# 第一章:突然の事故
土曜日の午後、都会の喧騒を離れ、郊外へと続く国道を一台の車が走っていた。
「久しぶりに外に出られて嬉しいよ」
助手席の林悦が窓の外に広がる緑を見ながら微笑んだ。彼女の横顔はまだ三十代前半の若々しさを保っていたが、目の周りにはうっすらと隈が浮かんでいる。最近の生活の疲れがそこには表れていた。
運転席の陈泽が優しい目で妻を見つめる。「最近仕事が忙しくて、一緒に出かけられなかったからな。今日はゆっくりしよう」
「うん。でも、そんなに無理しないでね。あなた、顔色が良くないわ」
「大丈夫だよ。久しぶりのデートだから、ちょっと張り切ってるんだ」
车のラジオからは穏やかなジャズが流れている。林悦はそのメロディーに合わせて指を軽く動かしながら、夫の横顔を盗み見た。結婚して五年、彼はいつも優しく、彼女を大切にしてくれた。経済的には決して裕福ではなかったが、その分、二人で支え合って生きてきた。
しかし、最近は物価の上昇や家賃の値上がりで、生活はますます厳しくなっていた。陈泽の給料は減り、林悦のパート代だけでは足りず、貯金は少しずつ減っている。そんな状況に二人とも疲れていたが、お互いにそれを表に出さないようにしていた。
「ねえ、今日はどこに行くの?」
「前に君が行きたいって言っていた、あの小さな湖畔のレストランがあるだろう?あそこを予約したんだ」
「本当?あのレストラン、予約が取りにくいって聞いたけど」
「何とか頑張ったよ。君の笑顔が見たかったから」
林悦の胸が温かくなる。彼はいつもそうだ。自分のことを後回しにして、彼女の喜ぶことを優先する。そんな優しさに甘えすぎている自分に時々申し訳なくなった。
「ありがとう、泽。私、本当に幸せよ」
「当たり前だろ。君が笑っているのが、俺の一番の幸せなんだ」
信号待ちで車が止まる。陈泽が彼女の手を握った。その手は少し冷たく、震えていた。
「手、冷たいね。大丈夫?」
「うん、ちょっと疲れてるだけ。心配しないで」
彼の笑顔にわずかな無理が混じっていることに、林悦は気づいていた。しかし、それ以上詮索するのはやめた。今日は久しぶりのデート。楽しい時間を過ごしたかった。
信号が青に変わり、車は再び走り出す。
「そう言えば、新しいプロジェクトが始まるんだ。今度は……」
陈泽が話し始めたその時、交差点から突然、大型トラックが猛スピードで飛び出してきた。
「危ない!」
陈泽が叫び、ハンドルを急に切る。しかし、時すでに遅かった。トラックは彼らの車の側面に激突した。
ガシャンッ!
耳をつんざくような衝突音。金属が悲鳴を上げ、ガラスが砕け散る。林悦の体はシートベルトで固定されていたが、衝撃で首が激しく振られた。視界が一瞬白く染まり、次に世界が回転した。
車は何度か転がり、ようやく止まった。逆さまになった車内で、林悦は自分の意識が遠のいていくのを感じた。血の匂いが鼻をつく。ガラスの破片が腕に刺さっている痛みをぼんやりと感じながら、彼女は夫の名前を叫ぼうとした。
「泽……泽……!」
しかし、声が出ない。喉の奥でかすれた音が漏れるだけだった。
消防隊が到着し、救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。救助隊員の声が聞こえるが、それはまるで水中から聞こえるかのようにこもっていた。
「こっちだ!負傷者が二人いる!」
「女性の方は意識がある!男性は重傷だ!早く!」
林悦は救助隊員に引き出されながら、必死に夫の姿を探した。彼は意識を失い、顔中血まみれになっていた。
「泽!泽!お願い、目を覚まして!」
彼女の悲痛な叫びが、夕暮れの空に吸い込まれていった。
***
病院の白い天井。消毒液の匂い。機械の規則正しい音。
林悦が目を覚ました時、自分の体にいくつもの管が繋がれていることに気づいた。腕には点滴、頭には包帯。全身が痛み、動かすのも辛かった。
「気がつきましたか?」
看護師が優しい声で話しかける。林悦は必死に口を開いた。
「私の……夫は?夫はどこですか?」
「ご主人様はただいま手術中です。お怪我は軽傷ですが、念のため入院していただいています」
「手術?どれくらい……どれくらい危険なんですか?」
看護師の表情が曇る。「詳しいことは医師から説明があります。とりあえず、安静にしていてください」
その言葉に、林悦の心臓が激しく打ち始めた。夫の命が危ない。その事実が頭の中で反響する。彼女は無理に起き上がろうとしたが、看護師に止められた。
「お身体を動かしてはいけません。ご主人様には私たちがついていますから」
しかし、彼女はじっとしていられなかった。夫が手術室で戦っているというのに、自分だけがベッドに横たわっているわけにはいかない。
「お願い……少しだけでも、夫のそばに……!」
その必死な様子に看護師が折れ、車椅子を用意してくれた。林悦はふらふらする体を支えながら、手術室の前まで移動した。
「手術中」の赤いランプが静かに点灯している。時計の針は夜の九時を指していた。あの事故から、もう五時間が経っていた。
廊下のベンチに座り込み、林悦は自分の手を見つめた。血の跡はきれいに拭かれていたが、心の傷は深く残っている。もしあの時、もっと早くトラックに気づいていたら。もしあの時、違う道を選んでいたら。
自責の念が彼女を襲う。涙が止まらず、無意識のうちに拳を握りしめていた。
数時間後、手術が終わった。医師が疲れた表情で手術室から出てくる。
「ご主人様のご家族の方ですか?」
「はい!私です!彼の妻です!」
医師は重い口調で話し始めた。「手術自体は成功しました。しかし、ご主人様の状態は非常に深刻です。頭部に強い衝撃を受けており、いつ意識が戻るかはわかりません。それに、内臓にも損傷があり、継続的な治療が必要です」
「意識が戻らないって……まさか……」
「最悪の事態も想定しておいてください。ただし、私たち医師は全力を尽くします」
林悦の体から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。看護師が慌てて支える。
「それから……今後の治療費の話をしなければなりません」
医師が申し訳なさそうに言葉を続ける。
「今回の手術費用と今後の入院費、リハビリ費用を含めると、おそらく数十万円はかかるでしょう。保険の適用もありますが、かなりの自己負担が必要になります」
数十万円。
その数字が頭の中で反響する。林家の貯金は数十万円もない。むしろ、最近の生活費のやりくりに苦労していたところだ。
「わかりました……何とかします」
林悦は必死に平静を装った。しかし、心の中は真っ暗だった。どこからそんな大金を工面すればいいのか、全く見当がつかない。
夜が更ける。病室のベッドで眠る夫の横顔を見つめながら、林悦は一人考え込んでいた。
陈泽の両親はすでに他界している。彼女の両親も田舎で細々と暮らしており、頼ることはできない。友人や知人に借金を頼んでも、そんな大金を貸してくれる人はいない。
どうすればいい?
結婚して五年、彼女はいつも夫に頼って生きてきた。パートで少し稼いではいたが、家計のほとんどは夫の収入で支えられていた。今、その夫が倒れた。彼女一人で全てを背負わなければならない。
「泽……私、頑張るから。絶対にあなたを助けるから」
彼女は夫の冷たい手を握りしめた。その手の感触が、現実の厳しさを物語っていた。
翌日、林悦は退院した。医師からはもう少し入院するように言われたが、彼女にはそんな余裕はなかった。早く仕事を見つけ、治療費を稼がなければならない。
彼女は毎日、求人情報を探し回った。コンビニ、飲食店、清掃会社……しかし、どこも給料は低く、数十万円もの借金を返済するには到底足りない。
「すみません、経験者の方を優先していますので」
「高卒の方の募集は現在行っておりません」
「あなたの年齢だと、もう少し若い方を……」
何度も何度も断られ、林悦の心はすり減っていった。夜になると、病院の待合室で泣き崩れた。夫の病状は思わしくなく、医師からは「覚悟しておいてください」と言われている。それなのに、自分は何もできない。
「どうすればいいの……どうすれば……」
涙が枯れるまで泣き続ける日々。それでも、朝が来れば彼女はまた求人を探しに出かけた。
ある日、インターネットカフェで求人サイトを見ていた林悦の目に、一つの広告が飛び込んできた。
「星輝グループ 秘書募集 月給50万円以上!経験不問!研修制度あり!」
その給料の高さに、彼女の心臓が跳ねた。月給50万円。それなら、治療費を払いながら生活もできる。しかも経験不問というのは、何のスキルもない彼女にとっては願ってもない条件だった。
「星輝グループ……どこかで聞いた名前だわ」
彼女はすぐに応募した。電話をかけると、相手の女性は丁寧な口調で面接の案内をしてくれた。
「明日の午後二時、本社までお越しください。社長が直接面接を担当されます」
社長が直接?そんな大企業の社長が、なぜ一般の秘書の面接を?少し違和感を覚えたが、それよりも高給への期待が勝った。
翌日、林悦は手持ちの中で一番きれいなスーツに身を包み、星輝グループの本社ビルを訪れた。
ビルは都心の一等地にあり、ガラス張りの外壁が太陽の光を反射して輝いている。エントランスには警備員が立ち、厳格なセキュリティが敷かれていた。
受付で名前を告げると、すぐにエレベーターへ案内される。最上階にある社長室のドアは重厚で、その前で林悦は一度深呼吸をした。
「失礼します」
ドアを開けると、広々とした部屋の中央に大きな机があり、その後ろに一人の男が座っていた。
四十代後半だろうか。がっしりとした体格に、鋭い目つき。スーツは高級そうな生地でできており、彼の成功したビジネスマンとしての地位を物語っている。しかし、その顔にはどこか冷徹な印象があった。
「林悦さんですね。私は赵擎です。座ってください」
声は低く、落ち着いている。しかし、その言葉の一つ一つに威圧感が漂っていた。
林悦は緊張しながらソファに座った。赵擎は彼女の前にコーヒーを置き、向かい側に腰を下ろした。
「履歴書は拝見しました。経歴を見ると、秘書の経験はおありでないようですが」
「はい……ですが、一生懸命学びます。何でもやりますので、どうかお願いします」
「何でもやる、か」
赵擎の唇がわずかに歪んだ。それは笑みとも嘲笑ともつかない表情だった。
「うちの会社では、秘書といっても普通の仕事だけじゃない。時には、ちょっとした……特別な業務も頼むことがある。それでも構わないか?」
「特別な業務……ですか?」
「例えば、出張の付き添いだとか、取引先との接待だとか。まあ、言葉にすると簡単だが、実際にはもっと……深い関わりが必要になることもある」
その言葉の裏にある意味を、林悦は完全には理解できなかった。しかし、彼女には選択肢がなかった。
「大丈夫です。どんな業務でも、誠心誠意務めさせていただきます」
「そうか。じゃあ、採用だ」
意外なほどあっさりとした返事に、林悦は驚いた。面接はまだ始まったばかりで、ほとんど質問もされていない。
「い、いいんですか?」
「ああ。君の外見には非常に満足している。それに、その……必死な感じが良い。必要な人材だ」
赵擎は彼女の顔をじっくりと見つめた。その視線には何か異様なものがあり、林悦は無意識のうちに身を縮めた。
「ありがとうございます!絶対に期待に応えます!」
「ただし、条件がある。契約書にサインしてもらう。その中には、『会社指定の研修に無条件で従う』という条項が含まれている。君が自由に仕事を進められるようにするためのものだと思ってくれ」
「研修……ですか?」
「ああ。当社独自のカリキュラムがあってな。それを修了しないと、正式な社員として認められないんだ。まあ、難しいことじゃない。ただの基本的なビジネスマナーやスキルの研修だ」
赵擎の説明は簡潔で、疑う余地もなかった。林悦は渡された契約書に目を通した。細かい文字がびっしりと書かれているが、彼女にそれを理解する時間はなかった。夫の治療費、迫りくる支払い期日、焦りが彼女の判断を鈍らせていた。
「ここにサインすればいいんですね?」
「ああ。そうすれば、即日採用だ。給料もすぐに振り込める」
即日採用、即日給料。その言葉に林悦の目が輝いた。彼女は迷わずペンを握り、契約書にサインした。
赵擎が満足げに頷く。その目には冷たく光る何かがあったが、林悦は気づかなかった。
「ようこそ、星輝グループへ。これからよろしく頼むよ、林悦さん」
「はい!こちらこそ、よろしくお願いします!」
彼女は深々と頭を下げた。その顔には、ようやく光が見えたという安堵の表情が浮かんでいた。
しかし、彼女は知らなかった。この契約書が、彼女の人生をどれほど暗黒の道へと導くのかを。
そして赵擎は、彼女の無垢な反応をじっくりと味わっていた。新しい獲物が罠にかかった喜びに、彼の口元が歪む。
「さあ、これから始まる新しい生活を楽しもうじゃないか」
彼の低い声が、社長室に響き渡った。