# 寄生の巣
## 第二章 消えた標本
朝の研究室は、蛍光灯の白い光が殺風景な部屋を一層冷たく見せていた。張林はコートも脱がずに培養器の前に立った。昨夜、帰る前に確認した時には確かにあの奇妙な生物はそこにあったはずだ。
しかし今、培養器の中には透明な液体だけが残されていた。
「...ない」
張林は培養器を手に取り、光にかざして見た。液体は普通の生理食塩水のように見える。底にはわずかに濁りのようなものが沈んでいるが、それは培養液のカスであって、あの生物の塊ではない。
彼は培養器の蓋を開け、中の液体を慎重にシャーレに移した。指で液体を攪拌してみる。何もない。確かに、何も残っていなかった。
「保存状態が悪かったのか...」
張林はため息をついた。あの生物は確かに異常だった。彼がこれまで見たどの標本とも異なる細胞構造を持っていた。もしかすると、単なる培養液の腐敗による人工産物だったのかもしれない。あるいは、何らかの理由で自己融解したのか。
いずれにせよ、今となっては手遅れだ。
彼は培養器を消毒液に浸し、記録簿に「標本消失、原因不明」と書き込んだ。研究ノートにも同様の記載をし、写真データを確認する。昨夜撮影した画像は確かに残っている。だが、標本そのものは消えた。
時計を見ると、もうすぐ朝のミーティングが始まる時間だった。張林はデータを保存し、研究室を後にした。ドアを閉める直前、もう一度だけ培養器があった場所を見た。何かが引っかかる。しかし、それを追及する時間はなかった。
走廊を歩きながら、彼は昨夜の帰宅時のことを思い出した。玄関で靴を脱ぎながら、リビングの明かりがついているのを見た。妻の張薇がソファに座ってテレビを見ていた。彼が入ってくると、彼女はすぐに立ち上がった。
「おかえりなさい。夕飯、温めようか?」
「いや、もう食べたよ。先に風呂に入る」
彼はそう言って、彼女の顔もまともに見ずに浴室に向かった。背中で彼女の「そう...」という小さな声を聞いた気がしたが、振り返らなかった。
今思えば、あの時もっと彼女と話すべきだったのかもしれない。しかし、何を話せばいいのかわからない。結婚して十年近くになるのに、張林はいまだに妻との会話の方法がわからなかった。
「張さん、おはようございます」
同僚の声に彼は現実に引き戻された。
「ああ、おはよう」
彼は曖昧に答え、ミーティングルームへと向かった。
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その頃、張薇は一人で家にいた。小傑を学校に送り出した後、彼女はキッチンで夕飯の準備を始めていた。
カレンダーには今日の日付に赤い丸がつけてある。結婚記念日。彼女は特別なディナーを用意しようと思っていた。張林の好きな煮魚と、彼が子供の頃から食べているという母の味の味噌汁。それに、彼女が練習してきた新しいレシピのサラダ。
彼女は冷蔵庫から材料を取り出しながら、昨夜のことを考えていた。
夫が帰宅した時、彼女は久しぶりに二人でゆっくり話せると思った。しかし彼はいつも通り、風呂に入り、自分の部屋にこもり、パソコンを触っていた。彼女が「コーヒーを淹れようか?」と声をかけても、「ああ、頼む」とだけ返事が返ってくる。まるで他人のような距離感だった。
包丁でネギを切る手が止まる。彼女は窓の外を見た。曇り空が広がっていた。午後から雨になると天気予報で言っていた。
「今日こそは...」
彼女は小さく呟き、再び料理に集中した。彼が帰ってくる前に、全部準備を整えておこう。テーブルには彼女が数年前に買ったレースのクロスを敷こう。キャンドルも出そう。小傑は早めに寝かせて、二人だけで過ごす時間を作ろう。
心の中では、それがうまくいくかどうか半信半疑の自分もいた。しかし、それでも彼女は準備を進めた。何もしないよりはましだと思ったからだ。
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小学校の校庭では、昼休みの賑わいが広がっていた。
「本当だって!昨日、俺の家で見たんだ!」
小傑は声を潜めて、友達の小陳に話していた。二人は校庭の隅にあるサッカーゴールの陰にしゃがみ込んでいる。
「何を見たの?」小陳は目を輝かせて尋ねた。
「動く塊みたいなやつ。光っててさ、なんか気持ち悪かったけど、すごく面白かったんだ」
「どこにあったの?」
「父ちゃんの研究室みたいなところ。培養器ってやつの中に入ってた」
小陳は首をかしげた。「培養器って何?」
「わかんないけど、透明な箱みたいなやつ。中に液体が入ってて、その中にその塊があったんだ」
「今も見れる?」
小傑はしばらく考えた。「今日、学校が終わったら家に来る?母ちゃんに言えば、見せてもらえるかも」
「いいの?」
「うん。でも、父ちゃんには内緒だぞ。怒られるから」
小陳は嬉しそうに頷いた。彼は小傑の家に行くのが好きだった。小傑の家にはゲームもおもちゃもあるし、小傑のお母さんはいつも美味しいお菓子を出してくれる。
「じゃあ、約束ね」
「約束!」
二人は指切りをして、教室へと走っていった。
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午後三時。学校が終わった子供たちが校門から次々と出てくる。張薇は自転車で迎えに来ていた。彼女は小傑と小陳が一緒に出てくるのを見て、微笑んだ。
「お母さん、小陳も家に連れて行っていい?」
「いいわよ。お母さんに連絡した?」
「うん、朝に言ったら『いいよ』って」
張薇は小陳にも笑いかけた。「じゃあ、一緒に帰ろうか。今日は特别な日なんだから」
「特别?」小傑が尋ねた。
「今日はお父さんとお母さんの結婚記念日なの」
「結婚記念日って何?」
「結婚した日をお祝いする日よ」
「お父さんとお母さんが結婚した日?」
「そうよ」
小傑はよくわからないという顔をしたが、それよりも小陳に見せるもののことで頭がいっぱいだった。
三人が家に着くと、張薇は子供たちに手を洗うように言い、おやつを出した。リビングでは、既にテーブルに白いクロスが敷かれ、真ん中にキャンドルが置かれていた。
「わあ、きれい」小陳が言った。
「小陳も一緒に食べていいわよ。お母さんにはもう連絡したから」
小傑はおやつを食べ終わると、小陳を自分の部屋に連れて行った。
「見せてよ、あれ」
小傑は部屋の隅にある小さな机の引き出しを開けた。そこには、昨夜こっそりと研究室から持ってきた小さなガラス瓶が入っている。
「これだよ」
小陳が覗き込んだ。瓶の中には、透明な液体と一緒に、小さな白い塊のようなものが沈んでいた。
「動かないね」
「昨夜はもっと動いてたんだよ。でも、今は寝てるのかも」
「触ってみたい」
「ダメだよ!父ちゃんに怒られる」
小陳は残念そうに瓶を眺めた。しばらくして、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちょっとだけ振ってみようぜ」
「振るだけ?」
「うん。そしたらまた動くかもしれないだろ」
小傑は一瞬迷ったが、小陳の好奇心に押されて瓶を手に取った。そっと振ってみる。中の液体が揺れ、白い塊も一緒に動いた。
「ほら、動いた!」
小陳が声を上げた。確かに、塊が少し形を変えたように見えた。小傑はもう一度強く振った。すると、塊はゆっくりと広がり、瓶の中に分散し始めた。
「あっ!ちょっと待って!」
小傑は慌てて瓶を置いた。しかし、中身はすでに変化していた。白い塊は消え、代わりに液体全体が薄く濁っていた。
「壊しちゃった...」
小傑は青ざめた。父ちゃんに怒られる。そう思うと、涙が出そうになった。
小陳も慌てた。「そうだ!新しいのを入れよう!」
「新しいの?」
「うちの冷蔵庫に、似たような透明なやつがあるんだ。水で薄めればわかんないんじゃない?」
小陳はそう言うと、小傑の手から瓶を奪い取り、キッチンに走っていった。
「ちょっと待って!」
しかし小陳は止まらなかった。彼はキッチンに行き、冷蔵庫の中を探した。張薇が「何してるの?」と声をかけたが、小陳は「水を飲もうとしただけ」と答えた。
彼は瓶の中の濁った液体を流しに捨て、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を注ぎ入れた。瓶の中は再び透明な液体で満たされた。
「見て、元通りだ」
小傑は不安そうに瓶を見つめた。しかし、中身が違うことは明らかだった。
「父ちゃんにバレるよ...」
「バレないって。液体の色だけ見れば一緒だし」
小陳は瓶を小傑の机の引き出しに戻した。
「じゃあ、俺もう帰るわ。おばちゃんに言ってくる」
小陳は走ってキッチンへ行き、張薇に「ありがとうございました」と言って家を出ていった。
小傑は一人、机の引き出しを開けて瓶を見つめた。もう光ることもなければ、動くこともない。ただの水が入っただけの瓶だった。
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夕方五時。張薇はテーブルの準備を終えていた。煮魚はできたての香りを放ち、味噌汁は冷めないように鍋のまま保温している。キャンドルには火を灯すだけだ。
彼女は携帯電話を見た。張林からはまだ何の連絡もない。
小傑はリビングで宿題をしていたが、時々落ち着きなく動いていた。
「小傑、どうしたの?」
「ううん、何でもない」
彼は瓶のことが気になっていた。液体を替えたのは悪かったけれど、本当は元の液体がどんなものかもよくわかっていない。父ちゃんが瓶を見つけて、何か言われるかもしれない。そう思うと、胸がドキドキした。
六時を過ぎても、張林は帰ってこなかった。
張薇は諦めて携帯電話を手に取り、夫に電話をかけた。コールが数回続き、やがて相手が出た。
「もしもし」
「ねえ、今日、何時に帰ってくるの?」
「ああ...今日は残業が入った。遅くなると思う」
「今日は...記念日なんだけど」
沈黙が続いた。彼女は携帯を握る手に力が入った。
「ごめん、今週中には別の日にしよう。どうしても今日中に片付けなきゃいけない仕事があって」
「そう...わかった」
「じゃあ、また連絡する」
電話が切れた。張薇は携帯をテーブルに置き、キャンドルを見た。火を灯すことはもうないだろう。
「お母さん、お父さんは?」
「残業だって。今日は三人で食べよう」
彼女は笑顔を作ったが、小傑にはそれが無理しているように見えた。
「お父さん、また来ないの?」
「仕事があるんだって。仕方ないよ」
張薇は小傑の頭を撫でた。彼女の手は少し冷たかった。
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夜、小傑が寝た後、張薇は一人でリビングに座っていた。テーブルの上には手のつけられていない料理が並んでいる。彼女は窓の外を見た。雨が降り出していた。
ガラスに映る自分の顔を見る。疲れた女の顔だった。
「何やってるんだろう、私...」
彼女は小さく呟いた。すると、昨夜のことを思い出した。小傑が研究室から瓶を持ってきて、それを開けた時、あの塊が一瞬だけ動いたのを見た。その後、彼女は瓶を研究室に戻したはずだった。しかし、今になって、あの塊が本当に消えたのかどうかが気になり始めた。
彼女は立ち上がり、研究室のドアを開けた。部屋の中は暗く、パソコンの電源ランプだけがかすかに光っている。彼女は棚の上にある培養器を見た。中は空っぽだった。
「やっぱり...」
彼女はため息をつき、ドアを閉めた。しかし、その時、自分の体内に何か違和感を覚えた。胃のあたりが少し重いような、もやもやした感じ。
彼女はキッチンに行き、コップに水を入れて飲んだ。違和感は消えない。むしろ、少しずつ広がっていくようだった。
「疲れてるんだな」
彼女はそう言い聞かせ、寝室へと向かった。背後で、何かが静かに息づくような気配がしたが、彼女は振り返らなかった。