# 第一章: 疲れた帰路
日がすっかり沈み、街灯が淡い光を放ち始めた頃、桃子は重い足取りでアパートの階段を上っていた。三階までの道のりが、今日はことさら長く感じられる。スーパーのレジ打ちの仕事は立ちっぱなしで、腰にくる。もう十年以上続けているが、年々疲れが取れにくくなっているのを実感する。
「ただいま」
鍵を開けて中に入ると、玄関には見慣れたスニーカーが一足だけ乱雑に脱ぎ捨てられていた。夫の靴はない。今日は遅番か、あるいはまた飲みに行っているのだろう。
「傑、いる?」
返事はない。リビングの灯りはついておらず、薄暗い。桃子はため息をつきながら電気をつけた。部屋の中は、思春期の男の子が一人で過ごした後の空気が漂っている。窓は閉め切られ、どこか甘やかでむっとする匂いがする。
桃子はスーツの上着を脱ぎ、ソファにどっしりと腰を下ろした。全身の骨が軋むような感覚。特に腰から背中にかけての張りはひどく、うつむくと首の付け根が悲鳴を上げる。
「ああ…疲れた…」
誰に言うでもなく声が漏れる。四十二歳とはいえ、まだまだ若い方だと言われても、この体の重さは年齢のせいだけではない気がする。夫は最近ますます帰りが遅くなり、会話も減った。息子の傑は反抗期というわけではないが、母親と必要以上に関わろうとしない。
桃子は目を閉じ、ソファの背もたれに頭を預けた。ふと、若かった頃の自分を思い出す。三十代前半までは、職場の同僚と食事に行ったり、たまに合コンに誘われたりもした。今ではそんな誘いもない。体つきがふくよかになってから、男性の視線を感じることはめったになくなった。
それでも——桃子はふと、自分の胸や腰に触れる感覚を想像する。誰かに触れられたい、撫でられたい、抱きしめられたい。そんな欲求が、日に日に強くなっている気がする。
「…何考えてるんだか」
自分に言い聞かせるように呟き、目を開けた。ダメだ。自分は母親だ。しっかりしなければ。
「傑ー! ちょっと出てきて!」
少し大きめの声で呼ぶと、奥の部屋から物音がした。ガタガタと何かを置く音の後、ドアが開く気配。
「なに?」
声のほうに向けると、桃子は一瞬息を呑んだ。
傑が、パンツ一丁の姿で立っていた。部屋着を着ているのかと思いきや、どうやらちょうど着替えていたのか、上半身は裸で、下は黒いボクサーパンツだけ。まだ湿っている髪の毛が、肩に張り付いている。十八歳らしい筋肉のつき始めた体躯が、薄暗い廊下の灯りに浮かび上がっている。
「あ、あんた…そんな格好で…」
桃子は慌てて視線を逸らそうとしたが、目が離せなかった。隆々とは言えないが、思春期の細さを脱しつつある、逞しさの兆しを見せる体。成熟しつつある男の匂いが、部屋の中に拡がっているようだった。
傑の方も、一瞬たじろいだように見えた。だがすぐに、無造作にタオルで髪を拭きながらリビングに入ってくる。
「風呂上がりなんだよ。うるさいな」
そう言いながらも、傑の視線は母親の体を一瞥していた。桃子は気づいていないふりをしたが、心臓がドキドキと鳴っているのを感じる。ソファに座る自分の体——太ももはソファの縁に広がり、胸元のボタンが一つ開いている。仕事中の姿勢でよれよれになったブラウスが、疲れた体の線を隠さずにさらしている。
「ちょっと…背中と腰が痛くてね。マッサージしてくれない?」
桃子はなるべく自然な口調で言った。傑は意外そうな顔をしたが、タオルを首にかけたまま近づいてくる。
「どこ?」
「ここ…腰のあたり。ずっと立ちっぱなしで、もうギシギシなんだよ」
桃子はソファにうつ伏せになり、腕を組みながら頭を預けた。背中の曲線が、ブラウスの下に浮かび上がる。傑が背後に立つ気配がして、桃子の鼓動はさらに早くなった。
傑の手が、遠慮がちに腰のあたりに触れる。その指はまだどこかおぼつかなく、力加減がわからない様子だ。桃子はその感触に、思わず息を漏らした。
「ん…もっと強くていいよ」
「わかった」
傑の手のひらが、母親の腰を揉みほぐし始める。最初はぎこちなかった動きも、次第にリズムを覚えていく。桃子の体は少しずつ弛緩していくが、それとは逆に、内側では何かが緊張している。
「…お母さん、最近疲れてるみたいだな」
傑の声が、頭上から降ってくる。桃子は目を閉じたまま、小さく頷いた。
「そうね…仕事も家事も、全部一人でやってるようなもんだし」
「お父さん、帰ってこないの?」
「さあね…また飲みに行ってるんじゃない」
会話が途切れる。傑の手は腰から背中へと移動し、肩甲骨のあたりを押す。桃子の肉付きの良い背中に、傑の指が沈み込む。
「…お母さん、少し痩せた?」
傑が何気なく言った言葉に、桃子は目を開けた。
「そう? 全然そんなことないと思うけど」
「いや…なんか、前より背中の感じが違う気がする」
傑の言い方は、明らかに照れくさそうだった。桃子は内心、胸の高鳴りを感じながらも、平静を装った。
「マッサージ上手くなったね。どこで覚えたの?」
「いや…別に。適当だよ」
傑はそう言いながらも、手の動きを止めない。その掌の温もりが、桃子の肌にじんわりと染み込んでいく。桃子は、この瞬間をいつまでも続けたいような気持ちになった。
だが、どこかで理性が警鐘を鳴らしている。これは自分の息子だ。 eighteen歳の、血の繋がった子供。そんな相手に、こんなにも心臓が高鳴っている自分がいる。
桃子は目を固く閉じ、その感覚を心に刻み込むように息を深く吸った。部屋の中は、二人の呼吸だけが聞こえる静けさに包まれていた。