# 第8章 従姉の葛藤
従姉の優香は、リビングのソファに座りながら、スマートフォンの画面を何気なく見つめていた。表面には穏やかな微笑みを浮かべているが、その目は冷徹に周囲を観察している。
「優香さん、お茶はいかがですか?」
母が台所から声をかける。その声は以前よりもどこか軽やかで、まるで何かから解放されたかのような明るさを帯びていた。
「ありがとう、おばさん」
優香はそう答えながら、母の動作をこっそりと観察した。母はティーカップを丁寧に拭き、まるで儀式のようにお茶を注ぐ。その一挙一動に、かつては見られなかった従順さが滲んでいた。
「お茶が冷めないうちにどうぞ」
差し出されたカップを受け取りながら、優香は心の中で舌打ちした。この家はもう壊れている。小天という名の寄生虫が、家族の絆を少しずつ蝕んでいるのだ。
二週間前、優香は叔母から助けを求める電話を受けた。叔母の声は震えており、普段の反抗的な態度は影も形もなかった。電話の内容は断片的で、小天が何かをしているということだけが理解できた。
優香はすぐにこの家を訪れることにした。表向きは久しぶりの帰省、本当の目的は調査だ。彼女は外資系企業で働くビジネスウーマン。ロジカルな思考と状況分析には自信があった。
「優香さん、今日はゆっくりしていってくださいね」
母がにこやかに言う。その笑顔の奥に、何か狂気のようなものを感じて優香は背筋が冷たくなった。
「ええ、ありがとう。ところで、小天は今日も仕事?」
「小天はね…新しい仕事を始めたのよ。とっても頑張っているの」
母の目が虚ろに揺れる。優香はその違和感を確信に変えた。
その夜、優香は自室に戻ると、ポータブルのレコーダーと小型カメラを確認した。彼女はこれまでに、小天と母の会話、姉の妙子の異常な様子、叔母の失踪の噂など、いくつかの断片的な証拠を集めていた。
「まだ足りない…確固たる証拠が必要」
優香はそう呟き、スマートフォンのメモアプリに日付と観察結果を入力した。彼女は小天が何か違法な取引をしていると踏んでいた。人身売買か、もしくは麻薬取引か。いずれにせよ、警察に通報するためには決定的な証拠が必要だった。
翌朝、優香は早くに起きて台所に向かった。すると、小天がすでに起きており、コーヒーを飲みながら何やらスマートフォンを見ていた。
「おはよう、優香さん。早いんだね」
小天の声はやけに明るい。優香は警戒心を隠して、自然な笑顔を作った。
「おはよう。仕事のメールが来てね」
「そうか。今日は何か予定ある?」
「特にないわ。家でのんびりしようと思って」
優香はそう答えながら、小天のスマートフォンの画面を盗み見ようとした。しかし小天は素早くロックをかけた。
「じゃあ、僕はちょっと用事があるから」
小天は立ち上がり、上着を手に取った。玄関に向かうその背中を、優香は目で追った。
小天が家を出た後、優香はすぐに行動に移った。彼は何か隠し持っているに違いない。優香は小天の部屋に忍び込んだ。机の引き出し、本棚の隙間、ベッドの下。丹念に探していく。
すると、ベッドのマットレスの下に、ファイルが見つかった。優香は慎重にそれを引き出す。中には写真と契約書のコピーが入っていた。写真には、見知らぬ女性たちが写っている。顔にはモザイクがかけられているが、その表情は全て恐怖に歪んでいた。
「これは…」
優香の手が震えた。契約書には「ア強」という名前と、人身売買を示唆する文言が並んでいた。金額の欄には、信じられないほどの数字が記されている。
優香は急いでスマートフォンを取り出し、写真を撮影した。全てのページを丁寧に撮影し、クラウドに保存する。これで証拠は揃った。警察に通報すれば、小天は逮捕される。
「これで終わりにできる」
優香はファイルを元の位置に戻し、静かに部屋を出た。心臓が激しく鼓動している。彼女は自分のスマートフォンで警察の番号を押そうとした。
だが、その時だった。
「何をしているんだ?」
背後から声がした。優香は振り返る。そこには、見知らぬ男が二人立っていた。スーツを着ているが、明らかにヤクザの雰囲気を漂わせている。
「あなたたちは…」
「お前が優香か。小天から聞いている」
男の一人が冷笑しながら近づいてくる。優香は後退りしながら、スマートフォンをポケットに隠そうとした。
「そのスマホ、こっちに渡せ」
「断る」
優香は勇気を振り絞って言い放った。しかし男は軽く笑うだけで、あっという間に彼女の腕を掴んだ。力では敵わない。
「手荒な真似はしないで」
「大人しくしていればな」
もう一人の男が優香のポケットからスマートフォンを奪い取った。彼は素早く操作し、画面を確認する。
「写真がたくさんあるぞ。小天に送れ」
優香の心臓が冷たく縮まる。証拠を押さえられた。しかも、その男たちは小天と繋がっている。つまり、小天は既にこの事態を予測していたのだ。
「連れて行け」
男たちは優香を無理やり車に押し込んだ。抵抗しようとしたが、口に布を詰められ、手を縛られてしまう。
連れて行かれた先は、郊外の倉庫だった。中は薄暗く、コンクリートの床には血痕のようなものが見える。優香はそこに放り込まれた。
「大人しくしていれば、命だけは助けてやる」
男の一人がそう言い残して去っていく。鉄の扉が閉まる音が響いた。
優香は手の縄を解こうともがいた。しかし、それは強く結ばれており、一人では解けそうにない。彼女は冷静さを保とうとした。パニックになってはいけない。ここから脱出する方法を考えなければ。
「落ち着け…落ち着くんだ」
優香は深呼吸を繰り返した。この倉庫の構造を思い出そうとする。入口は一つ。窓は高い位置にある。警備はおそらく一人か二人。隙を見て逃げ出すチャンスはある。
しかし、その思考は突然遮られた。
ガチャリと扉が開き、入ってきたのは小天だった。その後ろには、スーツの男が一人。見たところ、先ほどの二人よりも位が上らしい。
「優香さん、残念だよ」
小天は嘆くような口調で言った。
「裏切るなんて、家族なのに」
「家族?ふざけるな」
優香は歯を食いしばって言い放つ。
「お前は家族を売り飛ばして金に換えている。そんなの家族じゃない」
「家族だからこそだよ」
小天の顔から笑みが消えた。
「僕は家族を救っているんだ。この腐った社会から。金さえあれば、誰も文句を言わない。支配すれば、誰も裏切らない」
「狂ってる…」
「狂ってるのはお前の方だ」
小天が冷たく言う。
「お前は僕を警察に売ろうとした。それが正義だと信じている。でも、正義って何だ?お前がやろうとしていることは、家族を崩壊させることだ。それのどこが正義なんだ?」
優香は答えられなかった。小天の言葉は歪んでいるが、一理あるような気がしてしまう。いや、違う。これは洗脳だ。優香は頭を振って、その考えを追い出した。
「もういい」
スーツの男が口を開く。声は低く、威圧感があった。
「小天、この女は始末するのか?」
「いや、まだ使える」
小天は優香に近づき、その顔をじっと見つめた。
「優香さん、選択肢をやる。一つ、ここで死ぬ。二つ、僕の言うことを聞く。どっちがいい?」
優香は唇を噛みしめた。死にたくない。しかし、屈服することもできない。葛藤の中で、彼女は答えを出せずにいた。
「時間はないぞ」
スーツの男が携帯電話を取り出し、何かを確認する。
「警察に通報しようとしたんだろ?それなら、証拠はもう消した。お前のスマホのデータは全て消去した。クラウドもだ」
優香の心が凍りついた。クラウドも消された?そんなはずは…いや、彼らがハッカーを雇っている可能性は十分にある。
「さあ、決断しろ」
小天の目が真剣になる。優香は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「…わかった」
彼女の声は震えていた。
「言うことを聞く」
「賢明な判断だ」
小天は満足そうに頷いた。
「ただし、条件がある。僕の言うことを絶対に守ること。裏切ったら、命はないと思え」
優香は無言で頷いた。だが、その瞳の奥では、まだ闘志が燃えていた。いつか必ず、この状況を逆転させる。そのためには、今は従うしかない。
「よし、じゃあこれからお前の仕事を決める」
スーツの男が一歩前に出る。
「お前は優秀な人材だ。外資系で働いていると聞いた。人脈もあるだろう。それを利用させてもらう」
「何を…」
「お前の知り合いを、顧客に紹介してもらう。もちろん、知らないふりをしてな」
優香は背筋が凍る思いだった。自分のコネクションを使って、友人や同僚を人身売買の標的にする。そんなことをさせられるのか。
「断ったら…」
「分かってるな」
男の目が鋭く光る。優香は深く息を吸い、再び頷いた。
その夜、優香は独房に閉じ込められたままだった。壁はコンクリートで、窓は一つもない。鉄の扉は分厚く、外から鍵がかかっている。彼女は小さなベッドの上に座り、膝を抱えた。
「どうすれば…」
優香は必死に考えた。しかし、今は何の手も打てない。スマホもない。連絡手段もない。完全に孤立している。
「でも、まだ終わったわけじゃない」
優香は自分に言い聞かせる。
「いつか必ず、ここから出る。そして、全てを暴いてやる」
その決意を固めた瞬間、彼女の耳に遠くから悲鳴のような声が聞こえてきた。叔母の声だ。彼女もどこかに閉じ込められているのだろう。
「待っていてください…必ず助けます」
優香は拳を握りしめた。しかし、その瞳の端には、微かな不安が揺れていた。自分は本当に、この場所から脱出できるのだろうか。
一方、小天は自宅のリビングで、ア強と向き合っていた。
「優香の件、ありがとうございました」
「礼はいい。しかし、お前も気をつけろ。警察に嗅ぎつけられたら、おしまいだ」
ア強の声は冷たかった。
「はい、注意します」
「そう言って、裏切るやつを何人も見てきた」
ア強が煙草に火をつける。
「お前も、いつか裏切るんじゃないか?」
「そんなことは…」
「冗談だ」
ア強は笑いながら、立ち上がった。
「しかし、もし裏切ったら、お前の家族は全員、お前の目の前で始末することになる。覚悟しておけ」
その言葉に、小天の顔から血の気が引いた。ア強はそれを見て満足そうに笑い、部屋を去っていった。
小天はソファに座り込んだ。自分の手はもう血に染まっている。戻れない。後戻りはできない。
「でも…これで金が手に入る」
小天は自分に言い聞かせた。
「金さえあれば、全てを支配できる。僕は間違っていない」
しかし、その瞳の奥には、微かな葛藤が渦巻いていた。優香の目が、頭から離れない。彼女は自分を軽蔑している。その目が、小天の心を抉る。
「もういい」
小天は頭を振って、その考えを追い出した。
「僕は正しい。家族を救っているんだ」
そう言い聞かせながら、彼は次の取引の準備を始めた。優香の人脈を使い、新たな獲物を狙うために。
夜が更けていく。倉庫の中で、優香は眠れずにいた。外からは風の音と、時折聞こえる車のエンジン音。彼女はスマートフォンを取り戻す方法を考え続けていた。
「救難信号を送る方法は…ないか」
ふと、彼女は自分の腕時計に目をやった。それは高性能なスマートウォッチだ。GPS機能がついている。しかし、電波を発信するには、外部と通信しなければならない。
「ダメだ…ここは電波が届かない」
優香はため息をついた。壁が厚く、地下に近い。通常の通信手段は使えない。
「待てよ…」
優香はあるアイデアを思いついた。この倉庫の電気系統だ。もし配線の途中で通信回線と接続できれば、そこから外部に信号を送れるかもしれない。
「やってみる価値はある」
優香は立ち上がり、壁の配電盤を調べ始めた。暗闇の中、指先で触って確認する。確かに、電話線のようなものが通っている。
「これだ」
優香はスマートウォッチからケーブルを取り外し、その線に接続しようとした。しかし、その瞬間、扉が開く音がした。
「何をしている」
懐中電灯の光が優香を照らす。警備員が見張りに来たのだ。
「何でもない…寝返りを打っていただけ」
優香は急いで元の位置に戻った。警備員は疑わしそうに彼女を見つめるが、特に何も言わずに立ち去った。
「危なかった…」
優香は心の中で吐息をついた。しかし、この方法は使えない。もっと慎重に、確実に行動しなければ。
彼女は目を閉じ、必死に次の手を考えた。時間は限られている。小天とア強が次の取引を実行する前に、何とかしなければならない。
「まだ負けない…絶対に」
優香は拳を握りしめ、暗闇の中で決意を新たにした。彼女の瞳には、強い光が宿っていた。理性的で冷静な優香は、まだ諦めてはいなかった。
その夜、小天は優香のスマートフォンに保存されていた写真を全て消去した後、ア強から新たな指示を受けた。
「次の取引は来週だ。お前の従姉の人脈を使え。特に金を持っているやつをリストアップしろ」
「わかりました」
「しかし、もし失敗したら…」
ア強の声が脅迫めいたものに変わる。
「お前の家族は全滅だ。もちろん、お前も含めてな」
小天は冷や汗をかきながら、その言葉を受け入れた。今は従うしかない。そう自分に言い聞かせながら、彼はリストの作成を始めた。
優香の人脈は広い。会社の同僚、大学時代の友人、取引先の人物。誰を標的にするか。小天は冷酷に判断した。
「これで金が手に入る」
小天の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。彼の心は、もう鈍器のように硬くなっていた。家族の絆も、倫理も、全てを金と支配のために捨て去った。
一方、倉庫の独房で、優香は静かに息を整えていた。彼女の心はまだ折れていない。むしろ、逆に冷静さを増していた。
「必ず、ここから出る。そして、全てを終わらせる」
優香はそう自分に言い聞かせ、いつ訪れるかもしれないチャンスに備えて、体力を温存することにした。
夜明けが近づいている。しかし、この場所には光は差さない。優香は暗闇の中で、ただひたすらに待ち続けた。自分の運命が、どう転ぶかを見守るかのように。