# 仙妻堕落録
## 第一章 婚礼前の誓い
剣峰の頂きに立つ秦墨の姿は、まるで一振りの名剣のように凛としていた。
早朝の霧が峰々の間を漂い、彼の白い道袍の裾をわずかに濡らしている。手にした長剣「秋水」は、朝日を受けて冷たく輝いていた。秦墨は深く息を吸い込み、剣勢を起こした。
一振り、二振り、三振り。
剣筋は流水のように滑らかで、一瞬のうちに九つの剣花を咲かせた。天剣宗の「天剣九式」は、彼の手にある時、すでに炉火純青の域に達していた。彼は今年二十四歳。宗門の首席弟子として、将来の宗主候補として、彼の前途は限りなく明るかった。
しかし今、彼の心を占めているのは、剣の道でも宗門の責務でもなかった。
「婉清……」
秦墨はそっとその名を口にした。口元が自然とほころぶ。
彼は思い出す。十年前、まだ幼かった蘇婉清が初めて天剣宗に連れて来られた日のことを。彼女は当時十四歳。細い体に大きな瞳が印象的で、少し緊張したように周囲を見回していた。彼は彼女の手を引いて、「俺が守ってやる」と言ったのだ。
あれから十年。
二人は共に剣を習い、共に修行し、共に数々の危難を乗り越えてきた。彼女が怪我をすれば、彼は一晩中付き添い薬を塗った。彼が行き詰まれば、彼女はそばで励まし続けた。いつしか、その感情は兄妹の情を超え、深い愛情へと変わっていた。
そして明日、ついに彼らは婚礼を挙げる。
「秦師兄!」
遠くから声がした。秦墨が振り返ると、数人の同門の弟子たちが笑顔で近づいてきた。
「おめでとうございます、秦師兄!明日婚礼だそうで!」
「蘇師妹は我が宗一番の美人、秦師兄は本当に幸運者ですよ!」
弟子たちの祝福の言葉に、秦墨は恥ずかしそうに笑った。彼は普段、弟子たちの前ではいつも厳格な態度を崩さないが、今日ばかりはその喜びを隠しきれなかった。
「皆の者、修行を怠るな。俺は……少し休む」
秦墨はそう言うと、剣峰を後にした。
彼は蘇婉清の居室へ向かおうとした。だが、途中で立ち止まる。明日が婚礼だ。今、彼女に会えば、かえって彼女を緊張させるかもしれない。そう考え、彼は自分の院へ向かうことにした。
しかし、彼の足は自然と、蘇婉清の居室のある方向へと向かっていた。
彼女の院は桃林の中にあった。今は春の盛りで、桃の花が満開だった。秦墨が林の中を歩いていると、ふと視界の端に人影が見えた。彼は足を止める。
それは蘇婉清だった。
彼女は桃の木の下に立ち、何かを考え込んでいるようだった。一見すると、いつもの清楚で優美な姿。だが秦墨は何か違和感を覚えた。彼女の肩がわずかに震えている。何かに怯えているようだ。
「婉清」
秦墨は声をかけた。
蘇婉清は体を震わせ、慌てて振り返った。彼女の顔色は青白く、目には明らかな慌てた様子があった。
「秦……秦師兄」
「どうした?体調が悪いのか?」
「い、いいえ。何でもないの」
蘇婉清は慌てて笑顔を作ったが、その笑顔はぎこちなかった。彼女は手にしていた剣の房を秦墨に差し出した。
「これ……あなたのために作ったの。明日の婚礼で使ってほしくて」
秦墨はそれを受け取り、細かく見た。剣の房は上等な雲錦で作られ、緻密な刺繍が施されていた。一本一本の糸に、彼女の想いが込められているように思えた。
「婉清、ありがとう」
秦墨は優しく言った。しかし、彼の目は蘇婉清の瞳の奥に潜む何かを見逃さなかった。
「本当に何もないのか?何か悩みがあれば、話してほしい」
「もう、何もないってば」
蘇婉清は乱暴に首を振った。その仕草には、かえって焦りが滲んでいた。
「ただ……明日のことを考えると、少し緊張しているの。みんなそんなものよ」
そう言うと、彼女はくるりと背を向けた。
「ごめん、まだ準備があるから。先に帰るね」
秦墨はその背中を見送りながら、胸に不安が広がるのを感じた。
彼は知っている。蘇婉清は嘘をつくとき、いつも右手の指を隠れて組む癖がある。さっき、彼女はまさにそうしていた。
だが、秦墨は追いかけることができなかった。
彼女の言う通りかもしれない。結婚前は誰でも緊張するものだ。彼女に信頼を示さねば。彼女の気持ちを尊重しなければ。
秦墨は自分にそう言い聞かせた。
夜になると、風が急に強くなった。
秦墨は自室で横になっていたが、どうしても眠れなかった。彼は起き上がり、蘇婉清のために用意した結婚指輪を眺めた。それは彼が自ら採った霊玉を、三年かけて磨き上げたものだった。
彼は何度も何度も、明日の婚礼の場面を想像した。
蘇婉清が真っ白なウェディングドレスを着て、彼に向かって歩いてくる。彼は彼女の手を取り、永遠の愛を誓う。そして二人は共に天剣宗の未来を背負い、共に仙道を歩む。
それは彼の長年の夢だった。
だがその時、遠くから微かな物音が聞こえた。
秦墨は目を細める。彼の耳は鋭い。それは人の足音だった。しかも、誰かがこっそりと院を抜け出そうとしている足音だ。
彼は何かを感じ取り、素早く窓辺に移動した。
月明かりの中、一人の人影が蘇婉清の居室から現れた。それは間違いなく蘇婉清だった。彼女は誰にも見られないよう、慎重に周囲を確認していた。
秦墨の胸がざわついた。
なぜこの時間に?しかも後山の方へ向かっている。後山は禁地だ。宗門の掟で、夜間の立ち入りは固く禁じられている。
彼は一瞬迷ったが、すぐに決断した。
彼は身に着けていた外衣を脱ぎ、軽装になると、人知れず蘇婉清の後を追った。
月光の下、蘇婉清の影が不安げに揺れている。彼女の足取りは速く、時折後ろを振り返り、誰にも追われていないか確認していた。秦墨は彼女の動きを注意深く観察しながら、十分な距離を保って尾行した。
彼女は後山の小道を進み、木々の間を縫うように進む。秦墨はかつて彼女と一緒にこの道を何度も歩いたことがあった。あの時は、二人でこっそりと宗門の掟を破り、後山で花を摘んだり、蝶を追いかけたりしたものだ。
しかし今、蘇婉清の様子はまったく違っていた。
彼女の背中には、かつて彼が知っていた清楚で優しい少女の面影は微塵もなかった。代わりに、何かに突き動かされるような、狂気じみた執念が漂っていた。
ついに蘇婉清は禁地の奥にあった廃れた祠の前に立ち止まった。
秦墨は遠くの茂みに身を隠し、息を潜めた。
蘇婉清は祠の前に跪き、震える手で懐から何かを取り出した。それは一枚の符紙だった。秦墨の目にはそれが何であるかはっきりと見えた——それは魔道の「血縁符」だった。
なぜ婉清がそんなものを持っている?
秦墨の頭の中で、警鐘が鳴り響いた。
蘇婉清は符紙を地面に置き、指を噛み切った。血が滴り、符紙に落ちると、次の瞬間、符紙は青い炎を上げて燃え上がった。
その時、祠の中から低い笑い声が聞こえてきた。
「よく来たな、我が小鳥よ」
それは男の声だった。深く、淫らで、人の心を震えさせるような響きだった。
秦墨は全身が凍りつくのを感じた。その声には、説明のつかない悪寒が含まれていた。
そして、祠の中から一人の男が現れた。
彼は真紅の長袍をまとい、顔には邪悪な笑みを浮かべていた。その目は深夜の野獣のように輝き、蘇婉清を見つめていた。
「赤炼魔君……」
秦墨は、その名前を呟いた。彼は魔道の巨魁·赤炼魔君の噂を聞いたことがあった。邪悪で残忍、正道の仙子を堕落させることを何よりの楽しみとしているという。
だが、その恐ろしい魔君が、なぜここにいる?
そして何より——
蘇婉清は彼の膝元に跪き、頭を垂れていた。その体はわずかに震えていたが、それは恐怖の震えではなかった。むしろ……期待と渇望の震えだった。
「魔君……妾は……妾は明日、婚礼を迎える身です」
蘇婉清の声はか細く、弱々しかった。
「ああ、知っている」
赤炼魔君は彼女の顔を手で持ち上げた。
「だが、本尊の前では、お前はただの牝奴隷に過ぎん」
彼の指が彼女の頬をなぞる。蘇婉清はその感触に体を震わせたが、それは嫌悪ではなかった。むしろ——悦びだった。
秦墨はその光景を目の当たりにし、全身の血が逆流するのを感じた。
彼の婉清が。彼の最愛の婚約者が。
他の男の前で跪き、その愛撫を受け入れている。
「魔君……妾はどうすれば?」
蘇婉清の声には、もはや先ほどの緊張や不安は残っていなかった。あるのは純粋な憧れと渇望だけだった。
「明日の婚礼の後、本尊の所に来い」
赤炼魔君は低く笑った。
「お前の秦師兄の前で、お前が本尊の牝奴隷であることを、存分に味わわせてやろう」
「妾は……」
蘇婉清の声が震えた。それは何かの期待と、そしてわずかな後悔が混ざったような声だった。
「妾は……」
「黙れ」
赤炼魔君の声が冷たく響く。
「お前に選択権はない。お前は本尊のものだ。魂も肉体も、すべて本尊のものだ。秦墨など、ただの愚か者に過ぎん。お前の貞操など、明日の夜には本尊の手に堕ちる」
蘇婉清は顔を上げ、彼を見た。その瞳には涙が溜まっていた。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。むしろ、何かに目覚めたような、恍惚とした表情だった。
「はい……魔君」
彼女の声がかすかに響いた。
「妾は……魔君のものです」
その言葉を聞いた瞬間、秦墨の胸の中で何かが砕け散った。
彼は信じたかった。これは何かの間違いだ。婉清は何かに脅されているのだ。何かの罠に嵌められているのだ。
しかし、彼女の目は真実を語っていた。
彼女は自らの意志で、ここに来た。
彼女は自らの意志で、あの魔君の前に跪いた。
秦墨はその場から動けなかった。体が石のように硬直していた。彼はすべてを見続けるしかなかった。
蘇婉清が赤炼魔君の前に跪き、彼の手が彼女の髪を撫でる。月明かりの下で、二人の影が重なり合う。
彼はあの手が婉清の髪を優しく撫でるのを見た。その指が婉清の頬を伝い、首筋へと滑り落ちる。婉清はその感触に身を任せ、目を閉じた。その表情は、彼がかつて見たことのないほど艶めかしかった。
「本尊が与えた指輪は、嵌めたか?」
「はい」
蘇婉清は左手を持ち上げた。その薬指には、見慣れぬ指輪が嵌められていた。それは妖しい赤色の光を放ち、まるで血のように深く、そして淫らだった。
「よくやった」
赤炼魔君はにっこりと笑った。その笑顔には、残忍な愉悦が満ちていた。
「その指輪が、お前を本尊の永遠の奴隷とする証だ。お前の体も心も、すべて本尊のものだ。秦墨が触れようものなら、すぐに分かる」
蘇婉清は指輪を撫でながら、うっとりとした表情を浮かべた。
「ありがとうございます……魔君」
秦墨の拳が硬く握りしめられた。爪が手のひらに食い込み、血が滲んだ。しかし、彼はその痛みを感じる余裕もなかった。
彼は立ち上がろうとした。飛び出して行って、あの魔君を殺そうとした。婉清を救い出そうとした。
しかし、次の瞬間、蘇婉清の言葉が彼の動きを止めた。
「魔君……明日の婚礼の後、妾はどうすれば?」
「簡単だ」
赤炼魔君は彼女の耳元に顔を寄せ、何か囁いた。
蘇婉清はその言葉を聞くと、顔を赤らめた。それは羞恥の赤みだったが、同時に期待の赤みでもあった。
「妾……妾は魔君のために尽くします」
彼女の声が、夜の闇に溶けていった。
秦墨はそこで、ようやくすべてを理解した。
これは罠ではない。脅迫でもない。
蘇婉清は、本当にあの魔君のものになろうとしているのだ。
彼女は自らの意志で、彼を裏切ろうとしている。
秦墨の目から、涙がこぼれ落ちた。
だが、次の瞬間、彼の目つきが変わった。
涙は冷たい決意に変わった。優しさは、底知れぬ執念に変わった。
彼は静かにその場を離れた。
月明かりの下で、彼の背中はひと際孤独に見えた。しかしその瞳の奥では、何かが静かに燃え上がっていた。
それは絶望という名の、歪んだ執念だった。