# 第一章:新しい隣人
引っ越しのトラックがアパートの前に停まったのは、午後三時を少し回った頃だった。琳は運転席から飛び降りると、後部座席から引っ越し用の段ボール箱を一つ抱えてアパートの階段を駆け上がった。
「琳、そんなに急いで転ばないでよ」
葉が後ろから笑いながら声をかける。彼女はもう三つも段ボールを抱えていた。
「早く部屋に入りたくて」
琳の声は弾んでいた。彼女にとって、この引っ越しは単なる住居の移動ではなかった。旭と同じ屋根の下で暮らす——それが待ち遠しかった。
二階の角部屋、301号室のドアが開いていた。中から非が顔を出した。
「お待ちしておりました、新しい隣人殿!」
彼は大げさに一礼した。その隣で、旭が緊張した面持ちで立っていた。
「琳、手伝うよ」
旭は琳の手から段ボールを受け取ろうとした。だが、彼の指が誤って琳の手に触れると、その手を引っ込めてしまった。
「ごめん、あの…部屋、もう準備してあるから」
旭は目をそらしながら言った。琳はそのぎこちなさが愛おしかった。
「ありがとう、旭」
琳はにっこり笑った。
部屋の中は、想像していたよりも広かった。六畳のリビングにはベージュのソファとテーブルが置かれ、陽の光が窓から差し込んでいた。
「琳の部屋はここだよ」
非が廊下の奥の部屋を指さした。隣は旭の部屋だった。
「壁が薄いから、大きい音は控えめにな」
非は冗談めかして言った。葉が彼の腕を軽く叩いた。
「余計なこと言わないの」
琳は笑ったが、その言葉が頭の片隅に残った。
***
夜の九時を過ぎて、荷物の整理がほぼ終わった。四人はリビングでお茶を飲みながら、これからの生活について話していた。
「明日は仕事始めか」
非がソファに深く座り直した。
「そうだね。でも、今日はもう休もうか」
葉が立ち上がると、琳もそれに続いた。
「私もそろそろ」
旭はまだ何か言いたげだったが、「おやすみ」と言うのがやっとだった。
琳は部屋に戻り、窓を開けた。夜風がカーテンを揺らす。隣の部屋から、旭の気配が感じられた。
彼は緊張していた。琳にはわかっていた。旭は人見知りをするタイプで、四人で暮らすことがまだ心の準備ができていないのだろう。
「旭……」
琳はそっと呟いた。
その時、部屋のドアがノックされた。
「琳、寝てる?」
旭の声だった。
「まだだよ」
琳がドアを開けると、旭が立っていた。彼の顔は赤くなっていた。
「おやすみって言いたかっただけ」
「おやすみ、旭」
琳は旭の手を引っ張って部屋に入れた。
「ちょっとだけ、一緒にいて」
旭は一瞬迷ったが、琳に引っ張られるままに部屋に足を踏み入れた。
「ベッドに座ろう」
琳が言った。
旭はベッドの端に座り、琳はその隣に座った。二人の肩が触れ合う距離。
「緊張してるんでしょ」
琳が言った。
旭は黙ってうなずいた。
「私も。でも、一緒に暮らせるのが嬉しい」
琳は旭の顔に手を伸ばした。その手が彼の頬に触れた瞬間、旭の体が震えた。
「琳……」
旭の声が掠れていた。
琳はその言葉を待っていた。彼女は体を少しずつ寄せ、唇を旭の耳元に近づけた。
「今日は、旭の声が聞きたいな」
それは暗示だった。
旭の手が琳の肩に触れた。ゆっくりと、しかし確かに、二人の距離は縮まっていった。
「壁が…」
旭が言いかけた。
「大丈夫」
琳は囁いた。
やがて、部屋に小さな吐息が漏れ始めた。
***
隣の部屋では、非と葉がベッドに横になっていた。彼らはそれぞれ本を読んでいたが、言葉を交わすことはなかった。
突然、葉の手が止まった。
「…ねぇ」
葉が囁いた。
非も何かを感じ取っていた。彼は本を閉じた。
「聞こえる?」
葉の声が緊張していた。
非はうなずいた。壁の向こうから、かすかではあるが確かに声が聞こえる。琳の抑えきれない吐息と、旭の低い声。
「部屋を変えるって言おうか」
非が小声で言った。
「いいえ」
葉が否定した。彼女の目は、半分閉じていた。
「このまま、もう少しだけ」
葉の息遣いが変わった。非もまた、その音に身体を固くしていた。
「非……」
葉の声が甘く伸びた。
非は彼女の手を握った。二人は何も言わず、隣室から漏れる音に耳を澄ませていた。
壁の向こうの声は次第に激しくなり、やがて、静けさが戻った。
非と葉は、まだ手を握ったままだった。
「……明日、お茶を買い足そう」
やがて、非が言った。
葉は笑いながら、「そうだね」と答えた。
しかし、その夜、二人はなかなか眠りにつくことができなかった。