇晴は素早く表情を整え、平常を装って彼を見上げた。「おかえりなさい」
林峰は笑顔でリビングに入ってくるが、すぐに自分のスマホがテーブルの上にあることに気づいた。一瞬、顔色が変わった。彼は慌てて端末を手に取り、画面を確認する。ロックが解除されている——蘇晴の目がそれを捉えた。
「あ、見たのか?」林峰の声は上ずっていた。「いや、これは——仕事の関係で——」
「仕事の関係で『また会いたい』なんて言うの?」蘇晴の声は冷たく、静かだった。彼女の瞳は林峰を射抜くように見つめる。
林峰の顔が引きつる。彼は必死に言い訳を探す。「あいつは——うちのクライアントで、ちょっと下ネタが好きなやつで——俺は適当に合わせてただけで——」
「そんなメッセージを日常的に送り合って、適当に合わせるって?」蘇晴の声にはわずかな震えが混じっていた。「林峰、私はバカじゃないのよ」
林峰は口ごもり、視線をさまよわせる。彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。「誤解なんだ、本当に——」
「誤解?」蘇晴は立ち上がり、彼の前に立つ。「なら、その陳浩って人を今ここに呼んで、説明してもらいましょうか」
林峰は言葉を失い、ただ蘇晴の顔を見つめる。彼の心の中では、恐怖と、それとは別の——奇妙な興奮が入り混じっている。蘇晴が怒る姿は美しい。そして彼女が他の男を自分に差し出すことを想像すると、背筋がぞくぞくした。
しかし今はそれどころではない。彼は必死に頭を回転させた。「わかった、話すよ。でもここじゃなくて——明日、ちゃんと話をしよう。今日は疲れてるんだ」
「疲れてる?」蘇晴は冷笑した。「そうね、夜遅くまで『仕事』してたんだから、当然疲れてるわよね」
言い終えると、彼女は踵を返して寝室へ向かった。背筋を伸ばしたその姿は、怒りと失望に満ちている。林峰はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥が締め付けられるような痛みと、同時に——禁断の快感が顔を覗かせるのを感じていた。
彼女が何を知っているのか。どこまで知っているのか。そして——もしも本当に彼女が他の男と——。
林峰は慌ててその思考を打ち消した。まだ早い。計画はまだ初期段階だ。だが、今夜のこの亀裂は、いつか必ず大きな裂け目になる。その予感だけは確かにあった。
蘇晴は寝室のドアを閉め、鍵をかけた。彼女はベッドの端に座り込み、両手で顔を覆った。涙は出なかった。ただ、信じていたものが崩れ落ちる音が、頭の中で響いていた。あの男は一体——誰に操られているのか。そして、なぜ彼は私を裏切ったのか。
窓の外では夜風がカーテンを揺らしている。蘇晴は深く息を吸い込み、決意を固めた。明日、彼の口から真実を聞き出す。それまでは、冷静でいよう。だがその胸の奥では、予想もできない展開が待っていることを、まだ知る由もなかった。