# 初めての奴隷市場
闇に溶ける路地裏、月明かりすら届かない底の底で、奴隷市場は息づいていた。
林逸は黒いフードを目深に被り、石畳を蹴るように歩いていた。天才少年と呼ばれて十年、彼が知らない刺激はないと思っていた。あらゆる知識を吸収し、あらゆる快楽を味わい、あらゆる権力を手にした。それでも、この場所だけは特別だ。
奴隷市場の空気は濃密だった。汗と鉄と媚薬の匂いが混ざり合い、重く肺に沈む。檻の並ぶ通路には、人間を売り物にする独特の熱気が立ち込めている。
「いらっしゃいませ、お客様。今日は上物が揃っておりますよ」
声をかけてきたのは、右目に傷痕のある仲介人だった。脂ぎった笑みを浮かべ、手を引きながら奥へと誘う。
林逸は答えず、ただ無言で檻の列を進んだ。瞳は冷たく、しかしその奥には隠しきれない好奇心の火が灯っている。
檻の中には様々な女たちがいた。首輪をつけられ、薄衣一枚で床に座らされた者。壁に鎖で繋がれ、潤んだ目で助けを乞う者。あるいは全てを諦めたように虚空を見つめる者。
どれもこれも、彼の渇きを満たすには足りなかった。
「もっと奥は?」
林逸が低く訊ねた。
仲介人の目が光った。「特別なものを見たいと? お客様は目が肥えていらっしゃる。どうぞ、こちらへ」
石段を下りる。空気がさらに湿り、冷たくなる。地下二階。ここはさらに厳重な檻と、さらに過酷な調教が施された奴隷たちが収められている。
そして、彼女がいた。
通路の突き当たり、一際大きな檻の中に、一人の女が立っていた。他の奴隷たちとは明らかに違った。彼女は鎖にも首輪にもつながれず、ただ静かに壁に凭れ、うつむいている。
林逸は足を止めた。
「あれは…?」
「特別な一品です。ですが、まだ売り物ではございません。調教の途中でして」
「調教の途中?」
「ええ。あの女は、自分の身体に入った者の感覚を全て味わうことができる。そういう特殊な体質でしてね」
林逸の呼吸が微かに速まった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。彼女の身体は、いわば空の器。そこに別の意識が入り込めば、その意識は彼女の感覚をそのまま体験できる。痛みも、快楽も、全てが生々しく」
鳥肌が立った。林逸の天才的な頭脳は、瞬時にその可能性を計算した。つまり、あの女奴の身体に入れば、彼女が受ける全ての刺激を自分自身のものとして味わえるということだ。
「あの女を買いたい」
仲介人は首を振った。「申し訳ございません。先ほど申し上げた通り、まだ調教中でして…ですが、ご体験されることは可能です」
「体験?」
「身体交換装置がございます。お客様の意識をあの女の身体に転送するものです。一時的に、ではありますが」
林逸の唇が弧を描いた。
「それでいい」
装置は簡素なものだった。金属のヘルメットのような形をした器具が、コードで繋がれている。林逸はそれを被り、向かいの椅子に座るよう指示された。目を閉じると、かすかな振動が脳髄を揺らした。
暗転。次に開いた時、世界が変わっていた。
彼は檻の中に立っていた。いや、彼女の中にいた。自分の身体ではない。細い腕。柔らかい肌。胸の重み。そして何より、全ての感覚が生々しく、鋭敏だった。
「おや、意識が乗り移ったようだね」
声は外から。自分の声だ。いや、元の自分の身体が、檻の外からこちらを見下ろしている。
林逸は自分の手を見た。細く白い指。かすかに震えている。初めての感覚だ。天才として全てを掌握してきた自分が、この指一本すら思い通りに動かせないような錯覚に陥る。
「まずは基本的な拘束から始めよう」
元の自分の身体が言った。いや、それは身体交換装置を操作する仲介人の声だった。自分は今、奴隷の女の身体の中にいる。その事実が頭をかすめると同時に、何かが彼の首に巻きついた。
革の首輪。冷たく、ひんやりとした感触が肌に吸い付く。バックルが留められる音が、耳のすぐ後ろで響いた。
「これは…」
自分の声ではない。女の声だった。高く、か細い。自分の意識がこの喉を震わせているのだ。
次に手首に、冷たい金属が触れた。手錠だ。ぎちぎちと締め付けられる感触。抵抗しようと思えばできたかもしれない。だが、林逸はしなかった。むしろ、その拘束の感覚に身を委ねた。
「どうだね? 初めての感覚だろう?」
檻の外から、自分自身(元の身体)が話しかけている。いや、仲介人が操作している元の自分の身体が。
林逸は答えなかった。代わりに、ゆっくりと顔を上げた。檻の外には、数人の男たちが立っていた。皆、彼を見つめている。いや、彼女を見つめている。その視線が肌を這うような感触があった。天才として数多の視線を浴びてきた林逸だが、これは違う。所有する視線、値踏みする視線、欲望を隠さない視線。
「足枷もつけるぞ」
屈んだ男が、彼の足首に金属の輪をはめた。金属が肌に触れ、重みが足を引っ張る。立っていることすら、今は特別な行為に思えた。
「全てつけた。立ってみろ」
言われるままに立ち上がる。首輪の重み、手錠の冷たさ、足枷の存在感。自分の身体が他人の所有物になったかのような感覚。それがなぜか、彼の脳髄を甘く痺れさせた。
「どうだ? 初めての感覚は」
仲介人の声が響く。
林逸は口を開いた。女の声が出る。それはかすかに震えていた。
「…素晴らしい」
その一言に、全ての興奮が凝縮されていた。
天才少年は今、初めて本当の意味で何者かに支配されていた。自ら望んで、奴隷の女の身体に入り、拘束され、見つめられている。その感覚は、彼が今まで味わったどんな快楽よりも、鮮烈で、生々しく、甘美だった。
「もっと…もっと見ていろ」
林逸は囁いた。誰にともなく。自分自身に。あるいは、この身体に。
男たちの視線がさらに熱を帯びる。彼はその視線の海に身を浸し、初めて味わう従属の快楽に、静かに溺れていった。