# 第六章: 薫児の亀裂
加瑪帝国の都、烏坦城。夕暮れの空が街を朱色に染めていた。
蕭炎は修行部屋に籠もり、炎のエネルギーを練り続けていた。彼の額には汗が滲み、全身から蒸気が立ち上っている。隣の部屋からは、かすかに衣擦れの音が聞こえる。薫児が何かを待っている気配だった。
「蕭炎哥哥、夕食の支度ができましたよ」
薫児の柔らかな声が扉越しに届く。しかし蕭炎は目を閉じたまま、手を動かし続けた。
「あとで食べる。先に済ませてくれ」
その冷たい返答に、薫児の瞳がわずかに曇る。彼女は唇を噛みしめ、その場に立ち尽くした。最近、蕭炎は修行に没頭しすぎている。彼女の存在など、まるで空気のように扱われている。
「……わかりました」
そう言って、薫児はゆっくりとその場を離れた。食堂には一人分の料理が並べられ、冷めていくだけだった。
その夜、薫児は自分の部屋で一人座っていた。窓から差し込む月明かりが、彼女の青い髪を淡く照らしている。彼女の心は重く、胸の奥が締め付けられるようだった。
「なぜ……蕭炎哥哥は私を見てくれないの?」
彼女のつぶやきは虚しく部屋に響いた。昔は違った。蕭炎は彼女に優しく、彼女の存在を大切にしていた。だが今は……。
その時、窓の外から微かな気配がした。
「薫児さん、こんな夜更けに一人で何を悩んでいるのですか?」
魂風の声だった。薫児は驚いて窓辺を見ると、魂風が優しい微笑みを浮かべて立っていた。月光が彼の長い黒い髪を照らし、陰影のある顔立ちを一層魅力的に見せている。
「魂風さん……何の用ですか?」
「あなたが悲しそうに見えたので、心配になって。よろしければ、少し話をしませんか?」
薫児は躊躇した。だが、心の奥底で誰かに話を聞いてほしいという衝動が芽生える。彼女は重いため息をつき、うなずいた。
「……少しだけなら」
二人は中庭の石段に腰掛けた。夜風が薫児の髪を優しく揺らす。
「蕭炎さんは最近、修行に夢中ですね」魂風の声は穏やかだった。「あなたの気持ちに気づいていないようです」
「……ええ。でも、彼には彼の目標があるから」
「しかし、あなたを無視していい理由にはなりません」魂風の手が、薫児の肩にそっと触れた。「あなたはもっと大切にされるべきだ」
その言葉が、薫児の心に深く刺さった。彼女の目頭が熱くなる。涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえた。
「もう十分です。戻ります」
薫児は立ち上がろうとした。だが魂風が優しく彼女の手を握る。
「待ってください。一つだけ言わせてください。あなたが誰よりも大切だと思っている人がいます。それは蕭炎さんではなく……私です」
薫児の心臓が大きく跳ねた。魂風の瞳は真剣で、その眼差しに吸い込まれそうになる。
「そんなこと……」
「本当です。あなたを悲しませる者には、私は決してなりません」
魂風の手が離れる。そして彼は優しく微笑んだ。
「おやすみなさい、薫児さん。また明日」
そう言って、魂風は闇の中に消えていった。薫児はその場に立ち尽くし、複雑な感情に揺れていた。
その夜、薫児は夢を見た。
夢の中で、彼女は広大な花畑に立っていた。周りには見渡す限りの美しい花が咲き乱れ、甘い香りが漂っている。遠くから、一人の男が歩いてくる。それは魂風だった。
「薫児、ここに来て」
彼の手が差し伸べられる。薫児は抗えない力に引き寄せられるように、その手を取った。瞬間、全身に温かいエネルギーが流れ込み、心地よい感覚が広がる。
「もう蕭炎のことなど忘れなさい。私があなたを幸せにする」
魂風の腕が彼女を包み込む。薫児の体は自然と彼に寄り添い、その胸に顔をうずめた。この温もりが、まるで本当の安らぎのように感じられた。
「あなただけを見ているから……」
魂風のささやきが耳元で響く。薫児の心は溶けていくようだった。蕭炎の冷たさに傷ついた心が、この優しさで満たされていく。
「私も……あなたを……」
言葉を言いかけた瞬間、薫児ははっと目を覚ました。自分の頬が濡れていることに気づく。涙だった。
部屋は静まり返り、月明かりだけが床に落ちている。薫児は荒い息をつきながら、自分の胸に手を当てた。激しく鼓動する心臓が、彼女の混乱を物語っていた。
「何て夢……私はいったい……」
彼女は頭を振り、その思考を追い払おうとした。しかし、魂風の温かい感触がまだ体に残っている。その心地よさを思い出し、薫児は恐怖に震えた。
「いけない……私は蕭炎哥哥だけを……」
そう言い聞かせながらも、彼女の心の奥底では、新たな感情が芽生え始めていた。蕭炎への一途な想いに、初めて亀裂が入った瞬間だった。
翌朝、薫児はいつも通り蕭炎の朝食を用意した。しかし、蕭炎は相変わらず修行部屋に籠もったまま、一言も話そうとしない。
「蕭炎哥哥、食べてください」
「置いておいてくれ」
その短い返事に、薫児の胸が痛んだ。彼女は皿を机に置き、部屋を出ようとした。その時、蕭炎が突然口を開いた。
「そういえば、昨日の夜、誰かと話していたようだが?」
薫児の肩がびくりと震える。
「え? あれは……」
「魂風か?」蕭炎の声には少しの興味もない。「気をつけろ。あいつは何を考えているかわからない」
「……わかってる」
薫児はそれだけ言って、急いで部屋を出た。廊下を歩きながら、彼女は自分の手が震えていることに気づいた。なぜだろう。蕭炎に隠し事をしているような後ろめたさが、胸に重くのしかかる。
その日の午後、薫児は街の市場で買い物をしていた。ふと視線を感じて振り返ると、魂風がすぐ後ろに立っていた。
「薫児さん、こんにちは」
「……魂風さん」
「昨夜はよく眠れましたか?」
その質問に、薫児の頬が赤くなる。夢のことを思い出したのだ。
「……ええ、まあ」
「そうですか。よかった」
魂風はそう言って微笑むと、突然真剣な表情になった。
「実は、あなたに話したいことがあるんです。今夜、城の西の小高い丘でお待ちしています。どうか、来てください」
「なぜ私が……」
「あなたにとって大切な話です。来なければ後悔するでしょう」
そう言い残して、魂風は去っていった。薫児はその背中を見送りながら、行くべきかどうか迷っていた。しかし、胸の奥に湧き上がる好奇心と、寂しさを埋めてくれる何かへの渇望が、彼女を一歩踏み出させた。
夜。月が雲に隠れ、星が瞬く中、薫児は約束の丘に向かった。そこには、既に魂風が待っていた。彼の手には一輪の青い花が握られている。
「よく来てくれました」
「……話って何ですか?」
魂風は彼女に花を差し出した。薫児が受け取ると同時に、花から微かな香りが漂う。その香りを吸い込んだ瞬間、薫児の頭がぼんやりとし始めた。
「これは……」
「眠りの花です。安心してください、あなたを傷つけるつもりはありません」
魂風の声が遠くに聞こえる。薫児の意識は徐々に曖昧になり、彼の腕の中に崩れ落ちた。
夢の中、薫児は再びあの花畑に立っていた。今度は、魂風がすぐ隣にいる。
「薫児、あなたは蕭炎に必要とされていない」
「違う……そんなこと……」
「本当です。彼は修行と復讐だけを考えている。あなたの気持ちなど、気にしたことはありますか?」
その言葉が、薫児の心臓をえぐるように痛い。否定しようとしても、魂風の言葉が真実のように感じられた。
「私はあなたのことを誰よりも理解している。あなたの孤独も、寂しさも、そして本当に求めているものも」
魂風の手が彼女の頬に触れる。その温もりが、薫児の抵抗を溶かしていく。
「私のそばにいれば、もう二度と悲しまなくていい。あなただけを愛し、あなただけを見つめることを約束する」
「本当に……?」
「本当だ」
魂風が彼女を抱きしめる。薫児の腕が自然と彼の背中に回っていた。涙が彼女の頬を伝う。それは悲しみの涙ではなく、安堵の涙だった。
この温もりが、ずっと続けばいいのに――。
そう願った瞬間、薫児の心の中で、蕭炎への想いがかすかに揺らぎ始めた。それは彼女の一途な心に、決して埋まることのない亀裂の始まりだった。
数日後。薫児は徐々に変わっていった。蕭炎への話しかけ方も以前より少なくなり、代わりに魂風と過ごす時間が増えていた。
「薫児、最近どうしたんだ?」蕭炎が珍しく声をかけた。
「何がですか?」
「何か変わったようだ」
「別に。ただ修行に集中しているだけです」
薫児の返事は冷たく、蕭炎は面食らった。彼女がそんな口調で話すことは、かつてなかったからだ。
「そうか……ならいい」
蕭炎はそれ以上追求せず、再び修行に没頭した。その背中を見ながら、薫児の心は複雑に揺れていた。蕭炎は何も気づいていない。彼女の心が、他の男に向かい始めていることに。
その夜、薫児の部屋に魂風が訪れた。
「どうした? 沈んで見えるが」
「……今日、蕭炎哥哥に話しかけられた。でも、私の言葉に気づかなかった」
「それがあなたを苦しめているのか?」
魂風がそっと彼女の髪を撫でる。薫児は拒むことができず、むしろその手に甘えていた。
「私は……どうすればいいのかわからない」
「簡単です。あなたの心が求めるままに動けばいい。そして、その心はもう蕭炎にはない。私にあるのだ」
「そんな……信じられない」
「では、証明しましょう」
魂風が手をかざすと、周囲の空気が歪み始めた。薫児の意識が再び夢の中に引き込まれる。
夢の世界。そこでは、魂風だけが存在していた。優しく、温かく、彼女を包み込む。
「さあ、私だけを見て、私だけを想えばいい」
薫児の瞳が、ゆっくりと魂風だけを映し始めた。その目にはもう、蕭炎の姿はなかった。
朝日が昇る頃、薫児は自分の部屋で目を覚ました。頭がぼんやりとし、昨夜のことが断片的にしか思い出せない。しかし、確かなことはあった。
彼女の心に、魂風という楔が深く打ち込まれていたのだ。
「……魂風さん」
その名前を口にしたとき、薫児の胸が温かくなる。それと同時に、蕭炎への想いが、遠くへと薄れていくのを感じた。
加瑪帝国の空は、今日も穏やかに晴れ渡っている。しかし、薫児の心の中だけは、暗雲が垂れ込め始めていた。一本の亀裂が、いつしか深い溝へと変わるまで――。