# 第一章 絶望の選択
深夜二時、陳浩は賃貸アパートの薄暗い部屋で、パソコンの画面に映る数字を睨みつけていた。
「十九万四千三百円……」
借金の残高が、冷たく彼の视网膜に焼き付く。母・王秀蘭の手術費用として借りた金は、すでに利息で膨れ上がっていた。三ヶ月前、母が階段から転落し、腰の骨を砕いた。手術は成功したが、その後のリハビリと投薬で家計は底をついた。
「陳浩さん、来週までに利息だけでも十万円頂けませんと、うちのやり方で対応させていただきますよ」
携帯電話の着信履歴には、あの高利貸しの男——山本と名乗る痩せた男——からの十件以上の不在着信。最後のメッセージには「お母様のご自宅にもお伺いしております」と書かれていた。
陳浩は髪を掻きむしった。二十五歳。フリーのカメラマンとして細々とやってきたが、大きな仕事は半年以上ない。母の医療費で貯金は尽き、今や生活費すらままならない。
キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。中には半額シールの貼られた豆腐と、賞味期限が二日過ぎた納豆だけがあった。水道水をコップに注ぎ、一気に飲み干す。冷たい水が喉を伝う感触すら、彼には麻痺していた。
再びパソコンに向かい、無意識にネットサーフィンを始める。求人サイト、フリマアプリ、闇バイトの掲示板——どこにも彼の状況を打開する道はない。三十万円あれば、今月の利息と生活費を乗り切れる。だが三十万円を、一週間で稼ぐ方法など、普通に考えれば存在しない。
「何か……何か方法はないのか……」
彼の指が、ある匿名掲示板のリンクをクリックしたのは、その時だった。
「高額報酬! 撮影協力者募集 一回の撮影で五十万円〜」
タイトルに目が留まる。五十万円。それだけで借金の利息が払え、三ヶ月分の生活費になる。陳浩は唾を飲み込み、スレッドを開いた。
「SM系動画の撮影をしております。被写体として参加して頂ける方を募集。年齢性別不問。ただし、特殊なプレイもございますので、その点ご了承ください。詳細は以下のメールアドレスまで」
書き込みには、簡単な説明と連絡先メールアドレスが記されていた。陳浩は一瞬迷った。カメラマンとして、こうしたアダルト業界の裏側は耳にしたことがある。だが自分が被写体になるなど、想像もしていなかった。
「ばかげてる……」
呟いて、ページを閉じようとした。その瞬間、携帯電話が振動した。山本からのメッセージ。
「明日までに十万円。無理なら、お母様の家に行きます。娘さんも一人で暮らしているそうですね」
陳浩の手が震えた。母は今、郊外の小さなアパートで一人暮らしをしている。父は十年前に他界し、兄妹もいない。母にとって、陳浩だけが頼りだった。
「くそっ……」
彼は拳を机に叩きつけた。痛みすら感じない。ただ、胸の奥で何かが千切れるような感覚だけがあった。
再び画面を見る。SM動画。五十万円。特殊なプレイ。頭の中で様々な思考が交錯する。もし断れば、母に借金取りが押し寄せる。今の自分に、母を守る術はない。
「お母さんのためだ……」
そう言い聞かせながら、陳浩はメールの作成画面を開いた。しかし、文字を打ち始めたところで手が止まる。自分ではなく、母を被写体にするという考えが、頭の片隅に浮かんだからだ。
「いや……そんなこと……」
首を振る。しかし、その考えは一度浮かぶと、容易に消えなかった。母ならば五十万円では済まない。条件次第で百万円以上になるかもしれない。母は六十二歳で、見た目は老けているが、顔立ちは整っている。かつては小料理屋を営んでいたこともあり、人前に出ることには抵抗がない。
「何を考えてるんだ、俺は……」
陳浩は自分の思考を恥じた。母をそんなものに使うなど、人間として許されない。彼は顔を洗うため、洗面所に向かった。冷たい水を浴びても、心の焦燥は収まらない。
洗面台の鏡に映る自分の顔。痩せ細り、目は充血している。そこにはかつて写真家を志した青年の面影はなく、ただの追い詰められた男がいた。
「これしかないのか……」
携帯電話で、再びあのスレッドを確認する。すでに三件の応募コメントが付いていた。このチャンスを逃せば、別の人間が契約する。そうすれば、次のチャンスがいつ来るか分からない。
陳浩は震える指で、メールアドレスに一通のメッセージを送った。
「撮影の詳細を教えてください。被写体として検討したいです」
送信ボタンを押した瞬間、胃の底が冷えるような感覚に襲われた。しかし、もう後戻りはできない。彼はパソコンを閉じ、暗い部屋の中、床に座り込んだ。
数分後、スマートフォンが着信音を鳴らした。差出人は「Kスタジオ」という見知らぬアドレス。メールの内容は簡潔だった。
「ご連絡ありがとうございます。撮影は明日の午後八時から、以下の場所で行います。報酬は五十万円〜、内容によって変動。詳細は現場でお伝えします。ご都合はいかがでしょうか」
一時間後、陳浩は返信を送った。
「参加します」
その言葉は、自分自身の口から出たものとは思えなかった。だが、そうしなければ母を守れない。そう信じ込むしかなかった。
翌日の午後、陳浩は母のアパートを訪れた。王秀蘭は腰の痛みをこらえながらも、笑顔で息子を迎えた。
「浩、久しぶりね。痩せたんじゃない?」
「大丈夫だよ、母さん。ちょっと仕事が忙しくて」
陳浩は母の手を握った。その手は痩せ細り、関節が浮き出ていた。かつては料理で鍛えたしっかりとした手だったのに。
「仕事、頑張ってるのね。お母さんは大丈夫だから、心配しないで」
王秀蘭は優しく微笑んだ。その笑顔が、陳浩の胸を締め付けた。
「母さん……今日、ちょっと変な頼みがあるんだ」
「何?」
陳浩は歯を食いしばった。言えるわけがない。だが、言わなければならない。
「実は、ちょっとしたファッション写真の撮影があってね……母さんにもモデルとして協力してほしいんだ」
「私が? モデルだなんて、無理よ」
「大丈夫。ただ立ってるだけでいいんだ。それで、三万円もらえるんだ」
三万円という数字に、王秀蘭の目がわずかに揺れた。彼女もまた、金に困っていることを知っている。医療費の支払いですでに貯金は底を突き、年金だけでは生活が成り立たない。
「本当に……そんな簡単なの?」
「ああ、簡単だよ。俺が撮影するから、安心して」
陳浩は嘘を重ねた。心の中で、自分を呪いながらも。
「わかったわ……ありがとう、浩」
王秀蘭は息子の提案を受け入れた。信頼しているからこそ、疑わなかった。
その夜、陳浩は指定された撮影スタジオに母を連れて行った。スタジオは繁華街から外れたビルの五階。一見すると普通の写真スタジオだが、中にはSM用の道具や特殊な照明が所狭しと並んでいた。
「いらっしゃい」
出迎えたのは、三十代後半の男——プロデューサーの佐藤だった。スーツ姿で、笑顔は営業スマイルそのもの。
「こちらがお母様ですか。いい感じですね。では、早速ですが、契約書にサインをお願いします」
佐藤は書類を差し出した。細かい文字で書かれた条項の数々。陳浩は目を通すこともせず、サインをした。母もまた、何も知らずにサインした。
撮影は三時間に及び、陳浩はカメラマンとしてではなく、被写体を連れてきた協力者として見守った。母が縄で縛られ、口にガムテープを貼られる姿を、彼はただ黙って見つめていた。
カメラのシャッター音が部屋に響く。その度に、陳浩の心は擦り切れていくようだった。
撮影が終わり、佐藤から報酬として八十万円が手渡された。
「また機会があれば、よろしくお願いします。お母様、いい素材でしたよ」
佐藤は笑いながら、追加の撮影を持ちかけた。陳浩は曖昧に頷き、母を連れてスタジオを後にした。
帰りのタクシーの中で、王秀蘭は何も言わなかった。ただ、窓の外を眺め、時折小さく震えていた。彼女の目からは、涙が溢れていた。
「母さん……ごめん」
陳浩は声を絞り出した。しかし、王秀蘭は首を振った。
「いいのよ……あなたのためなら」
その言葉が、陳浩の胸に深く突き刺さった。彼は握りしめた封筒の中の八十万円を見つめた。この金で、利息が払える。今月は生き延びられる。
だが、その代償は計り知れなかった。
翌日、陳浩は借金を返済し、残った金を母の医療費に充てた。しかし、佐藤からは早くも次の撮影の打診が来ている。条件はさらに好条件——百五十万円。陳浩はまたしても、心の中で葛藤を繰り返した。
「これしか道はないんだ……」
彼はそう自分に言い聞かせ、携帯電話に返信を打った。
「承諾します」
その夜、陳浩は自室でシャッターを弄りながら、かつて自分が撮った一枚の写真を見つめていた。それは、母がまだ元気だった頃、庭先で笑っている姿を捉えたものだ。
写真の中の母は、無邪気に笑っている。その笑顔は、もう二度と戻らない。
陳浩はカメラを置き、部屋の明かりを消した。闇の中、彼の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ごめん、母さん……」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。