# 深淵の巣
## 第1章 トイレの危機
廃ビルの三階、男子トイレは薄暗く、湿った空気が澱んでいた。割れた窓から差し込む月明かりが、床の水溜まりに鈍く反射している。壁には無数の黒い筋——何かが這い回った痕跡——が蜘蛛の巣のように広がっていた。
「前方、異変なし」
张浩が手信号で部隊に停止を命じる。彼の手には退魔刀——祖先から伝わる霊刀——が握られている。刀身はわずかに震えていた。何かを感じ取っているのだ。
「雪、感じるか?」
隣に立つ林雪が静かに頷いた。彼女の白い肌は月明かりに青白く映え、黒い長髪が風もないのに揺れている。巫女としての第六感が、この空間の異常をはっきりと捉えていた。
「トイレの奥、個室の中。かなりの瘴気です」
囁くような声だが、その目は鋭く光っている。彼女は右手に持った錫杖——先端に五色の鈴が付いている——を軽く振った。鈴の音はか細く、しかし確かに悪霊を祓う力が込められていた。
後方から隊員の一人が息を呑む音が聞こえる。この廃ビルにはホームレスが住み着いているという噂だったが、最近になって行方不明者が増えていた。調べてみると、ここから異様な気配が漂っていると判明したのだ。
「張隊長、仕掛けますか?」
若い隊員が問いかける。张浩は一瞬考え、首を振った。
「まだ待て。まずは相手の正体を確かめる」
彼の目はトイレの奥——一番奥の個室——に固定されていた。ドアは半開きで、内部は暗くて見えない。だが、確かにそこに何かがいる。
その時だった。
奥の個室から、かすかに物音が聞こえた。水滴が落ちるような音。そして——何かを引きずるような、湿った音。
「来るぞ」
张浩が身構えると同時に、個室のドアが勢いよく開いた。
そこから現れたのは——人間とは言えない何かだった。四本の異様に長い腕が床を這い、頭は天井に向かって反り返っている。全身は灰色がかった肉に覆われ、所々に人間の皮膚が張り付いている。まるで複数の人間を溶かして練り合わせたかのような異形。
「結界を張れ!」
张浩の号令で隊員たちが一斉に動く。四人の隊員が各自の符咒を掲げ、即席の結界を形成する。青白い光がトイレ内を包み、怪物の動きを封じようとした。
しかし怪物は結界をものともせず、その巨体を床に擦りつけるようにして突進してきた。
「雪!」
张浩が叫ぶ。林雪はすでに呪文を唱え始めていた。錫杖から放たれた五色の光が空中に舞い、怪物の周囲を旋回する。
「天の雷よ、地の炎よ、邪を祓え!」
彼女の声がトイレ内に響き渡る。錫杖から放たれた光の束が怪物を直撃した。怪物は凄まじい悲鳴を上げ、体を激しくよじらせる。
だが、それで終わりではなかった。
怪物の体から無数の触手が生え、天井や壁を伝って隊員たちへと襲いかかる。张浩が刀を振るい、触手を次々と斬り落とす。隊員たちも符咒や退魔銃で応戦するが、触手の勢いは衰えない。
「隊長! 壁からも!」
後方の隊員が叫ぶ。壁に張り付いていた触手が、彼の足首を絡め取った。隊員が引きずられそうになるのを、张浩が刀で触手を断ち切って救う。
「雪、封印はまだか?」
「もう少しです」
林雪は集中していた。彼女の額には汗が滲み、錫杖を持つ手が微かに震えている。この怪物——かなりの力を持っている。普通の退魔術では太刀打ちできない。
彼女は目を閉じ、深く息を吸った。
「萬物の根源よ、邪悪を縛り給え——封印·五行封滅陣!」
錫杖の先端から五色の光が放射状に放たれる。光は怪物の周囲に五芒星を描き出し、徐々に収束していく。怪物が抵抗して身をよじるが、光の網は確実に締め付けていく。
「今だ、队长!」
隊員の一人が叫んだ。张浩が刀を構え、怪物の中心——核があると思われる位置——目がけて突進する。
「終わりだ!」
刀が怪物の胸部を貫いた。怪物は一際大きな悲鳴を上げ、その体が崩れ始める。林雪の封印の光が怪物の全身を包み込み、徐々に縮小していく。
「全員、下がれ!」
张浩が指示を出す。隊員たちが一斉に後退する。怪物の体は光の中で溶けるようにして消えていき、やがて黒い水溜まりとなって床に残った。
勝利の瞬間だった。
しかし——林雪は違和感を覚えた。怪物が消える直前、何かが空気中に拡散した。無色で、無臭。視覚にも嗅覚にも捉えられないもの。だが、確かにそれは存在していた。
「片付けだ。残骸を確認しろ」
张浩が隊員たちに指示を出す。彼らは慎重に黒い水溜まりに近づき、サンプルを採取し始める。
その時、林雪の体に異変が起きた。
急激な尿意が、突如として彼女を襲った。さっきまで全く感じていなかったのに、今や耐え難いほどの切迫感があった。
「どうした、雪? 顔色が悪いぞ」
张浩が心配そうに近づく。
「い、いえ……大丈夫です」
彼女は必死に平静を装った。しかし尿意は一秒ごとに強くなっていく。まるで膀胱が破裂しそうなほどの圧迫感。立っていられない。
「おそらく、皆さんも休憩が必要でしょう。私は……ちょっとトイレを借ります」
林雪はそう言うと、張浩の返事も待たずにトイレを出た。足取りは明らかに早足で、時折足を止めては、誰にも見られないように必死に耐えている。
「本当に大丈夫なのか?」
张浩が心配顔で見送る。彼には妻の本当の苦しみが理解できなかった。
林雪は廊下に出ると、すぐに曲がり角の陰へと消えた。彼女の体内では、怪物が死の間際に放ったガスが静かに侵食を始めていた。無意識の欲望の種が、彼女の中で芽吹こうとしている。
彼女はまだ気づいていない。
この尿意が、決して普通のものではないことに。
そして——自分がもう、元の自分ではなくなってしまったことに。