# 隠された朝の光
## 第一章 日常の午後
鍵穴に差し込んだ金属の感触が、いつもより重く感じられた。桃子は疲れた目をこすりながら、玄関のドアを押し開けた。午後三時を過ぎたばかりの室内は、カーテン越しの柔らかな日差しに包まれていた。
「ただいま」
声が静寂に吸い込まれていく。桃子は革靴を脱ぎながら、リビングの方へと目をやった。ソファに横たわる長い影——小杰がスマートフォンをいじりながら、だらりと身体を預けていた。
「おかえり」
小杰の声は低く、ほとんど聞き取れないほどだった。桃子はバッグをソファの端に置き、隣に腰を下ろした。小杰の顔色をうかがうように、そっと覗き込む。
「学校、どうだった?」
「別に」
「別にって……何か面白いことあった?」
小杰は肩を軽くすくめただけで、スマートフォンの画面から目を離そうとしなかった。桃子は唇を噛んだ。最近、小杰の口数がめっきり減っていた。以前は学校での出来事を楽しそうに話してくれたのに、今では質問しても短い言葉でかわしてしまう。
「ねえ、小杰。何か悩んでることある?」
桃子の声にわずかな震えが混じった。小杰は顔を上げ、一瞬だけ母親を見つめたが、すぐに目をそらした。
「別に。何も」
その答えはあまりにも機械的で、桃子の胸に鋭い針が刺さったようだった。何かが小杰の中で変わっている。それを感じ取れるのに、どうやって近づけばいいのかわからない。
夕方の光が部屋の中を金色に染め始めた。桃子は立ち上がり、キッチンへと向かった。
「今日はハンバーグにしようか。小杰の好きなやつ」
「うん」
冷蔵庫から野菜を取り出しながら、桃子は何げなく小杰の方を振り返った。ソファにうずくまったまま、細長い指がスマートフォンの画面を滑らせている。思春期の少年の背中は、どこか頼りなく、そして危うげにも見えた。
「小杰、少し手伝ってくれる? サラダを作りたいんだけど」
桃子がさりげなく声をかけると、小杰は一瞬ためらいながらも、のろのろと立ち上がった。キッチンに現れた小杰の身長は、桃子の肩を軽く超えていた。久しぶりに間近で見る息子の顔には、幼さと大人への移行期特有のぎこちなさが混ざっていた。
「レタス洗ってくれる?」
桃子はレタスの房を差し出した。小杰は無言でそれを受け取り、水道の蛇口をひねった。流れる水の音が、二人の間の沈黙を埋める。桃子は玉ねぎをみじん切りにしながら、小杰の横顔を盗み見た。
「小杰、また背が伸びた?」
「……知らない」
「この前買ったばかりの制服、もうパツパツに見えるよ」
小杰は前を向いたまま、口元だけで小さく笑ったような気がした。桃子の心がほんの少し軽くなる。
「サラダ、これでいい?」
「うん、ありがとう。あとは……包丁、貸して。トマトを切るから」
桃子は振り返り、小杰の手からトマトを受け取ろうとした。その瞬間、誤って彼の手の甲に触れてしまった。ひんやりとした小杰の手に触れた桃子の指が、一瞬固まる。
はっと息を呑んだのは、どちらが先だったか。
小杰の手がびくりと動き、桃子の指も引っ込んだ。しかし、その一瞬の接触の熱が、まるで時間を止めたかのように桃子の中で残響した。久しぶりに感じた息子の肌の感触——もはや子どもの柔らかさはなく、骨ばった大人の手に変わりつつあった。
「ご、ごめん」
桃子は慌ててトマトを掴み、まな板の上に置いた。小杰はうつむいたまま、横に一歩下がった。キッチンに再び沈黙が降りる。台所用の時計が秒を刻む音だけが、やけに大きく聞こえた。
桃子は手元が震えないように意識しながら、包丁を握った。トマトの赤い断面が、まな板の上に並んでいく。
「なあ、母さん」
小杰の声が、沈黙を破った。
「なに?」
「……やっぱり、何でもない」
桃子は手を止め、振り返って小杰を見た。彼の頬がほんのり赤くなっているように見えた。
「言いたいことがあるなら、言っていいんだよ」
「だから、何でもないって」
小杰はそう言うと、自分の部屋へと足早に戻っていった。その背中を見送りながら、桃子は深く息を吐いた。胸の鼓動がまだ収まらない。触れただけのたった一瞬の接触——それがなぜ、これほどまでに心を揺さぶるのか、自分でも理解できなかった。
台所の窓から差し込む夕日が、桃子の影を長く床に伸ばしていた。ハンバーグのタネをこねる手の動きは、自然に優しくなる。子どもの頃、小杰がまだ小さかった頃も、よく一緒にハンバーグを作ったものだ。小さな手で肉だねをべちゃべちゃにしながらも、楽しそうに形を作っていた。
あの頃は、こんなふうに距離を感じることはなかったのに。
桃子は目を閉じ、記憶の中の温かな時間を思い出そうとした。しかし、さっきの小杰の手の感触だけが、鮮明に蘇る。
「わたし、何を考えてるんだろう……」
桃子は小さな声で呟くと、ハンバーグを一つ一つ慎重にフライパンに並べていった。ジュウという音とともに、食欲をそそる香りが部屋中に広がっていく。
二階から聞こえてくる物音——おそらく小杰が部屋の中でごろごろしているのだろう。桃子はフライ返しでハンバーグをひっくり返しながら、またあの感触を思い出していた。触れただけで、なぜこんなに心臓が騒ぐのか。親子なのに、なぜこんなに緊張するのか。
答えは出ないまま、フライパンの上のハンバーグだけが、香ばしい焼き色をつけていった。