# 第一章 ルームシェアの初夜
四月の陽射しがカーテンの隙間から差し込む新居に、四つの段ボール箱が積み重なっていた。
「ここがリビングね」
玉が薄いベージュのカーペットを踏みしめながら言った。彼女の少しふっくらとした頬には、新生活への期待が赤みを帯びている。
「まあまあ広いじゃん」
東がキッチンカウンターに肘をつき、ニヤリと笑った。細身だがバランスの取れた体格が、カウンター越しに見える。
「瑞、お前の部屋は奥だぞ」
「分かってる」
瑞は短く答え、段ボールを抱えたまま廊下へ向かった。彼の背中はいつも通りひたむきだが、その目尻にはわずかな緊張が走っていた。
芊がキッチンから顔を出した。彼女は明るい黄色のエプロンをして、手にコーヒーカップを持っている。
「寝室はどうする? 東くんたちが南側、私たちが北側?」
「それでいいよな?」
東が玉に視線を送る。玉は微笑みながら頷いた。
「プライバシーはちゃんと守ろうね」
芊が言い、瑞を見上げた。瑞は軽く顎を引いただけだった。
四人はリビングのソファに集まり、簡単な誓約書のようなものを交わした。入浴時間の調整、来客のルール、夜間の音量——全ては互いの生活を尊重するためだ。
「まあ、何かあったら言ってくれ」
東が軽く手を挙げた。
「俺たちも気をつけるから」
その日の夕方、引っ越しの片付けが一段落すると、四人は近くの居酒屋で祝杯を挙げた。玉と芊は学生時代の思い出話に花を咲かせ、東と瑞は仕事の愚痴を交わしながら酒を飲んだ。
「これからよろしくな」
東が瑞のグラスにビールを注ぐ。瑞は無表情のまま、グラスを傾けた。
夜が更けるにつれ、会話は次第に弾み、芊の笑い声が小さな店の中に響いた。玉は芊の肩に寄りかかり、目を細めて笑っている。
帰宅後、四人はそれぞれの寝室に引き上げた。
---
東と玉の寝室は六畳ほど。ダブルベッドが部屋の中央に置かれ、そのすぐ隣の壁は薄い合板でできている。反対側には瑞と芊の寝室がある。
玉がパジャマに着替え終え、ベッドに腰掛けた。東はシャワーから上がって、タオルで髪を拭きながら入ってきた。
「疲れた?」
玉が柔らかい声で尋ねる。
「まあな。でも、新しい場所ってワクワクするだろ?」
東はタオルを椅子に掛け、ベッドに飛び込んだ。マットレスが軋む。
玉が彼の胸に頭を寄せた。東の腕が彼女の肩を包み込む。
「玉、今日は引っ越し祝いだし、ちょっと特別にしてもいいか?」
耳元で東がささやく。その声は少し掠れていた。
玉の頬が赤くなる。彼女は何も言わずに、東の胸に顔を埋めた。
「ん……」
東の手が彼女のパジャマの裾に触れる。部屋の電気が消され、暗闇の中に衣擦れの音が響き始める。
ベッドの軋む音が、次第に規則正しくなる。
「あ……っ」
玉の声が漏れる。彼女は慌てて自分の口を押さえた。
「しーっ、壁が薄いんだからな」
東が笑いながらささやくが、その手の動きは止まらない。むしろ、声を潜めることに興奮しているかのように、動きが激しくなる。
「だめ……っ、東、声が……」
玉の抗議は、しかし、次の瞬間には甘い吐息に変わった。
薄い壁の向こう。
瑞は布団の中で固まっていた。隣で寝ているはずの芊も、同じように微動だにしない。
壁の向こうから聞こえてくる声——くぐもった喘ぎ声、ベッドの軋む音、そして時折聞こえる東の低いささやき。
瑞の手が無意識に布団を握り締める。心臓が早鐘を打っている。彼は気づかれないように呼吸を整えようとしたが、耳はどうしても壁の向こうに集中してしまう。
隣で芊が身動ぎした。彼女も眠っていないのだ。
「……芊」
瑞が小声で呼びかける。
「……ん」
芊の声は震えていた。
「聞こえるか?」
「……うん」
二人はそれ以上、言葉を交わせなかった。暗闇の中、壁の向こうの音だけが部屋に満ちる。それは次第に激しさを増し、玉の声が一際高くなったかと思うと、やがて静かになった。
沈黙が訪れた。しかし、その沈黙は瑞と芊の間には重くのしかかった。
---
翌朝。
キッチンからは味噌汁の香りが漂っている。玉がエプロン姿で朝食の準備をしていた。昨夜のことを思い出し、彼女の頬は少し赤い。
「おはよう」
芊がリビングに現れた。目の下にうっすらと隈がある。
「おはよう、芊。よく眠れた?」
玉が明るく問いかける。しかし、その声にはどこかぎこちなさが混じっていた。
「うん、まあね」
芊も同じように答える。二人は顔を見合わせ、すぐに視線をそらした。
「おはよう」
東が寝室から出てきた。爽やかな顔をしている。続いて瑞も現れたが、彼の表情は硬い。
四人が食卓に着く。玉が味噌汁と焼き魚、卵焼きを並べた。
「いただきます」
声が揃わない。箸の音だけが静かに響く。
「昨日はよく寝られた?」
東が何気なく尋ねた。その言葉に、芊の手が止まる。
「ああ、まあな」
瑞が即座に答えた。声は平坦だが、耳の先が赤い。
「そうかそうか。新しい場所だと疲れるよな」
東は何事もなかったかのように味噌汁をすする。
玉が芊に目配せを送った。芊もそれに応えるように、微かに頷いた。二人の間には、言葉にできない空気が流れている。
「そういえば、今日の午後にスーパー行かない?」
芊が話題を変えた。
「うん、行こう。食材もそろそろ買い足したいし」
玉が明るく答える。
「俺たちも手伝おうか?」
東が瑞を見る。
「俺は仕事の資料を整理しないと」
瑞が断った。
「じゃあ、女同士で行ってくるね」
芊が笑顔を作った。
朝食が終わり、片付けを始める四人。洗い物をしながら、芊が玉の耳元でささやいた。
「今夜は……大丈夫?」
玉の顔が一気に真っ赤になる。
「何言ってるのよ!」
「だって、聞こえちゃったんだもん」
芊も赤くなりながら、笑いをこらえている。
「もう、言わないでよ……」
玉は俯きながら、スポンジで皿をこする。
リビングでは、東と瑞がソファに座っている。エアコンのリモコンをいじりながら、東が口を開いた。
「なあ、昨夜はごめんな」
「……別に」
瑞の声は相変わらず短い。
「まあ、そう固くなるなって。ルームシェアってのはそういうもんだろ」
東が瑞の肩を軽く叩いた。瑞は一瞬眉をひそめたが、何も言わなかった。
「そういうのは、ちゃんと気をつけてくれ」
「分かってるって」
東は悪びれずに笑った。
キッチンからは水音と、女たちのひそひそ声が聞こえている。東と瑞はそれに耳を傾けながら、それぞれのコーヒーカップに口をつけた。
新しい生活の第一夜は、こうして少し気まずい朝を迎えた。四人の間には見えない線が引かれ、それは引っ越しの段ボールよりも確かに、それぞれの距離を画定していた。