# 白刃と紅蓮 第一章 月下の影
深夜二時を過ぎた古い道場に、月明かりだけが静かに降り注いでいた。障子から差し込む青白い光が、畳の上に幾何学模様を描き出している。
綾乃は白いボディスーツのファスナーを胸元まで引き上げ、肌に吸い付くような感触に一瞬だけ目を閉じた。伸縮性のある素材が、鍛え上げられた身体のラインを余すところなく浮き彫りにしている。腰から下はタイトなヨガパンツで、黒いサッシュベルトが細いウエストに巻かれていた。
「お姉ちゃん、準備できた?」
背後から聞こえた明るい声に、綾乃は振り返った。楓はブルーデニムのホットパンツに、同じく白のクロップドトップスという出で立ちだった。露出した腹部の肌が月明かりに照らされて、かすかに青白く光っている。胸元には彼女が最も愛用する小柄な苦無が、銀色の輝きを放っていた。
「ああ。任務の詳細は聞いた」
綾乃は無造作に長い黒髪を一つに束ねると、卓の上に忍具を並べ始めた。手裏剣は十二枚。苦無は大小三本ずつ。そして――
「雪子・ヤクザの藤堂組の一人娘か」
楓が軽い口調で言いながら、自分の装備を確認する。彼女の指先は、まるで愛しいものを撫でるように、刃の感触を確かめていた。
「表向きは女子大生だが、実際は父親の代わりにいくつかの抗争を指揮している。冷酷でありながら、計算高い女だ」
綾乃の声には感情がなかった。しかし、その指先はわずかに震えていた。妹を危険に晒すことへの恐怖。それが任務の遂行を鈍らせることを、彼女はよく知っていた。
「でも、お姉ちゃんが一緒なら大丈夫でしょ?」
楓がいたずらっぽく笑いながら、綾乃の背後に回った。そして、何気ない仕草で、白いボディスーツの下に覗く綾乃のへそに、そっと指を触れた。
「――っ!」
綾乃の身体がびくんと震えた。予想外の刺激に、彼女は思わず息を呑む。楓の指は、そこからゆっくりと這うように、腹筋のラインをなぞっていく。
「楓、やめ――」
「嫌? でも、お姉ちゃんの身体は正直だよ」
楓の声が耳元で囁く。彼女の吐息が首筋を撫で、綾乃の皮膚が粟立った。任務の前の、この逸脱した行為。それが彼女たちの、歪んだ儀式だった。
「時間が……ない」
そう言いながらも、綾乃の身体は楓の腕に寄り添っていた。妹の指が、腰元のサッシュベルトを解く。布地が擦れる音が、静かな道場に響いた。
「五分だけでいいよ」
楓の唇が、綾乃の鎖骨に触れる。そして、ゆっくりと首筋へ。綾乃は微かに目を伏せ、その感覚に身を委ねた。すべてを忘れたい。任務も、血も、そしてこの歪んだ感情も――。
月明かりの下で、二人の影が一つに重なった。忍具の冷たい輝きとは対照的に、彼女たちの肌は互いの熱で温められていく。楓の指が、白い布地の下をくぐり抜け、綾乃の身体を探る。そのたびに、綾乃の口から押し殺した吐息が漏れた。
「楓……もう十分だ」
五分が経った。正確に、楓は時間を守った。彼女は名残惜しそうに指を離すと、綾乃の耳元でささやいた。
「任務が終わったら、続きをしようね」
綾乃は無言でサッシュベルトを締め直した。乱れた息を整え、再び忍者の表情を取り戻す。心の中で、渦巻く感情を押し殺す。
「行くぞ」
綾乃が立ち上がる。畳の上に並べられた手裏剣と苦無が、月明かりに反射して銀色の光を放っていた。楓も、自分の装備を確かめる。クロップドトップスのポケットに、二枚の手裏剣。ホットパンツのウエストバンドに、二本の苦無。そして、腿に巻いたホルスターに、短刀。
「いつでも行けるよ、お姉ちゃん」
楓の目が、純粋な喜悦に輝いていた。今夜、また血を流す。その興奮が、彼女の全身を駆け巡っている。
綾乃はその表情を見て、胸の奥が締め付けられるのを感じた。しかし、それを顔に出すことはない。ただ、静かに道場の裏口へと歩き出した。
「雪子・高層マンションの最上階で待っている。警備は厳重だが、侵入経路はすでに確保してある」
「了解。私、屋上から行くね。お姉ちゃんは正面の非常階段から」
楓が軽やかに跳ねるように動きながら言う。その口調は、まるで遊びに行く子供のようだった。
夜風が、道場の庭先を吹き抜ける。月は雲に隠れ、辺りは一層闇を深めた。
「楓、気をつけろよ」
綾乃の言葉に、楓は振り返って微笑んだ。
「お姉ちゃんこそ。私、まだ続きが残ってるからね」
そう言って、楓は闇の中に溶けるように消えた。綾乃は一人、その背中を見送ると、静かに息を吸い込み、自分の影も闇に同化させた。
夜の街へ、二人の忍びが舞い降りる。月下に、新たな血の香りが漂い始めていた。